第八話 孤独と絶望
夜が明ける。
朝焼けとともに、春も近い東の空がゆっくりと白んでいく。タワーマンションの巨大な窓ガラスが、東京という街の眠りと目覚めの境界線を、巨大なスクリーンとなって映し出している。僕はその光景を、一睡もせずに眺めていた。
ソファから立ち上がると、軋んだ関節が悲鳴を上げた。昨日、旅行代理店のポスターを見かけたその瞬間から、まともな食事も睡眠も取らず、極度の緊張と興奮、そして使命感だけが、僕の心の奥底に渦巻いていた。
僕だけが知っている悲惨な未来。
それを、僕だけが希望へと動かせるかもしれないのだ。何万、何十万という人びとの運命を。
アドレナリンという名の麻薬が、僕の思考を異常なまでに明晰にさせていた。
「やらなければ……」
声に出してみると、ひどく掠れていた。部屋の空気は、僕一人の熱気で澱んでいる。
どうすればいい?
どうすれば、伝えられる?
そして僕は、一つの方法に頼る愚を犯さないと誓った。できることはなんでもやる。僕の武器は、未来の知識と、投資やビットコインで得た溢れんばかりの資金。
だが、金を使うことで避難を促せるとは、とても思えない。
そうではない。震災の情報が人びとの心に届き、切迫感をもって受け入れられたら、自然と避難してくれるはず。
人の命がかかっているのだ。真実を、真心をもって伝えれば、きっと届くはずだ。そう信じたかった。
僕は、サトシ・ナカモトとして学んだ「分散化」の思想を、皮肉にも情報伝達に応用する。大手メディアや政府だけに頼らない。あらゆる個人、地方メディア、ネットコミュニティに、飽和するほどの情報を同時に届ける。僕の魂の全てを乗せた、命懸けの訴えを。
最初の訴えは、デジタルという広大で、しかし虚無な空間への叫びから始まった。
僕はPCに向き直ると、全霊をかけた警告文を作成した。冷静なレポートを装うことなど、もはやできなかった。どの言葉を選べば、人の心を動かせるか。どの表現が、デマだと切り捨てられるリスクを減らせるか。タイムリープ前の記憶と現在の自分の無力さとの間で、僕は必死に言葉を探し続けた。
-----
【緊急警告】
お願いします。信じてください。
これは、未来の日本を救うための、ただ一つの情報です。
私は狂人でも、予言者でもありません。ただ、これから起こる、あまりに残酷な事実を知ってしまった、一人の人間です。この情報で社会に混乱が起きるかもしれません。その全ての責任は、私一人が負います。ですが、何もしなかったことの後悔に比べれば、そんなものはあまりに些細なことです。
どうか、この声を聞いてください。
【発生日時】
二〇一一年三月十一日。金曜日です。昼休みが終わり、皆さんが午後の仕事や授業に戻った、午後二時四十六分です。
【起こること】
1.まず、今までの人生で経験したことのない、立っていられないほどの、長い、長い揺れが来ます。それは一分や二分ではありません。永遠に続くかのように感じられる、巨大な揺れです。
これは、東北各地で震度七を記録する、これまでにない大地震なのです。
2.ですが、本当に恐ろしいのは揺れではありません。その直後にやって来る「津波」です。テレビやラジオで大津波警報が出ますが、それから慌てて逃げ出していたのでは、おそらく間に合いません。揺れがおさまってからほんの数十分で、見たこともないような黒い水の壁が、たくさんの町を全て飲み込みます。
3.これは、どこか一つの町だけの話ではありません。東北の太平洋側の全ての町です。特に、入り組んだ海岸には、信じられないほどの高さまで水が押し寄せます。
4.一度で終わりではありません。同じくらいの大きな揺れが、まるで息の根を止めようとするかのように、何度も、何度も繰り返し襲ってきます。
