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  閑話 黒い悪夢と白き知恵


 王都冒険者ギルドの裏手、石造りの共同洗い場。

 そこには、夕闇の中で一人、

 地獄の底から響くような呪詛を吐きながら

 鍋と格闘するサキュバスの姿があった。


「とれない……ッ!

 全然とれないじゃないのよこれぇぇ!!」


 ノアは、もはや「投げキッス」を繰り出すための

 繊細さなど微塵も感じさせない猛烈な勢いで、

 タワシを握りしめていた。


 標的は、

 彼女が「お米様」を炊く際に、

 火加減を盛大に間違えて

 再起不能寸前にまで追い込んだ鉄鍋だ。


 鍋の底には、

 かつて白く輝いていたはずの米たちの成れの果て――

 漆黒の炭化組織が、

 親の仇と言わんばかりの執念で

 こびりついている。


「なんなのよ、この黒い鎧は……!

 魔王様の魔力でも練り込まれてるわけ!?


 私の渾身のブラッシング(物理)が、

 1ミリも通用しないなんて……っ」


 ごしごし、と小気味良い音が響くが、

 落ちているのは鍋の焦げではなく、

 ノアの精神的な余裕である。


 王都の夜風は冷たい。

 バケツ持ちの刑を終えたばかりの腕は、

 すでに乳酸が溜まって悲鳴を上げている。


 サキュバスとしてのステータスは、

 魅了やチラリズムといった

 「対人誘惑」に特化しており、

 焦げた炭を削り落とすという

 泥臭い労働には、

 微塵の恩恵も与えてくれないのだ。


「ああもう!そもそも、あるっちが

『君ならできるよ』なんて爽やかに応援してくるから……!


 期待されたら、元日本人の男としては

 頑張らざるを得ないじゃない……。


 でも、限度があるわよ!

 これ、もう買い替えた方が早いんじゃないの!?」


 発狂寸前。


 ノアが鍋を地面に叩きつけ、

「もう知らなーい!」と現実逃避のダンスを

 踊り始めようとした、その時だった。


「……随分と賑やかな掃除ですね。

 少しは反省の跡が見えるかと思いましたが、

 相変わらず騒々しい」


 背後から、氷点下の温度を孕んだ声が届く。


 振り返れば、

 そこには事務書類の束を抱えた受付嬢、

 リリィが立っていた。


 彼女は、ゴミを見るような、

 あるいは道端に転がる奇妙な石ころを観察するような

 冷徹な視線で、ノアの手元の「黒い塊」を一瞥する。


「リリィさん……!

 見てよこれ、呪われてるのよ!


 この鍋、絶対に呪いの装備品にランクアップしてるわ!」


「呪いではなく、ただの不始末です。


 ……見ていられませんね。

 そのまま力任せに擦っても、鍋の寿命を縮めるだけです。


 もっとも、

 あなたの腕の寿命の方が先に尽きそうですが」


 リリィは溜息をつくと、

 傍らに置いてあった水桶を指差した。


「ノアさん、

 そこにお米の研ぎ汁が残っていますね?


 先ほどあなたが

 意気揚々と捨てようとしていたものです」


「え? 研ぎ汁?……ああ、これ?


 それが何なのよ。もう用済みでしょ」


「それを鍋に入れなさい。焦げが浸るまで満たしてから、

 そのまま火にかけて、一度沸騰させるのです。


 ……いえ、あなたの火加減は

 信用できませんから、私が立ち会います。


 いいですか。

 沸騰したら弱火でしばらく煮る。それだけです」


「……はあ?何それ。


 そんな魔法みたいな方法で、

 この『暗黒物質ダークマター』が

 取れるわけないじゃない」


 ノアは半信半疑のまま、リリィの指示に従った。


 言われるがままに、

 白い濁りを含んだ研ぎ汁を鍋に注ぎ、

 魔導コンロの火にかける。


 ぐつぐつと煮え立つ

 白い液体を眺めながら、ノアは口を尖らせた。


「こんなので取れたら、苦労しないわよ……」


 だが、数分後。


 リリィの合図で火を止め、

 少し冷ましてから再びタワシを当てた瞬間――。


「え…………?」


 スルリ、と。


 あんなに頑固だった黒い残滓が、

 まるで嘘のように剥がれ落ちた。


 力を入れずとも、

 撫でるだけで銀色の肌が顔を出す。


「と……取れる!取れるわ!

 面白いように剥がれるじゃないの!!」


 ノアの瞳が、

 驚愕と歓喜で大きく見開かれた。


 研ぎ汁に含まれる成分が、

 焦げ付きを浮かせて分解したのだ。


 前世の知識の片隅にあったような、なかったような……

 そんな「生活の知恵」が、異世界の技術

(リリィの知識)として、目の前で体現されている。


「すごい……!お米様、

 食べるだけじゃなくて掃除まで手伝ってくれるなんて……!


 さすが、

 私が人生(二回目)を賭けて守ろうとしている主食だわ!


 神か、神なのか!?」


 みるみるうちに、

 鍋は元の輝きを取り戻していく。


 先ほどまでの絶望が嘘のように、

 ノアのテンションは最高潮に達した。


 彼女は綺麗になった鍋を

 両手で高く掲げ、勝利の女神を気取って叫んだ。


「やったぁぁぁ!復活!

 鍋の復活よぉぉ!!


 凄いじゃないリリィさん!

 まるでおばあちゃんの知恵袋ね!


『困った時のおばあちゃん』って感じ!

 あはははは!


 おばあちゃんの知恵、最高ー!!」


 腰を振り、銀髪をなびかせ、

 ノアは大笑いしながらステップを踏む。


「おばあちゃん」という言葉が、

 二十代半ばの、若く聡明で、

 そして少しばかり(かなり)

 年齢に関する話題に敏感なリリィに対して、


 どのような化学反応を引き起こすかなど、

 今のノアの脳内には1ミリも存在していなかった。


 ふと、背後の空気が変わった。


 夜風よりも冷たく、

 魔王軍の幹部が放つ威圧感よりも鋭い

「何か」が、ノアのうなじを撫でる。


「………………」


 ノアの背筋に、ピリリとした静電気が走る。


 笑い声が引き攣り、動きが止まった。


 掲げた鍋の銀色の表面に、

 背後に立つ人物の表情が写り込んでいる。


 そこには、

 これまで見たこともないような、

 真っ黒で、どろりとした、

 絶対的な殺気を瞳に宿した

 リリィの顔があった。


お読みいただきありがとうございました!

※本作はフィクションです。

決して口に出してはいけない言葉があります。

皆さんもお気をつけてください。


1ミリでも面白いと思って貰えたら、下の評価欄【☆☆☆☆☆】をポチッとして応援お願いします。または、一言でも構いませんので感想いただけると、作者のモチベーションが爆上がりします。


ブクマ、感想、評価、いつも励みになっています。

よろしくお願いします!

次回、日曜日19時〜20時頃更新予定です。


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