第33話 黒い残滓
王都冒険者ギルドの廊下。そこには、かつて「砂糖派」の総帥として権勢を振るったサキュバスの、見るも無惨な姿があった。
ニマは、説教部屋の扉のすぐ横で、直立不動の姿勢を強いられていた。両手には、縁までなみなみと水が注がれた木製のバケツが二つ。
「……うぅ、腕が、腕がもう限界ですわ……」
プルプルと小刻みに震える細い腕。
水面が揺れるたびに、冷たい水が彼女のつま先を濡らすが、動くことは許されない。
さらに屈辱的なのは、その首から下げられた大きなプラカードだ。
『私はギルドの風紀を乱したバカです。』
丁寧な筆致で書かれたその文字が、彼女の誇りをズタズタに引き裂いていた。
「あーらニマ、似合ってるじゃない。その『バカ』って文字、あなたのサキュバスとしての本質を突いてるわね!」
廊下の向こうから、勝ち誇った顔で近づいてくるのは、今回の戦争の勝利者――ノアである。
彼女の背後では、ギルドのロビーがかつてない熱気に包まれていた。
「おい、これマジで美味いな! 米の甘みが引き立つっていうか……」
「塩むすび最高! 酒にも合うし、何より腹に溜まるぜ!」
冒険者たちが、ノアの握った不揃いな塩むすびを、まるで宝物のように頬張っている。
「塩派」の完全勝利。
その光景を目の当たりにし、ニマの目から一粒の涙がこぼれ落ちた。
「……信じられませんわ……わたくしのライスプディングが、あんな無骨な白い塊に……。それにノア様、わたくしを煽る暇があるなら、少しは代わってくださいまし!」
「お断りよ。私は今、勝利の美酒ならぬ『勝利の白米』を堪能している最中なんだから」
ノアはそう言うと、傍らに立つアルフォンスを見上げた。
アルフォンスは、満足げに微笑みながら、ノアの頭を優しくなでている。
「よかったね、ノア君。君の故郷の味が、こうして皆に受け入れられるなんて。僕も誇らしいよ」
「でしょでしょ! あるっちのおかげよ!」
アルフォンスの脳内では、「寂しがっていたノアを助け、彼女の夢を叶えた」という輝かしい英雄譚が完結していた。
彼はキラキラとしたオーラを全開にし、もはや廊下の端でバケツを持っているニマのことなど、背景の置物程度にしか認識していない。
完全に祝勝会ムードのギルドロビー。
だが、その喧騒を切り裂くように、受付カウンターから一際冷静な声が響いた。
「――そういえば、ノアさん」
事務処理の書類から目を上げることなく、受付嬢のリリィが淡々と告げた。
「先ほどキッチンの片付けをしていたんですが……見覚えのない『黒い物体』が放置されていまして」
ノアの背筋に、一筋の冷たい戦慄が走った。
「え、あー……リリィさん、それはあれよ。魔除けよ。このギルド、最近『変態般若』が出るっていう噂じゃない? それを防ぐための由緒正しいオブジェ……」
「いいえ。マスターが先ほど、真っ赤な顔をしてこう仰っていました。
『誰だ、許可なく勝手にキッチンを使い、あろうことか鍋を焦がしてそのままにした不届き者は。こびりついたこの黒い物体を剥がすのに、どれだけの手間がかかると思っているんだ』……と」
リリィの視線が、スッとノアに向けられる。
「………………」
「………………」
沈黙が支配する廊下。
ノアは冷や汗を流しながら、必死に脳細胞を回転させた。
「……ワ、ワタシはシラナイ。多分……そう、あそこにいるニマが…………」
指を差して責任を転嫁しようとした、その時だった。
ガシッ。
「ひっ!?」
ノアの頭頂部に、先ほどのニマと同様、岩石のような強固な感覚が伝わった。
万力のような力で掴まれ、ノアの視界が強制的に上を向かされる。
そこには、般若そのものの形相で、血管を浮き上がらせたギルドマスターが立っていた。
「……あ、あれ? 居たんですかマスター。奇遇ですねぇ……あはは……」
「えーと、どこから聞いてましたか?」
「『魔除け』あたりからだ!」
「それ全部ぅ!」
ノアの悲鳴も虚しく、彼女の体は宙に浮いた。
「待って! あるっち、助けて! 冤罪よ、これは不可抗力なの!」
助けを求めて伸ばした手の先で、アルフォンスは困ったように眉を下げた。
「……ごめんよ、ノア君。規律を乱すのは、騎士道に反するんだ。しっかり反省してくるんだよ」
「裏切り者ぉーーー!!」
ズルズルと、無慈悲に引きずられていくノア。
向かう先は、ニマが立っているあの廊下だ。
数分後。
説教部屋の扉の横には、左右対称の光景が広がっていた。
左側には、すでに限界を迎えて白目を剥きかけているニマ。
右側には、同じく二つのバケツを持たされ、首から新しいプラカードを下げられたノア。
ノアのカードには、こう書かれていた。
『私は鍋を真っ黒にしたバカです。』
夕暮れ時のギルドに、塩むすびの香ばしい匂いと、二人の情けないすすり泣きが、空しく響き渡っていた。
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