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第三話 別れ

 それからというもの、僕の世界は色と音を失った。

 それまで惰性で出席していた大学の講義は、僕にとって完全に意味をなさなくなった。教授が滔々(とうとう)と語る民法の判例も、国際政治の歴史も、全ては僕がこれから摑み取る輝かしい未来の前では、取るに足らない過去の遺物でしかなかった。僕だけが、未来という究極のカンニングペーパーを持っているのだ。

 だが、そのカンニングペーパーは、僕の脳という、あまりに曖昧で頼りない媒体にしか記録されていなかった。


「佐藤、最近どうしたんだ? 講義も上の空だし、サークルの集まりにも顔出さないじゃん」

 昼休みの中庭で、高橋がいぶかしげに僕の顔を覗き込んできた。彼の背後では、仲間たちが談笑している。その光景は、まるで厚いガラスを一枚隔てた向こう側の出来事のように、僕の目には映っていた。

「いや、ちょっとな。考え事してて」

「考え事って、就活のことか? お前もようやくやる気になったのかよ」

「まあ、そんなとこだ」

 僕は曖昧に頷いた。嘘ではない。僕は、僕の人生における、最高の就職活動を始めようとしていた。それは履歴書も面接も必要としない、僕の記憶だけが頼りの孤独なプロジェクトだ。


 僕の最初のターゲットは、株式市場だった。

 四十二年間の人生で、僕がおぼろげに記憶している市場の激震は二つ。一つは、二〇〇八年のリーマン・ショック。もう一つはそれより少し前、日本国内で起こった、あるIT企業の株価暴落事件。そうだ、ライブドア・ショックだ。

 記憶の断片をまさぐる。確か、冬だった。年が明けてすぐの頃だったはずだ。二〇〇六年……だったか?

 不確かだ。あまりに不確かすぎる。だが、この曖昧な記憶こそが、僕が持つ唯一のアドバンテージだった。これを確かなものにする術はない。二〇〇五年の図書館には、二〇〇六年の出来事を記した本など一冊もないのだから。僕はこの不確実性と孤独を抱えたまま、突き進むしかなかった。


 目標は定まった。

 来るべき「その日」のために、種銭を稼ぐ。それも可能な限りの額を。

 僕は、大学の図書館に通い詰めた。だが、目的は未来を知ることではない。現在、二〇〇五年の「ライブドア」という会社が、世間でどう見られているかを知るためだ。パソコンルームで、当時のニュースサイトや電子掲示板を検索する。そこには時代の寵児としてもてはやす声、旧来の経済界からのやっかみ、そして熱狂的な個人投資家たちの声が溢れていた。株価は右肩上がり。誰もがこの会社の未来を信じて疑っていない。

 ――僕以外は。

 この圧倒的な情報の非対称性に、僕は武者震いした。


 その日から、僕の生活は狂気じみたルーティンに塗りつぶされた。

 早朝は、新聞配達。まだ夜が明けきらない薄闇の中、自転車を漕ぎ、一軒一軒ポストに新聞を投げ込んでいく。

 昼間は、建設現場での日雇い労働。ヘルメットを被り、砂利を運び、資材を担いだ。筋肉は常に悲鳴を上げ、掌の皮はすぐに剥けて血がにじんだ。

 そして夜は、コンビニの深夜勤務。レジを打ち、商品を補充しながら、僕の頭の中では常に、曖昧な記憶の中の「Xデー」がいつなのか、そのことばかりを考えていた。


 友人たちとの関係は、急速に冷え切っていった。

「就活の準備で忙しい」

 その魔法の言葉を盾に、僕は全ての誘いを断った。彼らには、僕の行動が理解できるはずもなかった。当然だ。未来の不確かな記憶を信じ、ボロ雑巾のようになるまで肉体を酷使する男など、狂人にしか見えないだろう。


 そしてその狂気は、僕と美咲の関係にも、暗い影を落とし始めた。


「健、本当にどうかしちゃったんじゃないの?」

 ある日の深夜、バイト終わりにアパートへ帰ると、ドアの前で美咲が待っていた。白いコートに身を包み、不安そうな顔で僕を見上げている。彼女の吐く息も白かった。

「美咲……どうしてここに」

「電話しても出ないし、メールしても返信ないし。大学にも全然来てないって、みんな心配してるんだよ」

 彼女の声は、僕を気遣う優しさと、理解できないものに対する戸惑いで震えていた。

「ごめん。ちょっと、色々と立て込んでて」

「立て込んでるって、何よ。健、何をしてるの? みんな、健が変な宗教にでもハマったんじゃないかって……」

「そんなんじゃない」

 僕は鍵を開けながら、ぶっきらぼうに答えた。部屋に入ると、そこには脱ぎっぱなしの作業着や、栄養ドリンクの空き瓶が散乱している。かつて美咲も泊まりに来たことのあるこの部屋は、もはや二人の思い出の場所ではなく、僕という男の欲望の巣窟と化していた。