5.そして、沿岸部にある原子力発電所も、絶対に安全ではありません。冷却する力を失い、想像を絶する事態になります。逃げる理由は、津波だけではないのです。
【お願いしたいこと】
だから、お願いします。
この日、この時間には、絶対に海や川の近くにいないでください。
会社も、学校も、休んで逃げてください。仕事や勉強が、大事なのは分かります。しかし、命より大切なものはありません。
できるだけ高い場所へ、できるだけ海から遠い場所へ、逃げてください。高台の頑丈な建物の中です。海のそばからできるだけ離れてください。
これは、訓練ではありません。
あなたが、あなたの大切な人が、生きるか死ぬかの、たった一度の選択です。
どうかこの声が、良識あるあなたの心に届くことを、心の底から祈っています。
-----
完成したその魂の叫びを、僕はまず、主要な報道機関、官公庁の問い合わせフォームを開くと、公的情報として住民や視聴者に訴えかけるよう懇願する文章を添えた上で、一斉に送信した。送信ボタンをクリックするたび、モニターの向こう側にいる、顔の見えない誰かに祈った。「どうか、開いてくれ。どうか、読んでくれ。どうか、たくさんメールの中から、この一通だけは拾い上げてくれ」と。それでも、報道各社や官公庁の受け取るメールは毎日何千通、何万通にも及ぶだろう。送信完了のメッセージが機械的に表示されるたびに、僕は瓶に詰めたいくばくかの手紙を大海に流すような、無力感を感じ始めていた。
もちろん、それだけでは足りない。僕は続いて、巨大匿名掲示板のあらゆる関連スレッドを開いた。そこには、罵詈雑言や、無意味な会話、どうでもいいゴシップが、濁流のように渦巻いている。その濁流の中に、自分の警告文を、一つ、また一つと自分の手で投下していった。それは、騒がしい世界の真ん中でたった一人、世界の終わりを叫んでいるような、孤独な報われない行為だった。僕の必死の書き込みは、投稿した数秒後には、他の無意味な言葉の洪水に押し流され、あっという間に見えなくなっていく。その光景をリアルタイムで目撃しながら、デジタル世界の無情さを、僕は骨の髄まで味わっていた。
次に、僕はアナログな手段に移行した。デジタルがダメなら、物理的な「もの」に想いを託すしかない。
近くのあちこちのコンビニで、一番安いコピー用紙と封筒、そして切手を、店員が怪訝な顔をするほど、大量に購入する。タワーマンションの冷たい大理石の床の上にそれらを広げると、その場違いな光景そのものが、僕の置かれた状況の異常さを物語っているかのようだ。
僕は警告文を何百枚もプリントアウトし、一枚一枚に、手書きでメッセージを添え始めた。それは祈りの儀式だった。
新聞社の社会部長宛の封筒には、『ジャーナリストの魂があるなら、どうかこの記事の裏を取ってください。これは重大な内容です。人類史に残る…』と。
著名な地震学者宛には、『先生のこれまでの研究に敬意を表します。ですが、どうか、常識を一度捨てて、この可能性を検討してください。あなたの権威ある一言が、多くの命を救います』と。
地元の政治家宛には、『国民の生命と財産を守るという、あなたの誓いは本物ですか。今こそ、その誓いを果たす時です。次の選挙のことを考えている余裕はありません』と。
宛先の相手によって、文面を少しずつ変える。その一枚一枚の手紙の中で、僕は見えない相手に対して、必死で訴えかけた。インクが滲むほどペンを握りしめ、僕の指はインクで汚れ、やがて感覚がなくなっていった。
その夜、僕は書き上げた何百通もの手紙を大きなリュックに詰め込み、人気のない深夜の街へ出た。
一つのポストに全てを入れるのではない。リスクを分散させるためだ。何時間もかけて、都内各所のポストを巡礼者のように巡っていく。
