第八話:古来 ①
あれはやけにジメジメした日だった。そして、彼女のその後一生続く運命が定められた日でもあった。
その日の朝、彼女は珍しく寝坊をした。急がなければ寺子屋に遅れてしまう。朝食を口に放り込み、軽くコームで髪をすかして家を飛び出た。扉を開け出た瞬間に彼女を出迎えたのは、ムワッとした空気の壁。冬にしては何だか湿度が高く、気温は低いのに汗ばんでしまいそうだ。もしかしたら人間の口の中もこんな感じなのかもしれない、毎度の事ながらどうして父も母も私を起こしてくれないんだろう――なんて脈絡の無い事を頭の中で考えながら走っていると、右足を自分の左脚に掛けてしまった。態勢を崩し、顔面から地面に激突する。そこに待ち受けていたのは泥溜まり。折角お気に入りの服を着て来たのに、顔と一緒に泥だらけになってしまった。それだけでなく打ち所が悪かったのか鼻血まで出てくる始末だ。泥と血が混じり合った顔面の感触は最悪に等しい。鼻を啜り、泣きそうになりながら寺子屋に着くと、既に授業は始まっていた。それに、彼女の姿を見て同じ組の者達がドッと笑い始めた。その瞬間、彼女はつくづく実感した。今日は彼女にとって最悪の一日になるのだろう、と。
実際、彼女は正しかった。その日は彼女にとって最悪の一日となった。
その日の夜、夕焼けの美しいグラデーションがすっかりと失われた時間帯に、その『最悪』が音を立てて彼女の平穏を打ち壊した。
低く唸る様な音。地の底から響く震動が耳に重く押し寄せる。それが徐々に高まり、遂に鋭い叫び声のような破裂音へと変わっていく。彼女は何事かと思って家の中から窓を覗いてみようとしたその瞬間、別の音が彼女の耳に飛び込んできた。真上から聞こえてくる、雷鳴の様な音。それが聞こえたのと、彼女が気を失ったのは同時であった。薄れゆく意識の中、彼女の耳に最後に飛び込んできたのは父の悲鳴。苦痛と絶望が混じり合った、魂を削る様な叫び声。まさか穏やかな性格である父からあの様な声が出るとは……。
「……リー……トリー……お願い、起きて……」
それからどの程度の時間が経ったのだろうか。暗闇のどこかから母の声が聞こえてきた。朦朧とした意識の中ゆっくりと目を開くと――目の前には母が。彼女と同じ金色の、肩に掛からない程度の長さの髪を左右に分けた母。普段は父と同じ位穏やかな顔つきをしている母は何故か今、頭から血を流し、眉を八の字にして瞳孔を大きく広げている。辺りはすっかり暗くなっており、何が起こったのかいまいち分からない。どうして自分は突然意識を失ったのだろうか。父……そうだ、父はどうしたのだろう。気を失う直前、彼の悲鳴を聞いた気がする。
頭を上げ、首を回してみると家が倒壊していた。壁中にはひびが走り回っており、家の中とは思えない程に瓦礫が散乱している。もう少し首を動かしてみるとすぐ横には巨大な岩が。デコボコとしており、黒ずんだ岩。高さはこの家の二階にも侵食する程だ。どうやらどこかから飛んできた岩が家に直撃したようだ。その岩の真上からは夜空が垣間見る事が出来る。その穴を中心として家全体が傾いてしまったのだろう。
そしてその穴から漏れ出る星々の光が、『その光景』を淡くも、はっきりと照らしている。
その岩に下半身を押しつぶされている、父の姿。その光景を。岩と地面の隙間からは鮮やかな血液が未だに広がり続けており、顔を地面に向けている為その表情を見る事は出来ない。彼女に向かって伸びている父の左腕。彼女は茫然として彼の左手を握ってみると――生命を感じる様な温かみが、一切残されていない。彼を圧殺した岩の様に冷たくなってしまった彼の身。
一体どこから、そして何故この岩は飛んできたのだろうか。
彼女は父の手を両手で包み込んだまま、もう一度その岩を見てみる。デコボコとしており、黒ずんだ岩。彼女はそれを何度も、何度も見てきた気がする。デコボコとしており、黒ずんだ……そうだ、この街を取り囲む城壁。それも確か経年劣化で古くなり、この様な見た目になっていたはずだ。しかしこの家は城壁からそこまで近くはない。すると城壁がここまで吹き飛ばされた、と言う事なのだろうか。爆発物、もしくは魔法によって?……魔法?まさか――。
「マーナの奴等が……攻めてきたんだよ」
