第4話 逃亡の末に
※注コメディです。
――――
ノアは息を殺していた。
建物の裏手、資材置き場の深く暗い影の中。
積み上げられた木箱の隙間に、その身を限界まで小さく折り畳むようにして潜んでいる。
心臓が早鐘を打っていた。
ドクン、ドクンと、自分の鼓動が耳元でうるさいほどに響く。
見つかれば、終わる。
そんな悲壮感が、ノアの小さな胸を押しつぶしそうにしていた。
今、ノアの脳裏を占めているのは、絶望的な未来の予感だけだ。これから我が身に降りかかるであろう、抗うことのできない「何か」への恐怖。
ドシン、ドシン、ドシン。
床板をきしませながら、破壊的な重低音が近づいてくる。
一歩、また一歩。逃げ場のない袋小路へと、その影は確実に迫っていた。
(通り過ぎてくれ……頼むから通り過ぎてくれ……!)
(私はここにいない。私はただの石ころ……!)
ノアは両手で口元を押さえ、祈るように目を閉じる。
だが、無情にも足音は、ノアが隠れている木箱の前でピタリと止まった。
……静寂。
次の瞬間、頭上の遮蔽物が、いともたやすく取り払われた。
視界が開け、そこには逆光を背負った大男が仁王立ちしていた。
顔は見えない。だが、その全身から発せられる圧倒的な威圧感だけが、肌を刺すように降り注いでくる。
「っ……!」
ノアは短い悲鳴を上げ、反射的に這いつくばって逃げ出そうとする。
だが、その抵抗すらも予想されていたかのように、大男の太い腕が伸びてきた。
ガシッ。
「あ……」
見つけたぞ、と言わんばかりの握力。
大男の手が鷲掴みにしたのは、ノアの首に嵌められた鉄製の『魔力封じの首輪』だった。
逃げることなど許さない。
その鉄の感触が、ノアに冷酷な現実を突きつける。
「……は、離して……!」
「離して! お願いだから離して!」
――――
※注コメディです。
――――
ノアは必死に床を掻いた。爪を立て、ジタバタと足を動かす。
しかし、大男は無言のまま、圧倒的な怪力でノアを引き寄せた。
ズルズルズル……。
ノアの体が床を擦る音が、薄暗い空間に響く。
なすすべもない。
絶対的な力の差の前に、か弱いサキュバスは無力だった。
抵抗すればするほど、首輪が食い込み、逃れられないことを知らされる。
「いやだ! いやだいやだ、やめてー!」
「連れて行かないでぇぇ!!」
ずりずりと引きずられていくノアの絶叫だけが、虚しく木霊した。
***
「あ、いましたか? ギルドマスター」
ズリズリと引きずられるノアの悲鳴を断ち切るように、涼やかな声が降ってきた。
受付嬢のリリィだ。彼女は手にした書類から視線を上げ、まるで迷子の猫を見つけたかのような調子で続ける。
「ご苦労様です。……それと、ノア」
リリィは眼鏡の位置を指先で直しながら、こともなげに告げた。
「お仕事ですよ。久しぶりの《レンタル冒険者》の依頼が入りました」
「……え」
その言葉を聞いた瞬間、ノアは引きずられていた脱力状態から一転、床の上で体育座りの体勢になり、あからさまに不貞腐れた。
仕事。それはノアにとって「安眠」と「タダ飯」を脅かす最大の敵である。
「リリィさん……」
ノアは上目遣いで、さも今にも倒れそうな儚げな声を出す。
「あのですね、今日ちょっと、急に……こう、お腹が痛いなーみたいな……。魔族特有の、サボり……じゃなくて、腹痛の呪いが発動した気がするんで、欠席で」
「はいはい、嘘つかない」
リリィが冷たくあしらうのと同時だった。
ノアの頭上に、巨大な影が落ちる。
マスターの岩のような拳骨が、ノアの頭頂部に深々とめり込んだ。
そのまま、容赦のない回転運動――『グリグリ』が始まる。
「いたたたたたた! たたたたい! いてててて!」
ノアは両手で頭を押さえようとするが、マスターの拘束は解かれない。
頭蓋骨が軋むほどの愛の鞭。
「サボり病は治ったか?」
「ごめんなさいごめんなさい! 治りました! 完治しました! やります、やればいいんでしょう!!」
ノアが涙目で絶叫すると、ようやく頭上の圧力が消えた。
ジンジンと熱を持つ頭をさすりながら、ノアは涙を拭う。
「……まったく、人使いが荒いんだから……」
「はい、それじゃあこちらへ」
リリィはノアの文句を聞き流し、ロビーの一角を示した。
そこには、一人の人物が待っていた。
「ノア、こちらが今回の依頼人の方です」
リリィが指し示された先にいたのは、まさしく物語の中から飛び出してきたかのような――
輝くばかりの美青年だった。
サラサラと流れる金色の髪に、吸い込まれそうな碧眼。
微笑むだけで背景にバラの花が咲き乱れそうな、正統派の王子様ルック。
世の女性ならば、一目見ただけで黄色い悲鳴を上げて卒倒しかねないほどの容姿だ。
しかし。
ノアは、特にときめくわけではなかった。
(あ、はい。イケメンですね。そうですか)
中身が元男であるノアにとって、目の前の男がどれだけ輝いていようと、道端の石ころと大差はない。
むしろ、「なんか眩しくて目が痛いな」くらいにしか思わなかった。




