第12話 サキュバスの憂鬱
深夜の王都、冒険者ギルド。
日中の喧騒が嘘のように引き、開け放たれた窓からは冬の冷たい夜気が忍び込んでいる。
リリィをはじめとした職員たちはとっくに帰宅し、日も変わり客もまばらな閉店前のギルド内。
広いフロアには、耳を澄ませば夜風の音さえ聞こえてきそうな、重苦しいまでの静寂が満ちていた。
カウンターの中に立つのは、岩石のような巨躯を沈黙の中に置くギルドマスター。
そしてその聖域の外側には、夜露に濡れた銀髪のサキュバス――ノアが一人。
首に嵌められた無骨な《魔力封じの首輪》が、薄暗いランプの火に照らされて冷たく光る。
物憂げに視線を落とし、物思いにふけるその横顔は、まるで数奇な運命に翻弄される薄幸のヒロインのような悲壮感を漂わせていた。
「ねぇ、マスター。思うんですけど」
カウンターの端に肘をつき、ノアが消え入りそうな声で口を開く。
その角度、その溜息。彼女の脳内では、今まさにエプロン越しに強調された(はずの)胸元が、夜の静寂との相乗効果でマスターの理性を揺さぶっている手はずだった。
「得意不得意って、やっぱりあると思うんですよね」
マスターは顔を上げない。
ただ無骨な手つきで、布巾を使って木製のジョッキを磨き続けている。
「お前が今言ってるのは、皿洗いのことか?
サキュバスなら、色仕掛けが得意だろ。
客を魅了するのはお前の専売特許のはずだが」
「そういう次元の話じゃなくて!
それに、サキュバスだからってそういういかがわしい仕事ばかりになっても困るんです。
あくまで私は《レンタル冒険者》なんですから」
ノアは頬を膨らませ、一気にまくしたてた。
「いくら本業の依頼が少ないからって、給仕の仕事はちょっと方向性が違いすぎるっていうか……。
私、トレーニングだって欠かしてないですし、必殺技だって夜な夜な寝る間も惜しんで考えてるんですよ?
実際、実戦で使ってみないことには真価はわからないと思うんですよね……」
マスターの手が止まらないのを見て、ノアはますます言葉に熱を帯びる。
「信用がないのも、実力が足りないのも分かってます。
でも!
だからといって給仕の仕事に逃げるのは、私のプライドが許さないっていうか。
それに……」
ノアは手近にあったエールをグイッと煽り、喉を鳴らして飲み干した。
吐息を漏らし、空になったジョッキをカウンターに置く。
「どうにもこうにも、お客さんのところまで運ぶ途中で、勝手に足がもつれたり、手のひらが急にオイルを塗ったみたいに滑ったりするんです。
こないだだって、貴族様が注文したフォアグラのムニエルを床にダイブさせちゃったし……。
私、やっぱりこの仕事、合ってないんじゃないかなって……」
切々と、そして情けなく訴えるノア。
薄暗い照明の中で潤んだ瞳を向ける姿は、色気よりも「捨てられた子犬」のそれに近かった。
ようやくマスターが手を止めた。
彼は顔を上げ、冷ややかな、しかしどこか見透かしたような視線をノアのジョッキに落とした。
「ちょっと待てお前、何飲んでんだ」
もちろん配膳待ちのものである。




