第13話「反撃の前奏曲」
地下牢の冷たい空気が、かすかに流動した。
鉄格子が開き、二人の看守がエリオの両脇を固めて立ち上がらせる。
長期間の幽閉と劣悪な環境でエリオの体は限界に近かったが、両足を踏ん張り、自らの意志で一歩を踏み出した。
地上へと続く螺旋階段を登りきると、突き刺さるような冬の陽光が視界を白く染める。
目を細めながら案内された先は、王都の中心にそびえる大聖堂の審問の間だった。
高い天井に描かれた聖人たちのフレスコ画が、冷たい威圧感を持って見下ろしている。
色鮮やかなステンドグラスから差し込む光の帯が、磨き上げられた大理石の床に幾何学模様を描いていた。
広間は、数百名にも及ぶ貴族、高官、そして傍聴を許可された市民たちで埋め尽くされている。
人々のひそやかなざわめきが石壁に反響し、巨大なうねりとなってエリオに押し寄せてきた。
かつてフォンテーヌ領で无音の判定を受けた場所よりも、さらに広く、さらに残酷な公開処刑の舞台。
エリオは拘束を解かれた両手首を軽くさすりながら、法廷の中央に用意された被告席に立った。
痩せこけた体躯とみすぼらしい衣服は、周囲の豪勢な貴族たちから浮き上がって痛々しいほどだった。
だが、その紫水晶色の瞳だけは静かな熱を宿して前を見据えている。
対角線上の最も高い位置に設けられた告発人席。
そこに、祭服のような白と金の正装をまとったオーギュスト・ド・ヴァレンティア公爵が着座している。
隙のない白銀の髪、感情の起伏を一切見せない冷徹な双眸。
彼の横には、ダリウスをはじめとする調律院の上級官僚たちが控え、さらにその後ろには、エリオの真調べによる反動で傷を負ったガリウスたち被害者の姿があった。
『……完璧な布陣。誰もが息を呑んで絶望するような、圧倒的な劣勢』
エリオは一つ深呼吸をし、冷たい石の空気を肺に満たした。
審問長の厳かな木槌の音が鳴り響き、法廷が水を打ったように静まり返る。
公爵がゆっくりと立ち上がり、洗練された動作で法廷全体を見渡した。
彼の声は流麗で、聞く者の理性に直接訴えかけるような心地よい響きを持っていた。
「被疑者エリオ・フォンテーヌの行為は、王国の根幹たる調律位階制度への明白な挑戦であります。彼の所謂『真調べ』なる力は、制度の外側で無認可の音操作を行うものであり、現にその結果として、あそこにいる複数の王国臣民が深刻な身体的、精神的損害を被っております」
公爵の手が、ガリウスたち被害者を指し示す。
傍聴席から、非難の入り混じったどよめきが起こった。
「聖庁が定めた制度とは、秩序です。秩序なき音は、社会を破壊する不協和音に過ぎません。百年の平和を支えてきたこの絶対的な測定基準を、一介の没落貴族の子息が独断で覆すことを許せば、王国はたちまち騒乱の淵に沈むでしょう。法と教義に照らし合わせ、彼に厳正なる裁きを求めます」
公爵の論告は、恐ろしいほどに緻密で説得力に満ちていた。
ガリウスたちが傷ついたのは事実であり、制度の安定性という論点は多くの貴族の共感を得た。
表面上の正しさにおいて、公爵の主張に隙はない。
エリオの支持者として傍聴席の片隅に座っていたマリエルでさえ、不安に唇を噛みしめている。
『ここで同じ土俵に立って、僕の力は正しいと反論しても、ただの言い訳にしか聞こえない。制度の是非を論じるんじゃない。制度の実態を暴くんだ』
「被疑者、エリオ・フォンテーヌ。告発に対する反論はあるか」
審問長の声に促され、エリオはゆっくりと顔を上げた。
法廷中の視線が、痩せ細った少年に突き刺さる。
エリオの声は高くも大きくもなかったが、よく通る落ち着いた響きを持って大聖堂の隅々にまで届いた。
「公爵閣下のご指摘には、正しい部分があります」
その第一声に、法廷全体がざわめいた。
被疑者が自らの過失を認める展開は、誰も予想していなかったからだ。
公爵の冷徹な目にも、一瞬だけ警戒の色が走る。
「僕は真調べの力に溺れました。人の音を見出すことに夢中になり、彼らの心が新しい音を受け入れる準備ができているか、そのケアを怠りました。結果として、ガリウスたちに消えない傷を負わせてしまった。これは僕の責任であり、被害を受けた方々に心からお詫び申し上げます」
エリオは深く頭を下げた。
その言葉には、前世で自分自身を壊し、今世で仲間を壊してしまった彼自身の切実な後悔が込められていた。
傍聴席が静まり返る中、エリオはゆっくりと頭を上げ、公爵を真っ直ぐに見据えた。
その声が一段低く、鋼のように硬くなる。
「しかし……僕がお尋ねしたいのは、なぜ彼らが本来の音色を見出されることなく、偽りの測定のまま、あそこまで追い詰められて人生を歩まされていたのか、という点です」
「詭弁だな。彼らの才能は、聖庁の共鳴晶が正しく判定した結果に過ぎない」
「本当にそうでしょうか? 調律院が、意図的に特定の音を黙らせていたのではないですか」
エリオは振り返り、傍聴席にいるマリエルに向かって小さくうなずいた。
マリエルが立ち上がり、審問長に向かって重々しい革袋を差し出す。
「新証拠の提出を求めます。それは、聖庁調律院の旧文書庫、壁の裏に隠されていた過去数十年分の位階測定の原本です」
ダリウスの顔色が土気色に変わった。
公爵の表情は崩れなかったが、その指先が法廷の机の縁を白くなるほど強く握りしめた。
提出された書類が審問長たちの手で改められると、法廷の空気が劇的に変化していく。
特定の家門に有利な測定結果を与え、脅威となる才能を低く判定した改竄の記録。
三年前にフォンテーヌ家を没落させた共鳴災害もまた、この操作の一環であり、真の音色を聴き分けるエルヴァンの力を排除するための捏造だったことが記されていた。
「出所不明の文書で聖庁を貶めようとは。それこそ秩序への挑戦ではないか」
公爵は声を荒らげることなく、冷ややかに反論した。
「その書類が本物であるという証拠がない。偽造による法廷侮辱罪をさらに追加するべきだ」
そのとき、法廷の後方から、重い扉が開く音が響いた。
「いいえ。その書類は本物です。私が証明します」
歩み出てきたのは、公爵の実の息子、リュシアン・ド・ヴァレンティアだった。
彼の登場に、公爵の完璧な無表情に初めて明らかな亀裂が走る。
リュシアンは父の視線を避けず、真っ直ぐに見つめ返した。
その手には、公爵自身の筆跡で書かれた改竄指示書が握られている。
「父上。あなたが守ろうとした秩序は、嘘の上に建っていました。本当の秩序は、真実の上にしか建たないはずです。僕はもう、あなたの沈黙の檻には従わない」
身内からの決定的な告発。
法廷に、嵐のような衝撃とざわめきが吹き荒れた。




