第三話:裏切り者 ①
暗い、暗い、暗闇の中。殆ど意味の無い事だと思っていながらも目を細め、足をつけるべき地面を探す。一歩、また一歩と。最後に休憩を取ってから四時間程が経過し、最早言い争う気力すらも残されていない。ジメジメとした空気が首筋を撫で、暗黒の中で皆の足音だけがその場を満たしている。
十二年前のミフュース襲撃。その為にネストを横断せんと画策しているマーナ兵達数百名。グレアも、フィリアも、当時の隊長・『ハリス』も、皆が長期に渡る極限状態の中で、いつ襲ってくるかも分からない魔獣に怯え視覚以外の感覚を研ぎ澄ませていた。湿った大地が足元を支配し、周辺には方向感覚を根絶やしにする木々。幹も枝葉も不可思議な力で捻じ曲がっており、真っ黒な葉と根が彼らを挟み込む。最早周囲の呼吸音すら煩わしく感じてしまうが、この暗闇の中ではそんな呼吸音すらなければ仲間の安否を知る事すら出来ない。
「全体……止まれ……」
グレアが自らの下した判断を後悔していた時、すぐ前を歩くハリスの方からその様な声が聞こえてきた。彼女が俯いた顔を上げてみると、十メートル程前方にとある情景が広がっている事に気が付いた。
葉と葉の隙間から漏れ出る、スポットライトを落とした様な光。それはここ数日拝むことの出来なかった上空から降り注いでおり、すぐ目の前に光の円形を落としている。しかしその明かりは暗黒の世界を照らす女神の光であると同時に、非情な深海に灯るチョウチンアンコウの触覚でもあった。何故か?その場にいた皆が見てしまったからだ――。
その光に照らされる、異形の人型魔獣の姿を。一見するとその魔獣は人の様にも見える形をしているが、その顔には目も、鼻も、耳も、人間を構成する要素は何も存在していない。代わりにその顔面には人間で言う所の両目に三本ずつ線が伸びているだけだ。肉体もまるで木の枝の様に細く、光に当てられた全身がまるで銀の様に白光りしている。
そんな魔獣がその場に佇み木漏れ日を眺め続けていたのは、マーナ兵達に気付いていなかったからなのだろうか、それともそもそも興味が無かったからなのだろうか。だが三十秒程経過して遂に魔獣がこちら側にその顔を向けた時に初めて、グレアは初めて気が付いた――その魔獣の顔面に入った六本の横線、その隙間から彼らを覗き見ている幾億千万もの小さな瞳に。その目玉一つ一つがギョロギョロと動いており、マーナ兵達に娯楽の視線を向けている。その魔獣がこちら側に向かって人差し指を向けた時になっても、行動を起こさんとする者は一人としていなかった。
グレア達に襲いかかるは、圧倒的恐怖。足が竦み、両手の震えは止まらない。まるでサバンナの鹿が百獣の王に対して感じる様な根源的かつ潜在的な本能。逃げなければ死ぬ。動かなければ死ぬ。あの腕から、あの魔獣から逃げなければ。今すぐに、今すぐに逃げなければ――。
「うわあぁぁ!!」
上半身を起き上がらせて毛布を吹き飛ばす。呼吸を荒くして急いで周辺を見渡すと、そこは良く見慣れた自分の部屋であった。ベッドのすぐ横に小さな棚と作業机、足元側には出入り扉。カーテンを閉ざされたその部屋は薄暗く、顔面から吹き出す汗が止まらない。呼吸を整える為にベッドの上で三角座りをした時に初めて、両肩が震えている事に気が付いた。
「……夢か」
グレアはそう呟くと、仕事の支度を始めた。
「グレアさん……顔色が良くないようですが、大丈夫ですか?」
「……ああ、うん、大丈夫だよ」
テレサがグレアにそう聞いたのは、いつもの六人が他班との合同訓練を終えた後の事であった。
周辺の木々はすっかりと紅葉を果たし、秋の匂いが頬を掠める。思わず欠伸が出てしまいそうな程にのんびりとした気候の中、彼らは帰路に付いている。目の下に僅かな隈を溜めたグレアはわざとらしくハキハキとした声で、
「それより、君達に重要な話があるんだ。君達が訓練兵を卒業して正式にマーナ兵になったら、『アトラス要塞』に攻め込もうと思っている」
「『アトラス要塞』って何ですか?」とエス。
「知っての通り、私達が住むマーナ国とオルトの民が住むオルト国の間には巨大な森・ネストがあるでしょ。だから私達がオルト国に攻め入ろうとした際ネストを通る訳なんだけど、何の対策もせずに往来出来る程あの森は甘くない。ネストの内部には数多の魔獣が巣食っているからね」ニッと笑い、「ここで質問。なら、どうやって私達はこのネストを渡っていると思う?」