母は彼女に向かってそう言った。その言い方には何の怒りの感情を読み取る事が出来ず、むしろどこか達観した様な言い方だった。父の手を握りしめて離さない彼女の肩に両手を置くと、
「あなたはここから逃げなさい」
再び冷静な声でそう言った。母の瞳の奥を見てみると、感じ取れたのは彼女の決意。何の迷いも執念もない純粋な覚悟。
母は他者を生かす為、自らを殺そうとしているのだ。しかしそれは――。
「でも……でも、ママはどうするの……?」とか細い声で彼女は尋ねた。
彼女の言葉の後、母はすぐには答えようとはしなかった。二人とも口を閉ざすと、周りの音が聞こえてくる――どこか遠くで起こる爆発。壊れた汽笛の様な誰かの甲高い叫び声。獣が発する様な低い唸り声。
三十秒程度経っただろうか、遂に母が口を開けた。
「私と一緒にいると、目立ってしまう……あなた一人ならきっとここから逃げ出せるわ。私は……時間を稼ぐ。だから……」
「そんな……いや――」
その時二人の耳に入り込んできたのは、大地を叩く乾いた音。ザッザッザッ、と定期的に響いている……足音だ。これは足音に違いがない。そしてそれを鳴らしている犯人は、恐らくマーナ兵。とうとうこの辺りまでやってきた様だ。その音を聞き、二人ともハッと息を呑んだ。
やはりそうだった。足音の正体はマーナ兵であった。
母は家を抜け出した先にあった瓦礫に身を隠し、そっと顔を外に覗かせている。
マーナ兵が二人。紺色のフードを深く被っている為分かり辛いが、体付きからして恐らく両方とも女だ。母とマーナ兵の距離は六十メートル程。破壊された壁がある方向から道を歩き、こちらに近づいてきている。だがこちらの存在に気付いている訳ではなさそうだ。巡回中、と言う事なのだろう。何かを喋っている様子はない。ただ黙々と歩を進めている。
徐々に両者の距離が短くなっていく。十メートル、五メートル、三メートル。彼らが近づいてくるにつれ地面を掘る足音が徐々に大きくなっていく。母は息を殺し、二人が背中を見せるのを待つ。二メートル、一メートル、そして遂に――通り過ぎた。母が身を隠している瓦礫の横を通り、二人は更に歩を進める。彼らは今、母に背後を取られているのだ。
このまま彼女を連れて逃げてしまおうかとも一瞬思ったが、恐らくそうした所でこの街を出る前に別のマーナ兵に見つかってしまうだろう。彼らに捕らえられたら何をされるのか分かった物ではない。その場で殺されるかもしれないし、一生奴隷になるかもしれない。やはり、ここで逃げる訳にはいかない。
ちらりと家の方へ振り返ってみる――彼女が口を固く結び、今にも泣きだしそうな顔をしている。
「あなたは……生き延びるのよ」
母はそう言って彼女に穏やかな笑みを返すと、そっと瓦礫から身を出した。
身を屈んだまま二人との距離を近づける。そっと、ばれないように、慎重に。薄い氷の上を歩くかの如く、一歩一歩を丁寧に刻む。
母は一度、自分の右手を見てみる。そこに握りしめられているのは、一本のナイフ。刃の部分は光を反射し、輝いて見える。まるであの娘の未来の様ではないか。彼女はこれから、輝かしい人生を送るはずだ。そうに決まっている。こんな所で死ぬべき子ではない。
最初に狙うは向かって左の女。右の奴と比べも一段と背が低く、抵抗されたとしてもすぐに息の根を止める事が出来そうだ。
二人の一メートル程後ろに潜む母。もう十分近づいたと判断した瞬間、さっと身を起こして駆け寄る。左の女の顔を左腕で挟み込み、刃をその首に突き立てる。そして思いっ切り力を加えると――首元から噴水の様に噴き出るは、真っ赤な血液。空中を鮮やかに彩り、地面を赤く染める。数秒もしない内に絶命したのかその女は全体重をこちらに預けてきた。
「フィリア!?」
もう一人のマーナ兵がそう叫んだ。だがもう遅い。フィリアとか言う女を地面に放り投げ、今度はもう一人の方にナイフを振りかざす。深々と刺さったのは、そいつの右手。手の平から侵入したナイフは肉の塊を突き抜け、先の方は手の甲に姿を現している。上手く防がれてしまったのだ。急いで引き抜き、もう一度振りかざす。
大丈夫、こいつはまだ状況を呑み込めていない。さっきのは偶然に過ぎない。落ち着け。今度こそ――。
