閑話 職人の朝は早い
王都の空が白み始める前、まだ街全体が深い眠りの中にある時間。
冒険者ギルドの裏手にある厨房には、すでに一つの小さな影があった。
銀髪を適当なゴムで結び、萌え袖を豪快に捲り上げたサキュバス――ノアは、大きな欠伸を噛み殺しながら、巨大な木桶の前で立ち尽くしていた。
その瞳には、かつて前世で「社畜」として満員電車に揺られていた頃の、あの独特なハイライトの消えた光が宿っている。
職人の朝は、早い。
誰よりも早く起きて、まずは「お米様」の状態を確認する。
魔王領から(ニマという名のデリバリーによって)届いた貴重な生米を、冷たい水で研ぐ。
サキュバスの繊細な肌には、早朝の水は刺さるように冷たいが、米一粒一粒に付着したヌカを落とす作業に妥協は許されない。
「黒焦げ事件」以来、ギルドマスターから火力の監視を厳命されている。
ノアは魔導コンロの前に座り込み、鍋から上がる蒸気の匂いに全神経を集中させた。
やがて、厨房にお米特有の、あの甘く香ばしい香りが立ち込める。
炊きあがれば、ここからが本番だ。
熱々の飯を木桶に移し、うちわで手早く蒸気を飛ばす。
ノアは掌に「適量」の塩を馴染ませた。
前世の記憶を頼りに試行錯誤を繰り返してたどり着いた、岩塩と米の黄金比。
「熱さに悲鳴を上げながらも、その手は止まらない。
形は不格好だ。三角形というよりは、少し歪んだ多角形の塊。
だが、そこには王都で唯一「甘くない米」を供するという執念がこもっている。
握り続けること、数百個。
山積みになった「塩むすび」の群れを前に、額の汗を拭った。
朝食は、作業の合間に崩れたおむすびを口に放り込むだけだ。
一息つく間もなく、開店準備。
朝日が昇り、朝イチの冒険者たちが
「あー、身体がだりぃ」
「景気づけに何か食わせろ」
と不機嫌そうにギルドへなだれ込んでくる頃には、カウンターに塩むすびをズラリと並べていなければならない。
不愛想な売り文句とは裏腹に、商品は飛ぶように売れていく。
ガサツな男たちが、その不格好な白い塊を口いっぱいに頬張り、
「意外といけるじゃねえか」
と笑う。
その光景を見届けるのが、唯一の報酬のような気がしていた。
お昼過ぎには、あんなにあった在庫が完売する。
だが、休息はない。
「こら!
売り場の片付けが雑だぞ!
米粒が落ちてるだろうが!」
マスターの怒声が飛ぶ。
売り場を磨き上げ、そして最大の難関、巨大な羽釜の洗浄だ。
例のリリィ直伝「研ぎ汁洗浄法」を駆使しながら、丁寧に、鏡のように磨き上げる。
これをしておかないと、明日の米の味が落ちるし、何よりマスターの正座お仕置きが待っている。
全てが終われば、ようやく遅めの昼食。
冷えたおむすびと、ギルドの余り物のスープ。
そして午後。
次は「戦略会議」の時間だ。
明日の予約数、掲示板に出ている依頼の傾向、さらには王都の天候までも考慮し、明日炊くべき米の量を算出する。
これは前世で培った事務能力の無駄遣いである。
算出が終われば、息つく暇もなく夜の部が始まる。
「給仕」としての本業だ。
「エール三つ!あとポテト!」
「はいはい、今行くわよ!」
バタバタと店内を駆け回る。
――ガシャーン!!
「あ……」
「こらあ!!今日で何枚目だ皿を割ったのは!!」
マスターにグリグリと拳骨を食らいながら、深夜まで接客は続く。
夕食は、客が残した……もとい、つまみ食いしたフライドポテト数本。
深夜。
ギルドの屋根裏部屋にある狭いベッドに泥のように倒れ込んだ。
蝙蝠の羽が重い。
尻尾の先まで、鉛のように重い。
明日は今日よりも早く起きなければならない。
米を研がなければならない。
意識が遠のく中、ふと、ノアの脳内に一つの根源的な疑問が浮かび上がった。
「……なんで私、前世より働いてんの??」
サキュバスの朝は早い。
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※本作はフィクションです。
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次回、火曜日19時〜20時頃更新予定です。