エスはしばらく首を上に向けて考えると、
「空からネストを横切るとかですか?」
「それが出来たら良いんだけどね。まだ航空技術を軍事技術に転用出来る程発展はしていないんだ。だから一般的に、私達はそんな彼らが寄り付こうとしない聖上の道標・『アレキサンダー街道』を歩く。その街道はマーナ国とオルト国を繋ぐ様にしてネスト内に存在していて、『アトラス要塞』はそんなアレキサンダー街道の半ばにでかでかと造られた要塞なんだ。元々は私達がオルト軍の侵攻を妨げる為に建てた要塞なんだけどね、何十年か前に占拠されてしまって、それ以降一方的に攻撃を受けている」自信をたっぷりの顔になり、「でも大丈夫。今回の作戦で絶対に取り戻して見せるから」
「そのアレキサンダー街道を通らずにオルトに渡る事ってそんなに難しいんですか?」
グレアはそんな質問を聞くと僅かに目線を落とした。そのまま苦い笑みを見せると、
「まあ、不可能に近いんじゃないかな。実は十二年前、私達はイフリートの召喚士と共にアレキサンダー街道を経由せずにオルト国を渡り奇襲を行ったんだけど……あれは酷かったね。まず――」
マーナ兵達が渡り歩く暗闇の森林。そこを照らす一筋の光。そしてその光の元に佇む人型魔獣。異形の顔面に棒切れの体を携え、指差すはグレア。顔から汗が吹き出し、手足の震えは止まらない。呼吸もどこかに忘れてしまい、叫びだそうにも肺が上手く動かない。そして強烈に意識するは、迫りくる『死』。
動かなければ死ぬ。動かなければ死ぬ。動かなければ――。
そして気付いた時には、グレアの横にいたマーナ兵の上半身が消えていた。腰から下だけになっており、その断面からは黒くくすんだ血が滲み出している。それでも自らが死んだ事に気付いていないのか、足だけになってもその場に直立したままだ。
「……ぇ」
ただ茫然と困惑するグレア。そんな彼女を嘲笑うかの様にして、全ての目玉を彼女に向けている魔獣。立ち尽くす死体に、その場にいる皆の心にまで侵食してきた暗黒。その魔獣は何もする事無くグレアを見つめており、プス、プス、と時折空気の抜けた音の様な笑い声を出している。その事に気付いた瞬間、グレアは悟った。
生態ピラミッドがあるとして、その頂点に君臨するのは人間ではない事を。その頂を貪っているのは、彼ら魔獣であると言う事を。
このまま皆、あの魔獣に蹂躙され死ぬのだろう――そう覚悟したグレアの背後、そこから飛び出してきたのは、二本の角を生やした焔の蜥蜴。鋭利な爪をそれぞれ六本ずつ携えた四足歩行で、頭から突き出たその角は真っ赤で巨大。万物を切り裂きそうな鋭い目付きに、黒く焦げ切ったその皮膚。そして何よりも全身から常に湧き出ている獄炎の焔は、ただ傍に近寄るだけで発火してしまいそうな程に灼熱だ。
その名は、召喚獣・『イフリート』。
その召喚獣はグレアの背後から飛び出すと同時にその手で魔獣をいとも容易く叩き潰してしまった。そのまま間髪入れずに手の平と地面の隙間から炎が漏れ出ると、金属同士が激しく擦れ合う様な甲高い魔獣の声がその手の平の下から聞こえてきた。それでもイフリートの炎は止まる事を知らず徐々に火力が強まっていき、それと共に小さくなっていく奇声の声音。手の平と地面の隙間で炎は花びらの様に開いては閉じ、遂に一度爆発したかの様に炎が溢れ出した。その暗闇の森を炎が満たし、それを契機に魔獣の声も一切聞こえなくなった。
その後も魔獣が出現するたびに召喚士がイフリートを召喚し魔獣を蹴散らしたが、それでも彼らがネストを横断しオルト国に到着した頃には、彼らの数は当初の六割ほどになっていた。残りの四割はネストの中で魔獣に殺されたか、暗闇の中でその姿を消してしまったのだ。
そして生き残ったマーナ兵が襲撃したのはオルト国の南南西に位置する工業都市・ミフュース。周辺を城壁に囲まれ、その都市の大きさはオルト国内でも三本の指に入る程度。だが城壁を爆破してその街に侵入した際、マーナ兵を真っ先に出迎えたのはオルト兵ではなかった。
召喚獣・『タイタン』。
体長六十メートルの全身を岩石に覆われた巨人。体全体が溢れ出んばかりの筋肉質で、黄鉄鉱にも似た色の岩が全身に。人間の目と口に相当する部分には深い窪みがあるのみで、その目からは常に黄色の光が放出されている。マーナ兵達がミフュースを襲撃したのは月光に照らされた闇夜であった為、そのタイタンには全身に真っ黒なシルエットが重ねられていた。
