第36話 そしてスキル上げへ
「仕様だ……仕様が悪いんだ……!!」
薄暗い森の中、ノアの絶叫が木々の間を抜けていった。
目の前の虚空に浮かぶステータス・ウィンドウを何度凝視しても、そこには『レベル』の文字は存在しない。あるのは『スキル:魅了(Lv.1)』という、あまりにも心許ない一行だけ。
そう、この世界は、敵を倒せば自動的に身体能力が上がる「親切なネトゲ仕様」ではなかった。
使ったスキルの練度や経験値のみが成長を左右する、コツコツ型の『完全スキル制』。
前世で、いかに効率よくサボり、最小の労力で最大の評価を得るかに命をかけていた元社畜のノアにとって、地道な反復練習ほど忌むべきものはない。
「だけど……やるしかないのね。ここでスキルを上げなきゃ、私は一生おにぎりマシーンか、魔国でのライスプディング刑務所行きよ!」
ノアは脂汗を流しながら、瞳にギラついた野心の炎を灯した。
ターゲットは目の前の最強パトロン、アルフォンス(あるっち)がたった今、一太刀で沈めたばかりの巨大猪、ヴォイド・ボア。
「あるっち! 予定変更よ! その猪、トドメを刺さないで! 半殺し……いえ、一分殺しくらいでキープして!」
「えっ? ああ、わかったよノア君。修行の一環なんだね」
アルフォンスは聖剣の腹で猪を叩き伏せ、ピクピクと痙攣するだけの「最高に弱ったサンドバッグ」を作り出した。
「よし……。やるわよ。サキュバスとしての本領発揮ね!」
ノアは大きく息を吸い込み、瀕死の猪に向かって一歩踏み出した。
相手は凶悪な魔獣。だが今のノアにとっては、スキル熟練度を稼ぐための「動く経験値ボックス」に過ぎない。
「くらえ! スキル:魅了!!」
ステップ1:基本
「まずはこれ! 投げキッス!」
ノアは指先に唇を当て、猪の鼻先に向かって「ちゅっ!」と放った。
猪は濁った瞳で虚空を見つめたまま、微動だにしない。
「よし、次は本気よ! ウインク!」
バチコンッ! と音がしそうなほど力んだウインク。
猪の鼻先で、一匹のハエがのんきに止まっている。ノアの色気はハエ一匹すら追い払えない。
「……ま、まだよ! 数をこなせばシステムが折れるはず!」
ステップ2:あざとさの波状攻撃
「甘いわね。これならどう! 萌え袖・上目遣いコンボ!!」
ノアはわざとらしく袖を伸ばし、半死半生の猪を見上げた。
「ねえ、お姉さんのこと、好きになっちゃう……?」
……圧倒的無風。
猪は「ブゴッ……」と弱々しい溜息をついた。それは魅了された吐息ではなく、純粋に寿命が尽きかけている音だった。
(あるっちの心情)
離れた場所でその光景を震えながら見守っていたアルフォンスは、あまりの衝撃に膝をついた。
(な、なんてことだ……。ノア君、よっぽど怖かったんだな……。あの恐ろしい魔獣を前にして、極限の恐怖が彼女の精神を壊してしまったんだ。あんなに必死に、意味不明な動きを繰り返して……。僕がもっと早く助けていれば、こんなことには……!)
アルフォンスの瞳には、同情と自責の念からくる涙が浮かんでいた。
しかし、ノアはあるっちの視線も絶望も気にせずスキルを連打する。
効率主義の化身となった彼女は、なりふり構わず次なる手札を切る。
「これでもダメなの!? じゃあ、これならどうよ!!」
ステップ3:色仕掛け
「刮目しなさい! 宇宙の真理にして、私の最終兵器!!」
ノアは深く、深く前屈みになり、その平坦な……もとい、未来ある胸元を強調する。
「チラリズム・オブ・ザ・チェスト(※当社比)!!」
……
静寂が森を支配する。
猪は、もはや恐怖すら超越したのか、虚無の表情で天を仰いでいた。
「……いいわ。ギルド内ではないから使ってもいいと勝手に判断させてもらうわよ! マスターの目は届かない! 許可なんて知るもんか! 私の持てるすべてのリソースを、この豚野郎に叩き込むわ!」
ノアは覚悟を決めた。
かつて申請書で「断固不認可」を食らい、存在自体を抹消されかけた伝説の禁じ手を。
ステップ4:禁断の奥義
ノアはスカートの裾を、職人芸のような指つきでつまみ上げた。
そして、かつて鏡の前でミリ単位の調整を重ねた、あの奇跡の角度で――。
「純白の閃光!!」
パァァァァァ……! とノアの脳内では黄金のエフェクトが走る。
しかし現実は無情。
そこにあるのは、森の静寂。
そして、パンツを晒したまま静止しているサキュバス。
猪の瞳には、もはや「何を見せられているんだ」という疑問すら浮かんでいない。完全なる虚無。
色気という概念が、種族の壁を1ミリも越えていなかった。
「……ノア君……もういい、もういいんだ……!」
遠くからアルフォンスの悲痛な叫びが聞こえるが、ノアは止まらない。
必死に、ただ必死に、色香を振りまき、スキルの熟練度を稼ごうともがく。
そこには、死にかけた『猪』相手に、色気を振り撒こうとしている、違う意味で通報直前の滑稽なサキュバスがいた。
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