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第四話 リーマン・ショック

 世界がその色を失ってから、何日が過ぎただろうか。

 僕の銀行口座には一千二百万円という、この世のほとんどの二十二歳が触れたこともないであろう金額が、無機質なデジタル数字として刻まれていた。それは僕の勝利のあかしであり、才能の証明であり、そして僕が美咲を失ったことに対する、残酷なまでの慰謝料だった。


 最初の数日間、僕はアパートの部屋から一歩も出ず、抜け殻のように過ごした。ベッドから起き上がる気力もなく、ただ天井の染みを眺めているか、パソコンの画面に表示された口座残高を眺めているか、そのどちらかだった。数字は変わらない。それは確かな現実のはずなのに、僕にはどこか遠い世界の出来事のように感じられた。食欲もなく、眠りも浅い。夢と現実の境界が曖昧になり、ふと美咲が「何してるの、朝だよ」と、カーテンを開けに来てくれるような気がした。もちろんそんなことは二度と起こらない。


 電話の向こうから聞こえた、あの男の声。

『美咲なら、今、風呂入ってるけど』

 その言葉が悪夢のように、何度も脳内で再生される。僕が孤独と疲労にまみれ、未来の記憶だけを頼りに戦っている間に、彼女の「今」は着実に進んでいた。僕のいないところで。


「……当たり前だ」

 声に出してみるとあまりに乾いていて、自分でも驚いた。

 当たり前のことだ。時間は、僕のためになど止まってはくれない。僕が彼女の時間を止めていただけなのだ。僕が、彼女の未来を、僕という不確定な存在に縛り付けていただけなのだ。


 そうだ、僕が悪いんだ。

 僕が、彼女を追い詰めた。

 未来を知っていることにおごり、彼女の不安から目を背け、「信じてくれ」という一方的な言葉で、彼女の優しさに甘え続けていた。ボロボロになっていく僕を見て、彼女がどれだけ心を痛めていたか、考えようともしなかった。

 自己嫌悪の黒い波が、足元から這い上がってきて、心臓を鷲掴みにする。

 美咲との何でもない日々が蘇る。大学の講義をサボって、二人で見た昼間の映画。僕の作る味の薄いパスタを「おいしい」と言って笑った顔。将来の夢なんて何もなかった僕に「健なら、何にでもなれるよ」と、本気で言ってくれたあの眼差し。

 その全てを、僕自身が踏みにじったのだ。


 涙さえ出なかった。後悔はあまりに深過ぎると、涙腺の回路さえ焼き切ってしまうらしい。

 僕はただ、虚無の海に沈んでいた。


 だが数日が過ぎた頃、その真っ黒な絶望の底で何かが生まれようとしていた。それは自己嫌悪という名の泥の中から芽吹く、毒の花のような感情だった。


 本当に、僕だけが悪かったのか?

 彼女は、僕を信じてくれなかったじゃないか。僕が人生を賭けて僕たちの未来のために戦っていることを、理解しようともしなかった。結局彼女も、他の奴らと同じだったんだ。目に見える「安定」や「将来性」という陳腐な物差しでしか人間を測れない、平凡な女だったんだ。


 そうだ。

 そうに違いない。

 そうでなければ、心が壊れてしまう。

 僕は悪くない。僕は何も間違っていない。間違っていたのは、僕の価値を理解できなかった世界の方だ。美咲も、友人も、社会も、全てが。


 その思考は、危険な麻薬のように僕の心を麻痺させていった。自己嫌悪は他責という名の硬い鎧へと姿を変える。心の防衛機制が、僕を人間ではない何かへと作り変えようとしていた。

 悲しみと喪失感は、いつしか焼け付くような野心と、世界そのものに対する復讐心へと転化していった。もはや「美咲を取り戻す」などという感傷的な目標は、僕の中から消え失せていた。そうではない。僕が目指すべきは、彼女が、いや世界中の誰もが僕という存在を見上げ、あの時なぜこの男の手を離してしまったのかと、一生後悔し続けるような、そんな神の領域に到達することだ。


 その歪んだ決意が固まった時、僕は壊れた人形のように、のろのろと動き始めた。

 まず、携帯電話を叩き割った。美咲との思い出が染みついた古いガラケーを床に叩きつけ、バラバラになるまで踏みつけた。連絡先を知る人間は、もう誰もいない。それでよかった。過去との通信手段は断ち切らなければならない。

 次に、大学に休学届を郵送した。理由は「一身上の都合」。誰からも何も聞かれなかった。僕はもう彼らの世界にとって、存在しない人間になったのだ。

 そして新聞配達も、建設現場も、コンビニの深夜勤も、全て辞めた。それぞれの場所に電話をかけ、感情のない機械的な声で退職の意を告げた。誰一人として、僕を引き留めはしなかった。僕は社会にとって、交換可能な部品に過ぎなかった。


 僕は、生まれ育った町と大学のために借りていたアパートを捨て、都心へと向かった。不動産屋で見せられた中で、最も家賃の高いタワーマンションの一室を契約した。保証人も何もなかったが、現金で数年分の家賃を前払いすると、担当者は気味の悪いほどの笑顔で、すぐに鍵を渡してくれた。


 三十階の部屋から見下ろす東京の街は、まるで精巧なジオラマのようだった。人びとは豆粒のように小さく、その営みは僕の人生とは何の関係もないものに見えた。高い場所は人を傲慢にさせる。それでよかった。僕には感傷に浸る資格も、過去を懐かしむ権利もない。あるのは、未来へ向かう義務だけだ。