そんなタイタンが地面に巨大なその手を叩きつけると、小指球の辺りにマーナ兵だった者の肉塊がベッタリと。苺の果汁絞りの様にしてタイタンの腕を伝い、その肘から零れ落ちた血肉が地面を赤く染める。イフリートを使ったとしても余りあるその実力差を前に、ハリスは撤退の命令を余儀なくされた。そしてマーナ国へ引き返す道中のネストにて、生き残った内の約八割が魔獣に襲われ死亡、もしくは行方不明となった。
「……分かっただろう?例え召喚獣を引き連れたとしても、生きて帰ってこれる確率は一割にも満たないんだ」
グレアのその様な話を聞きいたエス達は言葉を失っていた。いつの間にか彼らの足も止まっており、ただ俯き無理矢理に現状を呑み込む。
彼女の話を聞いていた所太陽がその身を徐々に隠し始め、空には陰影のグラデーションが出来上がっていた。一度赤茶色の木々が騒めくと、秋の夜風は少し冷たい。
「あの時、疲弊し切った私達は冷静な判断を下す事が出来ず……フィリアも失った。もっとも彼女は魔獣や召喚獣に殺されたんじゃなくて、一般人に殺されたんだけどね」寂しそうなその顔にフッと笑みを溢すと、「でもまあ、悪い事だけではなかったんだ。次の要塞攻略でその成果を示すよ」
事件はその日の夜に起こった。
夜の暗がりに紛れ、侵入するはこの基地にある中枢の建物。それは軍事基地の中心に位置しており、その周辺を帯電した鉄格子に囲まれている。その為通常であればスライド式のゲートを通るしか内部に入る手段は無いが、まあ『こんな方法』もあると言う事だ。そのせいで姿がバレないようにと着こんだ鼠色のフード付きの服が随分と土塗れになってしまったが。それを掃いながら目指すは目的の書類が置いてあるであろう部屋。もう既に目星も付けており、その部屋の鍵も首尾良く入手している。
その部屋に入ってみると、そこは大小様々な棚と書類で構成された迷路の様であった。扉以外の三面の壁には木製の棚があり、また床に置かれている大量の資料は天井近くまで積み上がっている。この中から目的の物を探すのは流石に骨が折れそうだが、根気良く探すとしよう。
取り敢えず左の棚から――ここには無い。次は正面の棚――ここにも無い。今度は右の棚。ここになければ文字通り山積みになっているあそこを漁らなければならないが――あ、多分これだ。
急いで目を通してみると、かなり私の都合の良いように事が進んだ様子だ。これ以上面倒な事は考える必要は無く、後は要塞攻略の際に計画通りに進めればだけだ。よし、ならば最後に――。
「誰だ、お前?」
ホッと安堵していた鼠色のフードの背後、そこから鈍いランプの光を当てながらそう呟いたのは巡回に来たマーナ兵だった。フードが顔を見られないようにそっと振り向いてみると、短い金髪の強面な男がその部屋の入口に。彼は初めの内こそ酷く怯えた表情をしていたが、しばらく待っても侵入者が何も喋ろうとしない事に痺れを切らしたのだろうか、その右手にあったランプを地面に置き両手をそのフードの人物の方に向けると、
「フードを下ろし、両手を上げ、ゆっくりとこっちへ振り向け」
覚悟を決めた顔でそう言った。しかしフードは何もせず、ただ顔が見えない角度でしゃがみ込んでいるのみだ。
何なんだこの侵入者は。大方要塞攻略に関する資料を窃盗しに来たのだろうが、どうして何の意思を見せない?いや、まあその方が良い。このままこいつを縛り上げて――。
マーナ兵がそう思考していた時には既に、そのフードは彼の元へと駆け始めていた。そして伸ばした右手をマーナ兵の胸に押し付けると、その手を中心として紫の魔法陣の様な物が徐々に浮き上がった。一つの円の外側にもう一つの円。その二つの円の間には何かの文字が。その魔法陣から放たれた光は見る見る内に大きくなっていき、それが最高潮に達した瞬間に放たれたのは真っ白な光線。ドン、と腹の底に溜まる音と共にそのマーナ兵の胸を貫いた。彼の胸にぽっかりと開いた穴を通してその奥にある廊下の窓に目を移すと、そのフードは窓を突き破り建物を抜け、どこかに姿を消してしまった。
「これは……」
その事件が起こった日の翌日、中枢の建物を取り囲むフェンスの内側に小柄な人がギリギリ通れる程度の大きさの穴が発見された。そしてその穴を辿っていくと、そこはエス達九十三期生達が住まう寮であったのだ。




