最終話 王都冒険者ギルド
諸事情により、いったん完結させていただきます。
再会の際には、またよろしくお願いします。
王都冒険者ギルドの朝は、この世界における「常識の破壊」から始まる。
かつては、血と汗と、安酒の饐えた匂いだけが漂う無骨な空間だった。
しかし今、早朝のロビーに満ちているのは、芳醇で、どこか懐かしい、つやつやとした銀シャリが炊き上がる香ばしい匂いである。
「ああ、いい匂いだ……。
今日も一日、生き延びられそうな気がするぜ」
屈強な冒険者たちが、朝露に濡れた剣を傍らに置き、椀に盛られた白い輝きを愛おしそうに見つめる。
異世界の食文化を「塩」の一撃で塗り替えたサキュバス、ノアによる「ソルト・レジスタンス」の余波は、今やギルドの日常風景として定着していた。
だが、そんな穏やかな時間は長くは続かない。
太陽が天高く昇り、昼時を迎える頃。
ギルドの空気は「平穏」から「騒乱」へとシフトする。
食堂のテーブルでは、注文された料理が運ばれるたびに、音もなく背後から伸びる小さな手があった。
「あ!
こらノア!
また俺のポテトを盗んだな!」
「ちっちっち。
これは『サキュバス』としての抜き打ち検品よ。
毒見と言ってもいいわね」
銀髪を揺らし、盗んだポテトをリスのように頬張るノア。
その後ろには、魔王軍からの刺客でありながら、今や「砂糖派」の残党として居座るニマが、隙あらばお米に砂糖をぶち込もうと虎視眈々と狙っている。
「ノア様、
わたくしが用意した、この甘美なライスプ……」
「断る!
米は塩!
芋は塩!
これが世界の真理よ!」
くだらない争いを繰り返すサキュバスたち。
そんな彼女たちの「おやつ」を供給する、最大のパトロンもまた、定刻通りに姿を現す。
「やあ、ノア君。
今日も健気に頑張っているね。
ご褒美のプリンだよ」
キラキラとしたオーラを背負い、貴族特有の優雅な所作で差し入れを差し出すのは、アルフォンス・フェンブレイズ――通称「あるっち」だ。
ノアはポテトを放り出し、全力の上目遣いで彼に飛びつく。
「あるっちぃ!
待ってたわよ!
さっすが私の理解者ね!」
「いいんだよ。
君が喜んでくれるなら、Aランクの魔物を百匹狩るより価値がある」
その光景を、他の冒険者たちは温かい目、あるいは同情の混じった苦笑いで見守る。
そんな、活気と混沌が混ざり合う場所。
しかし、このギルドには、どれだけ場が浮かれようとも決して揺らがない「氷の壁」が存在する。
「ノアさーん」
事務的で、一切の感情を排した声。
受付カウンターの奥、書類の山に囲まれたリリィが、銀縁眼鏡を指先で押し上げながら、一枚の紙を掲げた。
ノアの動きが止まる。
「ノアさーん、昨日提出のあった必殺技の申請書なんですけど」
カウンターまでやってきたノアは、虚勢を張ってぐっと胸を張った。
薄い胸板を精一杯膨らませ、銀髪をかき上げる。
「お、私の渾身のやつだね!
審査は通ったかな?
あれがあれば、私のレンタル料も三倍、いや十倍に跳ね上がるはずなんだけど!」
リリィは答えず、無表情のまま書類の特定の一箇所を指差した。
「この……『ポーズ』の欄。
……この『ダブルピース』ってなんですか?」
「…………っ!」
ノアは急に周囲をキョロキョロと見渡し、冒険者たちが聞き耳を立てていないか確認すると、身を乗り出して小声で答えた。
「あぁ、それはね。
ピーーーーの時に、最高の笑顔でピーーーするポーズのことで……
サキュバスとしての本能と、前世の煩悩が奇跡の融合を果たした、究極の……」
そこまで言いかけたところで、リリィの手が動いた。
一切の迷いなく、書類の全面を埋め尽くすほどの勢いで、真っ赤なインクが走る。
「却下です。
許可できません」
「えーーー!
なんでだよリリーちゃん!
表現の自由!
サキュバスのアイデンティティ!
これが通れば、冒険者なんて一撃で廃人になるレベルの……!」
「ギルドの風紀と、私の精神衛生を守るためです。
そもそも、その伏せ字が必要な時点でアウトです」
リリィの冷たい視線が突き刺さる。
ノアがなおも食い下がろうとした、その時。
背後に、巨大な影が差す、
太陽を遮るほどの質量。
一瞬で周囲の温度が五度下がったかのような錯覚。
丸太のような太い腕が伸びる。
ガシッ。
「あがっ!?」
ノアの首に嵌められた、魔力封じの首輪。
その一点を、マスターの巨大な拳が確実に捉えた。
「……許可されると思ったのか?」
地獄の底から響くような低い声。
「ちょっと来い。
お前には、ルールの再教育が必要なようだな」
「あ、アッーーー!
マスター!
離して!
私はただ、世界に笑顔(と煩悩)を届けたいだけで……!」
抵抗も虚しく、ノアの体は宙に浮き、そのまま床と摩擦音を立てながら引き摺られていく。
「助けて!これは国家権力の暴走よ!」
ズルズルと、「説教部屋」へと運ばれていくサキュバス。
冒険者たちはそれを見送りながら、またいつもの光景だと笑い、酒を煽る。
「し、申請くらいは……その……法的に認められた権利のはずでしょぉぉ……!」
「まってまって、お仕置きいやー!」
ここは王都冒険者ギルド、今日も元気な悲鳴が響く。