 そこからの二年間、僕の生活は修行僧のそれよりもさらにストイックで、孤独なものになった。

 来るべき二〇〇八年のリーマン・ショック。それが、僕の次なる戦場だった。ライブドア・ショックの比ではない、世界を揺るがす大津波。それに乗じて、僕の資産を今の数十倍、数百倍に増やす。


 そのために、僕は学んだ。

 独学で、経済学と金融工学を猛勉強した。本を買い漁り、インターネットで海外の論文を読み解いた。四十二年間何も学んでこなかった僕が、命懸けで勉強した。サブプライムローン問題、デリバティブ、CDSクレジット・デフォルト・スワップ。未来でニュースの見出しとして聞きかじっただけの単語が、知識と結びつき、確かな輪郭を持っていく。僕はもはや、単に「未来を知る男」ではなかった。なぜ市場が崩壊するのか、そのメカニズムを理論的に理解し、最も効率的に利益を上げる方法を構築できる、冷徹なマシーンへと変貌しつつあった。


 食事は、デリバリーサービスで済ませた。眠るのは、モニターの光が眩しくなった時。起きるのは、身体の痛みが限界に達した時。誰とも話さず、部屋から一歩も出ない日が何週間も続いた。窓の外の季節がどう移り変わろうと、僕には関係なかった。僕の時間は、西暦ではなく、来るべき経済危機のカウントダウンによってのみ、刻まれていた。


 時折、狂おしいほどの孤独が、僕を襲った。

 デリバリーの食事を一人で咀嚼しながら、ふと、美咲と二人で食べた学食の、三百円のカレーライスを思い出す。あの時の方がよほど美味しかった。

 夜景を眺めていると、昔、仲間たちと河川敷で見た、安物の手持ち花火をふと思い出す。あの時の方がよほど綺麗だった。

 そんな感傷が鎌首をもたげるたび、僕はそれを憎しみで上書きした。

『感傷に浸るな。奴らは、お前を捨てたんだぞ。お前の価値を理解しなかった、愚かな連中だ。見返してやれ。後悔させてやれ』

 その自己暗示は、僕が人間性を保つための、唯一の支えとなっていた。


 そして、運命の二〇〇八年がやってきた。

 夏が過ぎ、秋の気配が漂い始めた九月。アメリカの大手投資銀行リーマン・ブラザーズの経営危機が、連日報じられるようになった。

 僕は、この瞬間を二年半ずっと待ち続けていた。

 僕は、数千万円にまで増やしていた全資産を、レバレッジを最大限に効かせ、世界中のあらゆる金融商品に、空売りを仕掛けた。日経平均先物、ダウ平均先物、為替、そして、世界の破綻に賭ける悪魔の保険、CDSの買い。

 ライブドア・ショックの時のような、心臓を締め付けるような恐怖は、もはや感じなかった。僕の心は、凍てついた湖面のように静まり返っていた。二年半、この日のためだけに生きてきたのだ。間違うはずがなかった。


 九月十五日。

 リーマン・ブラザーズが、連邦倒産法第十一章の適用を申請。事実上の経営破綻。

 そのニュースを、僕は静かに、モニターの前で見ていた。

 翌日から、世界は文字通りの地獄に叩き落された。株価は滝のように暴落し、金融システムは麻痺した。テレビでは経済アナリストたちが絶叫し、仕事を失った人びとが途方に暮れていた。僕の住むタワーマンションの下のジオラマでも、小さな人間たちが右往左往しているのが見えた。


「ほら見ろ。僕の言った通りだ」

 僕は、誰に言うでもなく呟いた。

 その声には、何の感情もこもっていなかった。

 世界中が悲鳴を上げる中、僕の目の前にあるモニターの、口座残高の数字だけが、狂ったように増殖していく。

 一億円、五億円、十億円……。

 その数字の増加は、もはや僕の感情を揺さぶることはなかった。それはただの計算結果であり、僕の予測が正しかったことを証明する、単なるデータに過ぎなかった。


 全てのポジションを決済した時、僕の口座には約二十三億円という、もはや現実味のない数字が刻まれていた。


 僕は椅子から立ち上がり、大きな窓の前に立った。眼下には宝石をちりばめたような東京の夜景が、どこまでも広がっている。二年半前、この部屋に来た日と同じ景色。

 僕は、手に入れた。

 金も、力も、誰にも否定しようのない圧倒的な「結果」も。

 これで、僕を笑う者はもういない。僕を捨てた者たちは、きっと後悔しているだろう。


 だが、それで?


 僕の心を満たしたのは、達成感ではなかった。

 喜びでも、興奮でもない。

 ただ、どこまでも広がる、巨大な虚無感。

 二十三億円という大金を手にしても、僕の心に空いた穴は、少しも埋まっていなかった。それどころか、その輪郭がよりくっきりと浮かび上がり、その深淵をまざまざと見せつけられているようだった。

 復讐は終わった。

 だが、その先には何もなかった。


「まだだ」

 僕は、ガラスに映る自分の顔に向かって言った。

 その顔はまるで能面のように、何の表情も浮かべていなかった。

「まだ、終われない」


 そうだ。まだ、本当の目的が残っている。

 この金はゴールではない。スタートラインに立つための、入場券に過ぎないのだ。

 僕の視線はこの夜景の向こう側、まだ誰もその存在を知らない、デジタルデータの荒野に向けられていた。

 究極の資産。絶対的な価値。

 僕を神の領域へと引き上げてくれる、最後の切り札。


 ビットコイン。


 僕の虚ろな心に、その単語だけが確かな熱を持って、再び灯り始めた。

 この虚無を埋めるピースは、きっとそこにあるはずだ。

 僕は、再びモニターの前に座った。

 僕の本当の戦いは、まだ始まったばかりなのだ。

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