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第38話 サキュバスの成長


「……痛い、痛いわ。あの変態般若……。いつか絶対に労基に訴えてやるんだから」


 王都冒険者ギルド、薄暗い説教部屋の冷たい床から、ノアはようやく這い出した。

 両足が痺れてまともに歩けない、ギルドマスターの「愛のある(物理)」お仕置きは魔族の頑丈な身体をもってしても耐え難い苦行だ。


 だが、タダでは転ばないのが元日本人の、そしてしたたかなサキュバスの性分である。

 不審者情報として手配され、不名誉な「純白の閃光」という二つ名を冠されるリスクを背負ってまで、あの森で私は戦ったのだ。

 死にかけの猪を相手に、あるっちの憐れみの視線に耐えながら、魂を削ってスキルを連打した。


「……ふふ、ふふふ。あれだけの羞恥心をコストに支払ったのよ。何かしらの対価リターンがなきゃ、経済合理性が合わないわ」


 ノアは口角を吊り上げ、誰もいない廊下で期待に胸(※当社比)を膨らませた。

 すべては、あの地道な反復練習レベリングの結果にある。

 サキュバスとしての本分、世界を跪かせる魔性の力の萌芽がそこにあるはずだ。


「すてーたすおーぷん!」


 気合を込めて、虚空に指を振るう。

 目の前に現れた半透明のウィンドウを、ノアは食い入るように見つめた。


 称号:塩派の首魁

 名前: ノア

 種族: サキュバス

 スキル:

 • 魅了(Lv.2 仮)

 • 保護欲(Lv.9)

 • 洗米(Lv.6)

 • 炊飯(Lv.4)

 • 塩加減(Lv.4)

 • 米依存(Lv.6)

 • 米職人(Lv.3)

 • むすび加減(Lv.4)

 • 洗い物上手(Lv.3)

 見た目年齢: 20歳くらい

 実年齢: 生後20日くらい

 備考: 銀の髪、薄い褐色の肌、小ぶりな胸

 特筆事項: 魔王様に忠誠だけは誓う、人類は敵(一部例外有)


「…………は?」


 ノアの思考が、一時停止した。

 ウィンドウの文字が、脳を透過していく。

 いや、認めたくない情報に対して脳が防衛本能ブロックを働かせている。


「待って。ちょっと待って。一回閉じよう。リロード、リロードが必要だわ」


 バタバタと手を振って一度画面を消し、深呼吸を三回。

 そして、祈るような気持ちで再び唱える。


「すてーたす、おーぷん……!」


 結果は変わらなかった。

 そこには、サキュバスという淫靡で恐ろしい種族のイメージを、根底から覆すような「生活感の塊」が鎮座していた。


「なによこれ! 米関係だらけじゃないのよぉぉぉ!!」


 絶叫がギルドの廊下に木霊する。

 洗米、炊飯、塩加減、むすび加減……。

 並んでいるのは色香漂う魔性の技ではなく、どこぞの老舗おにぎり屋の秘伝帳のようなラインナップだ。

 おまけに「洗い物上手」まで追加されている。

 リリィさんに詰め寄られて鍋を磨いていたあのアスレチックな時間が、しっかりと数値化されていた。


「しかも、何この称号……『塩派の首魁』?

 かっこいい響きだけど、中身はただの『しょっぱいおにぎりを広める集団のボス』でしょ!?

 魔王軍の幹部みたいな扱いで出す名前じゃないわよ!」


 憤慨するノアの目が、一点に止まる。


「……あ、でも。魅了が『Lv.2 仮』になってる」


 微かな、あまりにも微かな希望の光。

「仮」という文字が限りなく怪しさを醸し出しているが、それでもレベルが上がったという事実に変わりはない。


「ふふ……そうよね。やっぱり、あの猪相手の『チラリズム』と『閃光』は、システムに負荷をかけるほどの威力があったのよ。

 神様がわざわざ警告に来たんだから、事実上のランクアップと見て間違いないわ」


 ノアは、ウィンドウの中にある「保護欲(Lv.9)」という不自然に高い数値を見落としたまま、再び厭らしい笑みを浮かべた。

 この「保護欲」こそが、あるっちを始めとする周囲の男たちを「この子は僕(俺)がいないとダメだ」と思わせている元凶であり、彼女の生存戦略の核なのだが、本人はあくまで「自分の色気で世渡りしている」と信じて疑わない。


「よし、レベル2(仮)の実力、試してやろうじゃない。

 もう、あの変態般若に拳骨なんてさせない。

 私の指先一つで、ギルドの予算を全部『お米(非砂糖)』に回させてやるんだから!」


 ノアは鼻息荒く、給仕服の裾を整えた。

 ステータス画面の下部に並ぶ「炊飯」「洗米」といった文字が、まるで見習い料理人の履歴書のように虚しく輝いている。

 彼女は知らない。

 スキルレベルが上がっても、元の数値が「0」であるサキュバスに何を掛けても「0」であることを。

 そして、ギルドの面々が彼女を「魔性の女」ではなく「手のかかる看板娘(炊飯担当)」として温かく見守っているという真実を。


「サキュバス(米職人)の朝は早いのよ……。

 まずは洗米スキルの真価、見せてあげるわ!」


 ノアは迷走する決意を胸に、厨房へと向かって駆け出した。

 その背後で、半透明のウィンドウがふわりと消える。

 特筆事項の「人類は敵」という文字が、どことなく気まずそうに明滅していた。


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