第七話 天啓
二〇一〇年の師走。
僕が創り出した小さな宇宙、ビットコインのネットワークは、もはや僕一人の手を離れ、確かな生命力を持って自律的に成長を始めていた。世界中から集まった、数十人の熱心な開発者やマイナーたちがフォーラムに日夜集い、活発な議論を交わしている。
僕はその様子を、モニターの向こう側から静かに見守っていた。そして、その中の一人の男の存在が僕の決意を固めさせた。
ギャビン・アンドレセン。シリコンバレーの、聡明でなおかつ実直なソフトウェア開発者。彼が自腹でビットコインを買い取り、それを無料で配布する「蛇口」というサイトを立ち上げた時、僕は確信した。この男なら安心して任せられる、と。
僕、サトシ・ナカモトという存在は、このプロジェクトにとって、いつまでも「創始者」という名の中央集権的な権威であり続けてはならない。このシステムが真に分散化されたものであるためには、神のような創始者は、ある時点で謎の存在として消え去るべきなのだ。それが、この思想を体現するためにできる、僕の最後の仕事だった。
二〇一一年が明けてすぐ。僕は、最後の儀式に取り掛かった。
SourceForge上の、ビットコインのソースコードが保管されているリポジトリ。その管理者権限をギャビンに譲渡する。マウスをクリックするたび、この一年半まとい続けた「サトシ・ナカモト」という重い鎧を、一枚、また一枚と、脱ぎ捨てていくような感覚を覚える。
最後に、僕が取得したbitcoin.orgというドメインの管理権限も、彼とコミュニティの数人の有志に引き渡す。
ついには、僕が「サトシ」としてアクセスできる場所は何もなくなった。
僕はギャビンに宛てて、最後のプライベートメールを書いた。
これまで、プロジェクトに献身的に貢献してくれたことへの、心からの感謝を。
そして、このプロジェクトの未来を君に託す、と。
メールの最後に、タイムリープ前の世界で、サトシが消える前に残したあの言葉を書き添える。
「I've moved on to other things.」
(私はもう、別のことに移った)
送信ボタンをクリックし、僕はこの一年半使い続けた匿名のメールアカウント、暗号化された通信経路、その全てを復元不可能な形で完全に消去した。
サトシ・ナカモトは、この瞬間、デジタル世界から永遠に消滅したのだ。
僕の創造主としての役目は、いまここに終わった。
全てを終えた後のタワーマンションの一室は、完全な静寂に包まれた。
これまで昼夜を問わず鳴り響いていた、世界中からやって来るメールの通知音も、フォーラムの更新をチェックする必要もない。
僕は一年半ぶりに、本当の意味で「一人」になった。
僕は、自分に課した。ビットコインのことを考えるのはしばらくやめよう、と。僕は人間としての生活を取り戻さなければならない。そう決意すると、まずは自分をこの部屋に縛り付けていた元凶、書斎のハイスペックPCの電源を、起動してから初めて自らの手でシャットダウンした。そして書斎から外に出ると、その部屋のドアを固く閉ざした。
人間への帰還。その試みは、まず服装から始まった。
僕は最初に、都心の高級百貨店に足を踏み入れた。洗練された店員たちの丁寧な接客に迎えられる。しかし、僕にはそれが理解不能な儀式のように感じられてしまう。彼らの笑顔も、言葉遣いも、僕の心には届かない。居心地の悪さを感じた僕は、値札も見ずに、マネキンが着ていた当たり障りのないジャケットとパンツを買い、そそくさと店を出た。
次に、食事。僕は、グルメ雑誌で最高評価を得ていたフレンチレストランの扉をくぐった。だが、メニューに並んだ華やかな料理名を見ても、何の感情も湧いてこない。運ばれてきた芸術品のように美しい一皿を、僕はただひたすら作業のように口に運んだ。美味しいのかもしれないが、僕にはビットコイン開発中に口にしていたカロリーメイトとの違いをさほど感じられない。それに対して、周りのテーブルでは楽しそうな会話が弾んでいる。その光景が、僕の孤独をより一層際立たせた。
映画を観に行っても、同じだった。スクリーンの中で繰り広げられる、愛と裏切りと感動の物語。周りの観客は笑い、涙を流している。それでも僕の心は、凪いだ水面のようにぴくりとも動かない。僕はこの一年半で、感情という人間が持つべき最も基本的な機能を、どこかに置き忘れてきてしまったようだった。
贅沢をすればするほど、人間らしい生活を模倣しようとすればするほど、僕は自分が社会からどれだけ遠く、隔絶された場所に来てしまったのかを、強く思い知らされた。夜、静まり返った豪華な部屋に一人で戻り、東京の夜景を見下ろす。そのきらびやかな光の洪水の中で、僕は、自分が「何者でもなくなった」ことを痛感していた。
創造主の役割を終えた僕は、再びただの佐藤健に戻った。だがそこには、僕が求めていた安息の場所はなかった。ビットコインという巨大な拠り所を失った僕を待っていたのは、底なしの、そしてあまりに静かな虚無だったのだ。
僕はタイムリープした二〇〇五年五月からの六年足らずの間に、あまりにもたくさんのことが過ぎ去ったことに思いを馳せる。
