第17話 種族の本能
その日、朝からノアの様子はおかしかった。
身体の奥底から込み上げる、言いようのない倦怠感と焦燥。
この世界に転生してから初めて経験する、脳が痺れるような、魂が裏返るような感覚だ。
指先に力が入らず、思考はどろどろとした霧に包まれていく。
何か、決定的な何かが足りない。
心の奥底、いや、魔族としての、あるいはもっと根源的な「存在の核」が、必死に何かを求めて咆哮していた。
「……あ、あぁ……」
ノアはふらつく身体を無理やり起こす。
ベッドから降りようとした瞬間、重力に逆らえず膝から崩れ落ちた。
板張りの床に頬を押し付けると、冷たさが心地よいはずなのに、胸の奥の火照りは消えない。
そうか……。
わたし…………。
……限界、だったんだ……。
これまで、ギルドの食堂で焼きたてのパンを頬張ってきた。
冒険者たちから分けてもらう脂の乗った肉も、アルクリームさんから貢がれる甘美なプリンも。
全部、全部、上等な食事だった。
だが、今の自分にとっては、砂を噛むような虚しさしか残らない。
それらはすべて、渇きを癒やすための「一時しのぎ」でしかなかったのだ。
紛らわせていた。
誤魔化していた。
だが、もう魂が嘘をつけないところまで来ている。
ノアは、自らの種族が抱える、逃れられない根源的な「飢え」を痛感していた。
――――
お昼時、ギルドのロビーは昼食を求める冒険者たちでごった返していた。
喧騒と熱気が渦巻く中、ノアがフラフラとした足取りで階段を降りてくる。
その姿は、異常だった。
いつもの、軽口を叩いては拳骨をもらう愛嬌のあるサキュバスではない。
虚ろな瞳は焦点が合わず、薄い褐色の肌は微かに上気している。
その背中から、何かを執拗に追い求めるような、異様なまでの「熱」が立ち上っていた。
「……っ! な、なんだ……?」
「おい、ノア……?
どうしたんだ、その顔……」
歴戦の冒険者たちが、本能的な危機感を覚えて一斉に道を開ける。
首輪はついている。
魔力は封じられているはずだ。
しかし、その細い身体からは、理性を焼き切った魔族特有の「渇望」が、物理的な圧力となってフロア中に漏れ出していた。
誰もが、サキュバスという種族が持つ恐ろしい特性――
「精魂の捕食」が始まったのだと直感した。
異変に気がついたアルフォンスが、人混みを割って飛び出す。
崩れ落ちるように倒れ込むノアを、寸前のところでその逞しい腕が抱き留めた。
「……あ、……アル……さん……」
「ノア君!
何があったんだ、返事をしてくれ!」
「私、もう……
我慢………………できない……かも……」
ノアの震えが、抱きかかえるアルフォンスの手のひらに伝わる。
しがみつくような手の力。
荒い呼吸。
そして陶酔したように潤んだ瞳。
その場の全員が、彼女が目の前の男を「食い尽くそう」としているのだと確信し、息を呑んだ。
「ノア君、僕にできることなら何でも言ってくれ!
僕の命が必要なら、捧げてもいい……!」
「…………ごめんね……
ある……さん……」
ノアの手が、弱々しくアルフォンスの襟元を掴み、自分の方へと引き寄せる。
その時。
カウンター奥で事務に追われていたギルドマスターが、血相を変えて飛び出してきた。
「待て、ノア!
やめろ!
それだけは――今ここでそれだけはダメだ!
間に合わな――!」
マスターの叫びは、一歩遅かった。
この世界に来てからずっと抑え込まれていた種族の欲望が、ついに限界を超えて解放される。
アルフォンスの首筋に顔を寄せ、ノアの小さな唇が、震えながら言葉を紡いだ。
……
……
……
……
……
「お米食べたい……………………」
そこには、
異世界の麦文化に魂を削り取られた、
根っからの日本人がいた。