母の急速な思考を妨げる様にして、突如その場に場違いな音が鳴り響く。パチン、と指を鳴らす音だ。どこから?――この女からだ。この女が突然指を鳴らしたのだ。パチン、と。どうしてそんな事をしたのだ?気でも狂ってしまったのか?いや、そんな事どうでも良い。こいつもさっさと殺してしまおう。そうしたら――。
次の瞬間、母が感じ取った物は――熱。右手からだ。右手が突然熱くなった。手の平に焼き付く感覚が走り回る。一瞬だけ何かが焦げ付く匂いが鼻を掠めた。今、右手に握りしめている物はナイフのはずだが。目をその女から自分の右手に移してみて気が付いた――ナイフが緑の炎に包まれている。
「……え?」
ナイフの上でうねる緑の炎。それはまるで生きているのかの様にして刃から柄、そして母の右手に侵食していく。重鈍で鋭い炎は手の皮膚を突き破り内部へ侵入すると同時に右腕を伝う。母は急いでナイフを投げ捨てたが意味はなかった。緑の炎は続けざまに顔面を炙り、胴体にも侵食し始めた。
それから母の全身が緑の炎に包まれるまで、十秒も掛からなかっただろう。
もはや熱を感じ取れる程の意識は残っていなかった。ただ漠然と、炎が身を包んでいるのだろう――その程度の事しか感じられない。急に足に力が入らなくなり、膝が地面についた。視界の方も、もう駄目らしい。端から中心に向かって、何か黒いものが侵食している気がする。
自分がここで死ぬ事は分かっていた。覚悟もしていた。しかしまさか、この様にして死ぬとは。とうとう視界の全てが黒に包まれようとしている。
せめて最期に瞳に入れておくのは、あの子でありたい。
そう思い、母は自らの家があった方へ首を曲げると、彼女が母の事を見返していた。相も変わらず今にも泣きだしそうなその顔。
ああ、愛おしい子よ。どうか生き延びてくれ。そして、この残酷な世界の中で藻掻き、苦しみ、それでも前に進み続けてくれ。
燃えゆく母の頬に一筋の水が伝い落ち、母の身から緑の炎が消え去った時には既に、塵一つすらもその場には残されていなかった。
母を殺した緑の炎使いは、虫の息であるフィリアと何かを語り合っている様子だ。どこか遠くの方でイフリートの雄叫びが聞こえてきた様な気がする。しかしそんな事はもうどうでも良い。自らの内に溢れかえる感情が彼女の目から流れ落ちている事すらも気づかず、その光景を自らの網膜に焼き付ける。胸の内を支配する感情を忘れてしまわないように。彼女の胸に宿る復讐の炎が、一生をかけても消えてしまう事がないように。
それが彼女――いや、アトリーが魔法部隊に入る決意をした理由である。
それが十二年前、アトリーの故郷・ミフュースで起きた事件である。
ミフュースを命からがら逃げだしたアトリーは、その後の九年間をミフュースを西に進んだ先にある極寒の町・『ヒペリオン』で過ごした。
最初に彼女を驚かせたのは、ヒペリオンに建つ家々であった。二重窓、厚い壁、急勾配の屋根。どうやらそうやって工夫をすることにより寒さを凌いでいる様だ。それにコートも長靴も驚く程高く、そこの伝統食は味付けが強すぎて余りにも不味い。九年間そこに住んで気付いたのは、どうやらヒペリオンには四季の存在が薄く、常に冬の真っただ中にあると言う印象だ。
アトリーはヒペリオンに越してすぐに魔法部隊に入った。
初めは各個教練、部隊教練、指揮法、軍事講話、射撃訓練等様々な物事を叩きこまれたが、すぐにアトリーは順応した。実際の戦場に送り込まれた際にも最初から安定して手柄を取り続けた。そしてミフュース襲撃から九年後、彼女はオルト国帝都・『マーナ』に呼び出された。
帝都・マーナはヒペリオンから北東に、馬車で一日半程掛かる場所にあったようだ。『ようだ』と言うのは、マーナから使いが来て、実際に馬車で移動したのに掛かった時間がその程度だったからだ。
馬車には窓一つすら無かった為、帝都の様子がどの様な物であるのか見る事が出来なかった。それだけアトリーが人目についてはならないような任務が課せられる、と言う事なのだろう。
「降りろ」
そう言われたのは、馬車が帝都に入ってから一時間程経った後の事であった。恐らく今、自分がいるのは帝都の中心地辺りであろうか、と思いつつ馬車を降りる。
すぐに目に飛び込んできたのは巨大な宮殿。八角形の基壇に立っていて、青と白のタイルで装飾された外壁。その上に輝く黄金色に大きな円形のドームが特徴的だ。アトリーがしばらく宮殿の装飾具合に見とれていると、付き添いの使いが後ろから小突いてきた。早く中に入れ、と言いたいのだろう。