大学時代の仲間たちとの出会い、美咲との再会と別れ、投資の成功、そして命を懸けたビットコインの開発。四十二歳フリーターだった佐藤健は、本来こんなことさえできる男だったのだ。どれだけ人生を粗末に生きてきたかをしっかり噛み締めながら、初春の街を歩く。
季節は、二月。
その日も、僕はあてもなく都心の雑踏を彷徨っていた。人びとの喧騒、ショーウィンドウのきらめき、カップルたちの笑い声。その全てが僕の存在を希薄にさせ、まるで自分が半透明の幽霊にでもなったかのような気分にさせた。
僕は一人だ。隣りにいるはずの美咲がいない。孤独にビットコインを開発していたときには忘れられていたその事実が、僕に重くのしかかる。
ふと、ある旅行代理店の店頭に、僕の足が止まった。
色鮮やかな国内旅行のキャンペーンポスターが、ガラス窓に貼られている。そこには、息を呑むほど美しい、青い海と複雑に入り組んだ海岸線の写真があった。
「みちのくの春、再発見。三陸海岸を巡る旅」
ウニやアワビといった新鮮な海の幸の写真が、食欲をそそるようにレイアウトされている。そうか。旅行もいいかもしれないな。何もかもを忘れて。そういえば、タイムリープしてからは東京さえ離れることがなかった。
そして、そのポスターの隅に、僕は何気なく小さな文字を見つけた。
キャンペーン期間。
「三月いっぱいまで!」
「三陸……」
「三月……あれ?」
その言葉が、僕の意識の奥底にある固く、固く閉ざしていたはずの扉の鍵を、錆びついた音を立てながら、無理やりこじ開けた。
街の喧騒が、急速に遠のいていく。
人びとの声が、車の音が、消える。
そして僕の脳裏に、あの光景が、暴力的なまでのリアリティをもって叩きつけられた。
ゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
足元から内臓を揺さぶるような、凄まじい地響き。立っていられないほどの巨大な揺れ。
そして、耳を劈く轟音。
遠くで何かが破壊され、崩れ落ちていく音。潮の匂いが、急速に濃くなっていく。人びとの悲鳴。絶叫。それはこの世のものとは思えない、地獄の合唱だった。
肌を刺すような、三月の冷たい空気。
僕は、まるでその場にいるかのような錯覚に陥り、喘いだ。
目の前に、黒い壁が迫ってくる。違う、壁じゃない。水だ。ビルを、家を、車を、まるで玩具のように飲み込みながら全てを破壊し尽くす、巨大な津波。
「はっ……!はぁっ、はぁっ……!」
僕は、その場に膝から崩れ落ちそうになるのを、必死で堪えた。息ができない。周りの通行人が怪訝な顔で僕を遠巻きに見ているのが、視界の隅に映った。
この外出のために買ったばかりのスマートフォンを、ポケットから震える手で摑み出す。わなわなと震える指で、カレンダーアプリを開く。
「2011年2月15日」
僕は、検索エンジンにキーワードを打ち込んだ。
「東北地方」「大地震」「津波」「震災」
東日本大震災についてのページは何もヒットしない。当たり前だ。この世界はまだ二月なのだから。
未来の世界で見たニュース見出しの記憶を、必死で辿る。
午後二時四十六分。震度七。大津波警報。
僕の記憶は、妄想ではなかった。僕がタイムリープする前の世界で確かに起こった、巨大な悲劇。
残された時間は、あと一ヶ月もなかった。
啓示の書でも見るかのように、旅行代理店に貼られたポスターを、僕はもう一度見つめた。美しい東北の海の写真。それが数週間後には、絶望の泥海に覆われた地獄絵図と化すのだ。
そして、僕は、全てを悟った。
「I've moved on to other things.」
自分がサトシとして、無意識に、あるいは運命に導かれるように書き残した言葉の意味。
僕は、この「別のこと」のために、サトシであることをやめたのだ。
なぜ、僕はタイムリープしたのか。
なぜ、僕は常人では使い切れぬほどの富を手にしたのか。
なぜ、僕はサトシ・ナカモトとして、国家も銀行も介さない、超法規的な送金システムを、この手で創り出さなければならなかったのか。
全ては、この日のために。
僕は、踵を返した。そして、自分の城であるタワーマンションへと、今までにないほどの速さで走り出した。
さっきまで心を支配していた虚無感は、跡形もなく消え失せていた。僕の心には、絶対的な使命という、熱く燃え盛る炎が灯っている。
部屋に駆け込むと、固く閉ざしていたはずの書斎のドアを、蹴破るようにして開けた。そして、埃をかぶり始めていたPCの電源ボタンを力強く押し込んだ。
立ち上がったデスクトップに、僕は二つのウィンドウを開く。
一つは、数十億円の残高が表示された銀行口座。
もう一つは、数十万BTCが眠る暗号化されたウォレット。
これが、僕に与えられた武器だ。
この、最後の戦いのための。
僕はブラウザを開き、東北地方太平洋岸の地図を映し出す。
青森、岩手、宮城、福島。
リアス式の美しい海岸線。そこに点在する穏やかな港町。
モニターに映されるその光景を、僕は静かに、決然とした目で見つめていた。
僕の最後の戦いが、ここから始まろうとしている。
それは歴史上、誰も成し遂げたことのない、人知れぬ避難計画だった。