タイトル未定2025/11/24 10:21
看護師長の緑のおかげで、一時間遅れで午後の診療に入っても、何も言われなかった。
診療に入ると患者がひっきりなしにやって来て、午前中同様目の回るような忙しさだった。
一日の勤務が終わり、のんびりコーヒーを飲みながら報告会をやり、マンションに戻った頃は午後八時を過ぎていた。
さやかはまだ勤務から戻っていなく、部屋の中は真っ暗だった。
自炊するのも面倒でシャワーを浴び、乾き物をつまみにビールを飲んだ。
壁に掛かっているカレンダーを見ると、週末はすぐ側まできていた。
大門に会おうにも、大門の居場所がわからない。
大門が通う保育園で、住所を聞くか。
駄目だ……今は、個人情報保護のせいで、住所を教えてくれないだろう。
大門が通う保育園で、大門を迎えに来る瞳を待ち伏せして……。
そんなことをしたら、瞳は益々ボクから大門を遠ざけるだろう。
一体どうしたら、いいのだろう。
ボクはビールを飲みながら、思いを巡らしていた。
いつの間にかさやかが帰ってきて、目の前に立っていたことに気付くのが遅れてしまった。
「何を、ぼんやりしているの?」
「……あっ、ああ。お帰り」
「ただいま。ビール飲んで。まだ、ご飯食べてないの?」
「うん。作るの面倒で」
「医者が言う言葉じゃないなぁ。待ってて、今作るから」
そう言ったさやかは、手にしていた買い物袋から、野菜と肉を取り出し、台所に立った。
さやかが手早く作った料理は、野菜炒めと味噌汁だった。
ボクは「いただきます」と言って、箸を取った。
ボクの目の前に座ったさやかは、食べる気配がない。
「食べないの?」
「外で、食べてきちゃった」
「珍しいね。誰と?」
「職場の皆と」
「へ~そう言うの、初めてじゃない?」
「ずっと、忙しかったからね。やっと皆と、食事ができたよ」
「楽しそうだね」
さやかと会話をしながら、ボクは食べ続けた。
「七海のとこは?職場の人たちと、親睦を深めたりしないの?」
「深めたりしないよ。それより今は、仕事を覚えることで精一杯」
「そうなの?可愛い看護師さんに、声をかけられない?」
いたずらっぽい目つきをして、さやかはボクに聞いてきた。
思わずボクは、吹き出しそうになった。
「ない、ない!」
「本当に?」
「本当だって……あっ」
野菜炒めを食べていた、ボクの箸がとまった。
「どうしたの?やっぱり、誘われたりした?」
「いや、そうじゃなくて。看護師長の名前が、面白いんだ」
「どんな名前?」
「紫野緑」
ボクがそう言うと、さやかはボクの顔をまじまじと見た後笑いだした。
さやかの笑い声は、しばらくの間止まらなかった。
ご飯を食べ終えたボクは、茶碗や皿を洗い始めた。
ようやくさやかは笑うのをやめ、ボクの隣に立つと泡だらけの食器をすすいだ。
「看護師長の緑さんって、どんな人?」
「……背が高くてロングヘアで、綺麗な人だよ。師長をやるくらいだから、けっこうきつい性格だよ」
「あぁ、わかる!看護師って、きつい人が多いよね。もちろん、そんな人ばっかじゃないけど。だからさ、気弱な看護師を見かけると、心の中でエールを送っちゃう」
食器を洗い終え、ボクとさやかは濡れた手をタオルで吹いた。
手を拭き終えたボクは、思い出したように、さやかに言った。
「看護師長……緑さん。両親のことを、よく知っていた」
「えっ、七海のお父さんとお母さんのことを?」
「うん。父親が母親に一目惚れをして、緑さんが二人の仲をとりもったんだって」
「そうなの!ねっ、七海のお母さんって、どんな人?」
「綺麗で、優しい人だって」
「ふ~ん。七海のお母さんに、会ってみたかったな」
ボクを見上げて言うさやかは、今にも泣き出しそうだった。
ボクは思わず、さやかを抱きしめて言った。
「ボクも、母親に会いたかった。そして、さやかを母親に会わせたかったよ」
その夜久しぶりに、さやかを抱いた。
一時的に気持ちが瞳に揺れたとはいえ、やっぱりボクにはさやかが必要だ。
さやかと出会い、ボクたちはずっと支えあってきた。
そしてそれは、これからも……。
ただ、やはり医師として、大門のことは気になる。
翌朝、大門のことを考えながらバスを降り、勤務先の診療所に向かって歩いていると、携帯のバイブが作動した。
携帯を取り出すと、見知らぬ番号が、ディスプレイに浮かんでいた。
恐る恐る通話ボタンを押す。
「……もしもし」
一呼吸おいてから電話に出ると、思いがけない声が聞こえた。
「……七海君?」
「瞳ちゃん!」
電話の相手は、瞳だった。
ボクは歩くのをやめ、歩道の隅に行って立ち止まった。
「電話して、ごめんなさい」
「そんなこと……それより、どうしたの?何かあったの?」
「……どうして良いか、わからなくて」
「なんでも言ってよ。ボクにできることなら、なんでもやるよ」
そう言うと、瞳は、ためらいがちに切り出した。