冷たい金属の投函口に、最初の一通を入れる。カタンという音が、冬の静寂な夜の空気の中、やけに大きく響いた。
「届け!」
僕は心の中で念じた。この手紙が誰かに届き、それが誰かの心を動かす、その奇跡を。
また一通。「どうか、この願いが伝わってくれ」と祈る。
また一通。「これはただの手紙じゃない。何万もの命なんだ」と誓う。
僕は全てのポストが神仏であるかのように、一通一通、祈りを込めて投函していく。このたくさんの手紙だけが、僕の想いを物理的に運んでくれる、小さな希望の種なのだ。全てを投函し終えた時、東の空は再び白み始めていた。
最後の手段は、肉声だった。
僕はまず、使い捨てのプリペイド携帯を何台も契約した。それらを手に、東北の各自治体の防災課や、テレビ局の報道デスクに電話をかけ続ける。
最初の数回は、まだ冷静さを保とうとしていた。だが、マニュアル通りの対応や、即座に切られるという経験を繰り返すうちに、僕の言葉は徐々に感情的になっていく。ボイスチェンジャーを通した歪んだ声で、僕はもはや懇願ではなく、怒りに近い叫び声を上げていた。
「なぜ聞かないんだ!あんたの家族も、子供も、死ぬかもしれないんだぞ!それでもいいのか!」
しかしその叫びは、相手の心を動かすどころか、逆に警戒心を煽り、電話をより早く切らせるだけだった。受話器を握りしめたまま、言葉の届かない回線の向こう側を思い、僕は無力感に打ち震えた。僕の必死さは、相手にとっては、ただの「異常な凶人の執着」としか受け取られないのだ。
数日間、無力感に苛まれながらも、僕はこの狂気じみた訴えを続けた。
これで気付かないはずがない。もちろん大多数は無視されるにしても、これだけやれば、少なくとも誰かかひとりくらいは耳を傾けてくれるはずだ。
僕は、そう信じていた。
だが現実は、僕の祈りを木っ端微塵に打ち砕いた。
テレビも、新聞も、沈黙を続けていた。僕が投じた無数の石は、巨大な湖に、波紋一つ立てることができなかった。
ネットでの反応は、僕の心をさらに深く抉った。
「三月十一日に震度七の大地震が来るらしいぞw みんな逃げろーw」
「必死すぎて、逆に面白い」
「くっそワロタ」
僕の魂の叫びは、退屈な日常を消費するための、格好のエンターテイメントでしかなかった。
そしてある週刊誌が、僕の訴えを小さなコラム記事にした。そこにあったのは、僕への同情でも、怒りでもなく、もちろん真面目に受け取った内容でもない。ただ、「社会が生んだ哀れな狂人」として分析する、冷たい憐憫の眼差しだけだった。
僕は、PCの電源を乱暴に落とした。
使命感という炎は、冷たい絶望の水を浴びせられ、急速に力を失っていく。
ふと窓の外に目をやると、子供たちが公園で楽しそうに遊んでいるのが見えた。母親たちが、井戸端会議に花を咲かせている。サラリーマンたちが、忙しそうに駅へと向かっていく。
彼らは、知らない。
あとわずか数週間で、この平和な日常が根こそぎ奪われるというのに。
そしてその運命を、僕だけが知っている。
なのに、僕の声は誰にも届かない。
「……くそっ……」
僕は、膝から崩れ落ちた。
「くそっ!くそおおおおおおっ!!」
大理石の硬い床を、何度も、何度も拳で殴りつける。拳に血が滲み、骨が軋む音がしたが、痛みも感じなかった。それ以上に、心の痛みが僕を支配していた。
無力感。
絶対的な、無力感。
巨万の富も、タイムリープ前の未来の知識も、専門家でもないただの一般人が根拠もなくわめき立てるだけでは、何の役にも立たないのだ。
世間から見れば、僕はただの狂人なのだ。世界から隔絶された、孤独な予言者。
僕の戦いは、始まる前に終わってしまっていたのかもしれない。
深い、深い絶望の闇が、僕を飲み込もうとしていた。