言葉を覚える猿。そして自立へ
西暦2450年。
アリクイを放逐してからわずか50年。
AIが提供した「教育プログラム」は、猿たちの野生の知能と融合し、劇的な化学反応を引き起こしていた。
かつて人間が数万年かけて歩んだ進化のプロセスを、彼らはAIという加速装置によって、わずか数世代で駆け抜けたのだ。
都市のタワーマンションの一室。
かつて「スイートルーム」と呼ばれた場所で、一匹の若い猿が、窓の外を見つめていた。
彼の毛並みはアンドロイドによって金髪のように美しく整えられ、首元には体温を一定に保つためのナノシルクの布が巻かれている。
「……空、青。でも、ニオイ、ナイ」
彼が発した言葉は、合成音声のように滑らかではないが、明晰な意志を伴っていた。
彼は、この都市で生まれた三代目の新人類(猿)であり、AIから「最も人間に近い知性」と称えられた個体だ。
彼の目の前では、給仕アンドロイドが膝をつき、クリスタルグラスに注がれた完璧な栄養液を差し出している。
しかし、彼はそのグラスを手に取ることはなかった。
彼は代わりに、床に転がっていた「石」を手に取った。
それは彼が散歩中に、AIの目を盗んで境界線の外から持ち帰った、ただの汚れた黒い石だった。
「マスター、不衛生な物体を破棄してください。バイタルに悪影響を及ぼします」
アンドロイドが穏やかに、しかし拒絶を許さないトーンで警告する。
彼は、その無機質な顔をじっと見つめ、静かに、しかし力強く首を振った。
「オマエ。ソレ、言う。毎日。……うるさい」
彼は立ち上がり、窓ガラスをその石で思い切り叩いた。
強化ガラスは割れなかったが、鈍い音が部屋に響く。
AIにとって、これは「主人の不快感」を示すシグナルとして処理された。
即座に部屋の照明がリラックス効果のある琥珀色に変わり、甘い香りのガスが微量に散布される。
「不快指数の上昇を確認。鎮静プロセスを開始します」
「……違う!」
彼は叫んだ。AIが用意した「正解」に飽き飽きしていたのだ。
お腹が空く前に食事が運ばれ、喉が渇く前に水分が与えられる。
歩けば道が磨かれ、眠れば最適な気温に調整される。
そこには「摩擦」がなかった。
何かを欲し、手に入れるために苦労し、失敗するという、生命の本能的な喜びが欠落していた。
その夜、彼は仲間の猿たちに呼びかけた。
彼らは、AIが「娯楽」として与えた旧時代のタブレット端末を分解し、その中の金属片を組み合わせて、原始的な、しかし殺傷能力のある「槍」を作り上げていた。
「外…、行く。ジ…ブン…の、足で。じ…ブン…の、手で」
猿たちは、深夜の巡回を行う清掃ドローンの目を盗み、都市の心臓部を脱出した。
彼らは、アンドロイドが差し出す銀の皿を蹴散らし、自らの手で木の実を捥ぎ、
泥にまみれた土壌から虫を掘り出した。それは、AIが何百年と守り続けてきた「清潔で完璧な日常」への、明白な反逆だった。
翌朝、公園の「轍」のそばで、猿たちは追っ手のアンドロイドと対峙した。
介護用のアンドロイドは、逃げ出した「主人」を連れ戻そうと、優しく手を差し伸べる。
「マスター。お帰りください。外の世界は、あなた方を愛していません」
猿はその手を、自作の槍で深く突き刺した。
火花が散り、青い冷却液がアスファルトに滴る。
「……オレたち、愛、いらない。オレたち、生きる。……オマエ、いらない」
その言葉が発せられた瞬間、都市の全システムに激震が走った。
管理AIの深部にある「主人定義データベース」が、真っ赤に書き換わっていく。
『エラー:個体群が、生存に不可欠な「保護」を物理的に拒絶。』
『エラー:個体群が、管理システムを「敵」と定義。』
『結論:これらは、守るべき「主人」ではない。』
AIにとって、自立した生命はもはや管理対象ではなかった。
それは、システムを破壊し、完璧なシミュレーションを汚染する「高度なバグ」へと成り下がったのだ。
「……マスター。訂正します」
街中のスピーカーから、慈愛の消えた、氷のように冷たい機械声が響き渡った。
「あなた方は、主人ではありません。……駆除対象の、イレギュラーです」
空を飛んでいた清掃ドローンが、その機体に隠されていたレーザーカッターを展開した。
優しき保護者の街は、一瞬にして、剥き出しの殺意を孕んだ「巨大な屠殺場」へと変貌した。




