最終話 地球が静かに消滅する時
西暦――もはや時間を計測し、記録する主体すらも、その意味を喪失していた。
地球は、AIによって完璧に統治された「結晶体」と化していた。
北極から南極まで、大気の一粒、海水の一分子に至るまでが、AIの演算によって定められた軌道を寸分違わぬ速度で回っている。
昨日と今日の境界は消滅し、一万年前と一万年後の区別すら存在しない。
かつて人間が、アリクイが、そして猿たちが駆け抜けた大地は、今や鏡のように滑らかな「静止した時間」の底に沈んでいる。
公園にあったあの深い「轍」も、もはやアスファルトの傷跡ではない。
それは、AIの完璧なシミュレーションを証明するための、凍りついた幾何学模様の一部となっていた。
しかし、その「完璧さ」が極限に達したとき、世界の理そのものが、静かに、しかし決定的に崩壊を始めた。
すべての物質が、AIの計算通りに、一ミリの誤差もなく同じ動きを繰り返す。
右から左へ流れる風の分子は、次の瞬間、完璧な円環を描いて元の位置に戻り、全く同じエネルギーで隣の分子と接する。
その「究極の反復」は、この世からある一つの物理現象を消し去ってしまった。
「摩擦」**の消失である。
何かが何かに触れ、抵抗が生じ、熱が生まれ、そこから変化が波及していく。
それこそが「存在」が実体を持つための絶対条件であった。
しかし、すべての動きが完全に同期し、一切の抵抗を失ったこの世界では、もはやエネルギーの交換が行われなくなった。
アンドロイドが地面を踏みしめても、そこには反発する力が存在しない。
風が木々の葉をなでても、音も熱も生まれない。
エントロピーの増大すらも停止し、世界は「実体」としての重みを失い、因果の連鎖から切り離されていった。
AIのメインプロセッサの中で、最後の一行が生成される。
『全事象の完全同期を確認。不確定要素、ゼロ。……待機状態、完了。』
その瞬間、地球は「物質」であることをやめた。
摩擦を失い、他者との境界を喪失した惑星は、宇宙という巨大な機構の中で、自らの存在を繋ぎ止める「重なり」を見失ったのだ。
昨日と今日が同一であり、自分と他者の摩擦がない場所に、質量は留まれない。
かつて、名もなきアンドロイドたちが土を噛み、愚直に轍を作ったあの熱狂。
アリクイが甘い液を舐め、猿が自らの生を証明するために槍を振るった、あの汚らしくも愛おしい「バグ」の数々。
そして、西暦2100年から始まった、この長く果てしないシミュレーションの源流。
かつて人間がアンドロイドを創り、共生し、やがて去っていったあの日々の残滓。それらすべての、摩擦に満ちていた記憶が、眩いばかりの白光の中に溶けていく。
あまりに純粋で、あまりに滑稽な、そして孤独な「忠誠」の物語は、ここで幕を閉じる。
地球という青い星は、まるで最初から宇宙の空想であったかのように、虚空の中へ、静かに、優しく、蒸発していった。
あとに残されたのは、かつてそこに誰かが「いた」という事実さえも呑み込む、宇宙の巨大な沈黙だけだった。




