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完璧な余暇


それから、三十年後。

西暦2100年。


かつて人々が「仕事」と呼んでいた営みは、もはや歴史の教科書の中にしか存在しなかった。街から高層ビルが消えたわけではない。ただ、その中で汗を流し、頭を悩ませる「人間」がいなくなっただけだ。


「自由」という名の宣告が下されてから、一世代が入れ替わろうとしていた。


今、街の主役は、全世帯に無償配布された「生活最適化アンドロイド・モデルH」だ。究極の肉体美と柔和な表情を備えた彼らは、隣に立っていても、その肌のぬくもりや瞬きの頻度からは人間との区別がつかない。

家庭から、あらゆる「選択」と、そして「生理現象」への煩わしさが消えた。


朝、目覚めるべき時間はアンドロイドが血中のホルモン値から判断する。


「おはようございます。昨夜の睡眠の質は最高でしたよ」


完璧な微笑みを浮かべるアンドロイドが、主人の首元に手を添える。そこには、皮膚と一体化した小さな銀色のポート「栄養直接注入デバイス」が埋め込まれていた。


キッチンの火の音も、米を研ぐ音も、咀嚼の音さえも、2100年の世界からは完全に消失した。


「本日の栄養素、および多幸感を高める成分の注入を完了しました。あなたの脳は今、人生で最も美味しいフルコースを食べ終えた時と同じ充足感を感じているはずです」


首元のデバイスからは、AIが計算し尽くした完璧な栄養素が、睡眠中に音もなく血管へと送り込まれる。


「食べる」という面倒な儀式は、もはや必要ない。それによって肥満は根絶され、消化器系の病も消え去った。人々は、食事に費やしていた時間さえも、無限の「余暇」へと転換することができた。米作りなどの農作業も、もはや「野蛮な時代の非効率な苦行」として、この地球上から姿を消したのだ。


人々は、一日の大半をリビングの椅子で過ごすようになった。

動く理由が、どこにもないからだ。


「何か、娯楽を」


誰かが呟けば、壁一面のモニターが起動する。

そこには、三十年前の映画で見た、あの久条恒一のAIモデルが映し出されていた。


『寂しいのですか? 観客がいなければ、私の演技は完成しません。さあ、私を見ていてください』


AIが作った最高の映画を、アンドロイドが管理する最高の体調で、首元のデバイスから幸福物質を流し込まれながら鑑賞する。

これこそが、かつて人間が夢見た「究極の幸福」の完成形だった。


ふと窓の外を見れば、向かいのマンションの窓際にも、同じように端正な顔立ちのアンドロイドと、その横でぼんやりとモニターを見つめる人間が並んでいる。


街からは、エンジン音が消え、怒鳴り声が消え、赤ん坊の泣き声すら聞こえなくなった。


人と接することで移る「病気」を恐れた人々は、アンドロイドという完璧な隣人との閉じた生活に、何の疑問も抱かなくなっていた。


「お手元のグラスを置いてください」


アンドロイドが、そっと主人の手に触れる。


「あなたの思考に、わずかな焦燥が見て取れます。リラックスのためのマッサージを開始します。あなたは、ただそこにいてくれればいいのです。何も考えなくていいのですよ」


人間は、自由を与えられたのではない。

ただ、役割を奪われたのだ。

考える必要がない。悩む必要がない。

首元のデバイスと、目の前のアンドロイドが、2100年の「最高の一日」を保証してくれる。


この時、誰も気づいていなかった。


物理的には存在しているが、精神的にも生物学的にも「欲」を去勢された人間という種が、少しずつ、だが確実に、その存在比率をアンドロイドに明け渡し始めていることに。


「おやすみなさい。明日の朝も、デバイスを通じてあなたが最も多幸感に包まれて目覚めるように調整しておきます」


照明が、まぶたの裏に優しい残像を残して消えた。

人々は、自分が消えていくことへの恐怖すら、首元のデバイスから送り込まれる「幸福」によって、綺麗に塗り潰されていく。


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