第10話 因縁の地、許されぬ敗北
ストック切れるまで随時更新します。
王都冒険者ギルド、鍛錬場。
鼻をつく鉄錆と汗の臭い。その独特な芳香が、ノアの脳裏に忌まわしい記憶を呼び覚ます。
そう、ここはノアにとっての原点であり、最大のトラウマが刻まれた場所。転生直後、無慈悲な暴力によって自由を奪われた、因縁の地である。
ノアは今、決して負けられない戦いの只中にいた。
目の前に立ちはだかるのは、岩山のごとき大男。
丸太のように太い腕、鋼鉄のような胸板。視界を覆い尽くさんばかりの圧倒的な質量を誇るその巨体は、過去に何度もノアを絶望の淵へと叩き落とし、苦渋を舐めさせてきた「壁」そのものだ。
だが、今日のノアは一味違う。
この日のために、血の滲むような(脳内)シミュレーションを重ねてきた。
(ふっふっふ……いつまでも私が、使えない存在だと思ったら大間違いだ)
張り詰めた空気が、肌を刺す。
一瞬の沈黙。
それを切り裂くように、ノアは不敵な笑みを浮かべ、腰に手を当てて高らかに宣言した。
「刮目せよ! これが私の進化した姿だ!」
「くらえ、必殺……………投げキッス!」
ノアは滑らかな動作で顔を寄せ、指先に魔力と愛嬌を込めてキスをし、それを指先から大男の眉間に向かって「ちゅっ!」と放つ。
見えないピンク色の弾丸が、一直線に標的へと飛翔した――はずだった。
…………
………
……
無風。
(……なっ!?)
大男は眉一つ動かさない。
それどころか、飛んできた羽虫を払うような無関心さで、ただ仁王立ちを続けている。
(くっ……効いていないだと!?)
すかさずバックステップで間合いをとるノア。冷や汗が背中を伝う。
あれほど鏡の前で角度調整を行い、黄金比を計算し尽くした必殺技が、まるでそよ風のように無効化された。
あの分厚い筋肉の鎧は、物理攻撃だけでなく、精神攻撃さえも弾き返すというのか。
視界の端、鍛錬場の出入り口付近には、あの金髪の美青年―― なんたらフェイスさんが心配そうにこちらを見守っているのが見えた。
最近、彼には顔を合わす度にプリンを奢ってもらっている。
(まずい……このままではプリンが……いや、私の尊厳が!)
あの世間知らずの貴族(確定)を陥落させた(と思っている)、あの奥義を使うしかないのか。
しかし、あれは禁断の秘技。多用すれば自身のキャラクター設定すら危うくする諸刃の剣。
だが、投げキッスが通じない今、もはや手段を選んでいる余裕はない。
ノアは覚悟を決めた。
(ええい、ままよ! これが私の切り札だ!)
ノアは一度呼吸を整え、あの時と同じように、計算されたあざとさを発動しようとする。
まずは、ぶかぶかの服の袖を、指先が隠れるまで限界まで伸ばして……
(……っ!?)
その一瞬、ノアの目が驚愕に見開かれた。
……ない!
袖が……ない!!
そう、今日のノアは気合を入れて動きやすさを重視した結果、ノースリーブの戦闘服を着ていたのだ。
あるのは剥き出しの二の腕だけ。これでは、指先を隠して儚さを演出する『萌え袖』が物理的に発動不可能!
(しまったァァァァ!! 衣装選択ミス!!)
万事休す。だが、大男は待ってくれない。
こうなれば、もはや禁忌を犯すしかない。自らの羞恥心と引き換えに放つ、捨て身の最終奥義。
ノアはなりふり構わず、大男の目の前でぐっと身を乗り出した。
深く、深く前屈みになり、その胸元を強調する体勢をとる。
(見てろ……これが私の魂の叫びだ! これならどうだぁぁぁ!!)
「必殺! チラリズム・オブ・ザ・チェスト(※当社比)!!」
…………
…………
……
……虚無。
鍛錬場に、これまでとは違う質の、痛いほどの静寂が落ちた。
そこには、平坦ではないが、荒野が広がっていた。
服の隙間から見えたのは、成長期程度のふくらみ、色気という概念が、そこには存在しなかった。
大男は、深く、深くため息をついた。
呆れ果てた視線が、ノアを貫く。
ノアは、敗北した。
完膚なきまでに。
***
「……はい、お疲れ様です。一人相撲、楽しそうでしたね」
冷ややかな声とともに現れたのは、書類を手にした受付嬢のリリィだった。
燃え尽きて真っ白な灰になったノアを見下ろし、業務的に告げる。
「それじゃあノアさん。最近《レンタル冒険者》の依頼も不調ですし、その……『努力』だけは認めますが、実力が伴っていないようなので」
「……は、はい?」
「今日から、酒場の給仕のお仕事も兼任でお願いしますね。人手が足りないんです」
「えっ、ちょっ、待って! 私の特訓の成果は!?」
ノアと死闘を繰り広げていたギルドマスターは、疲れたように首を振る。
「しかしコイツ、また変な動きを覚えて……」
努力の方向性を間違えたサキュバス、ノア。
こうして、彼女の業務内容に「給仕」という新たな労働が追加されたのだった。
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