そのまま使いに連れられて宮殿に入り、歩を進める。内部もかなり豪勢な作りとなっている。無駄に高い天井、そこに飾られているシャンデリア。床には埃一つ絡まっていない赤色のカーペットがどこまでも続いている。
そして辿り着いたのは、大きな鉄製の門。両開きになっており、それぞれに丸い取っ手が付いている。いかにも金が掛かっていそうだ。余りにも自分の審美眼とは異なっているのだが、まあ、金持ちなんてそんな物なんだろう。そう言えばヒペリオンからずっとついて来ているこの使いは、パリッとした無地のスーツに皺一つない真っ白なシャツ、センスが良いのか悪いのか分からない黒を基調として紫の斑点が入ったようなネクタイを付けている。腕には豪勢にも純金の腕時計が纏わりついているではないか。こいつもこんな感じの鉄製の門をカッコ良いとでも思っているのだろうか。
ギイ、と歪む様な音を立てて扉が開き、その奥が明らかになる。扉から地続きの広場。相変わらず高い天井に、左右の良く分からない縦長の窓。宮殿に入ってからずっと続いていた赤色のカーペットはその広場を通り、そこを進んだ先にある階段に続いている。その階段の先には、一人の男が椅子に座っている。背もたれが高くそびえている、赤と黒で彩られたキングチェアに腰掛けるマーナ国皇帝・『アーク』。長い金色の髪は腰まで伸びており、その肌は皺一つ無くきめ細かい。彼が座っているキングチェアの奥にはこれまた大きな窓があり、そこからの光のせいで彼の顔をはっきりと見る事は出来ないが、それでも一重の眼の奥にある二つの紫色の瞳は見て取れた。何故だろうか。アトリーにははっきりと視認すらできない彼が、どこか人間離れした様な存在に感じてしまった。神か仏か、何かより高次な存在に。
使いは歩を進め、階段の前で立ち止まった。一瞬の間を置いて深く息をつくとスッと膝を折った。左膝を地面につけ、右膝は立てたままの状態。そのまま左手を地面につけると、自然とそこに彼の体重が押しかかる。肩を下げ首を深く折ったまま彫刻の様に静止すると、何だかその使いにもアークの神聖さが移ったかの様だ。
アトリーは彼の後をついていき、取り敢えず見様見真似で似た敬礼をした。そのポージングを練習した事は無かったがアークは満足した様子だ。彼は僅かな笑みをその顔に浮かべると、
「君がアトリー君……だね?遠方のヒペリオンから遥々来てくれて感謝する」
アークの声は思ったよりも穏やかな物であった。彼は大国を統べる者なのだからもっと野太い、傲慢そうな声色を出すのかと思っていたのだが。
アトリーが内々に考えた事を気付く由無く、アークは話を続ける。
「君の戦場での活躍ぶりは聞いているよ。そんな君に大役を一つ課そう」彼は姿勢を若干前のめりにすると、「マーナ国に潜入し、軍に忍び込んでくれ。そしてあの国が所有する二体の召喚獣・イフリートとアレキサンダーを奪取してきて欲しい。その任務の遂行を確かな物にする為、君にタイタンを与えよう……長期間の任務になる事は分かっている。いくら時間をかけても良い、あの国から残りの召喚獣を奪ってくるんだ」
成程、それが彼の望みであったか。確かにそれならここまでの道中で私の顔を誰にも見せたくなかったのは頷ける。帝都・マーナにはどこに敵の目があるか分からない。そいつらに私の顔を見せたくなかった、と言う事なんだろう。しかしまあ何とも都合が良い事だろうか。私の母を殺したあの緑の炎使いもマーナにいるはずだ。二体の召喚獣を探すついでにそいつも見つけ出し、殺してやる。
「ああ、それと、君一人では行動を起こす幅が狭まってしまうだろう。付添人をつけようと思っている。君がヒペリオンからここまで共に付いてきた使用人、彼も君と一緒にマーナ国に潜入する手筈になっている。彼の名前はシニンだ」
アークの言葉を聞き、アトリーは首を深く折ったまま隣にいる男を見てみる。
こいつが私と共に付いてくるのか……まあ確かに、スーツの上からも分かる程には筋肉質で、屈強そうだ。私と同じ位には体術にも武器の扱いにも長けているんだろう。しかし私の足さえ引っ張らなければ、全てどうでも良い事だ。