 彼女は、その惨状に言葉を失っていた。

「お金が必要なんだ」

 僕は、背を向けたまま言った。

「どうしても、まとまった金がいる。そのために、今はこうするしかないんだ」

「お金って……何に使うの? そんなに必死になって。私にも、話してくれないの?」

 美咲が、僕の腕にそっと手を置いた。その温もりが、僕のささくれ立った心を少しだけ溶かす。振り向いて、彼女の顔を見る。その瞳は、真剣に僕を心配していた。

 ここで、全てを話してしまおうか。

 未来から来たこと。僕の記憶が、とんでもない富を生む可能性を秘めていること。

 だがその言葉は、喉の奥でつかえて出てこなかった。

 根拠は? 証拠は?

 何もない。あるのは「僕の記憶がそう言っている」という、狂人の戯言ざれごとだけだ。信じてもらえるはずがない。彼女を幸せにするための計画が、彼女を失う引き金になってしまう。


「言えない」

 僕は、彼女の手をそっと振り払った。

「今は、まだ言えない。でも絶対に、美咲を不幸にするようなことじゃない。僕を信じてくれ」

「信じてって……何を?」

 彼女の瞳から、光が消えていくのが分かった。僕が突き放した手は行き場をなくして、虚空を彷徨さまよっている。

「今の健を見てて、どうやって信じろって言うのよ。ボロボロじゃない。私と会う時間も、友達と話す時間も、全部捨てて。そんなの間違ってるよ」

「間違ってなんかない!」

 僕は、思わず声を荒らげていた。

「僕は、正しいことをしてるんだ。お前のため、僕たちのためなんだ。なんでそれが分からないんだよ!」

 言ってしまってから、後悔した。違う。こんなことが言いたいんじゃない。だが、一度口から出た言葉は、もう取り消せない。

 美咲の目に、涙が浮かんだ。

「……もう、健の考えてることが、分からない」

 それはタイムリープ前の人生で、僕が彼女から告げられた別れの言葉と、驚くほど似ていた。歴史は皮肉なほど正確に、同じ轍をなぞろうとしている。

 美咲はそれ以上何も言わず、踵を返して部屋を出ていった。バタンと閉まったドアの音が、僕と彼女の間に決定的な壁が作られたことを告げていた。


 僕は、その場に崩れ落ちた。

 何をやっているんだ、僕は。彼女を幸せにするためじゃなかったのか。なのに、どうして一番悲しませているんだ。

 だが、僕の心の中にいるもう一人の自分が、冷たく囁いた。

『これでいいんだ。今は、これでいい。結果を出せば、全てが報われる。美咲もきっと分かってくれる』

 そうだ。今は感傷に浸っている場合じゃない。僕にはやるべきことがある。

 僕は涙を拭い、再び立ち上がった。床に散らばった、証券会社の口座開設用の書類を力強く握りしめた。


 季節は流れ、二〇〇六年の年が明けた。

 僕の手元には、人間らしい生活の全てと引き換えにした、八十万円という金があった。それは血と汗と、そして孤独の結晶だった。

 僕はネット証券の口座にその全額を叩き込み、記憶の中にある「Xデー」を待った。確か年明けくらいだったはずだ。

 その日から僕の日常は、地獄のような緊張感に包まれた。毎日、大学のパソコンルームに潜り込み、ニュースサイトのヘッドラインを、一字一句見逃さないように睨みつける。まだか。まだなのか。僕の記憶は、本当に正しいのか。一日、また一日と、何も起こらないまま時間が過ぎていく。心臓が少しずつすり減っていくのが分かった。


 そして、一月十六日の月曜日。

 その日、僕は朝からパソコンの前に張り付いていた。画面に表示されたライブドアの株価チャートを、食い入るように見つめる。市場は平穏そのものだった。

 だが、もう後戻りはできない。僕は震える指で、「信用売り」のボタンをクリックした。持てる限りの資金を注ぎ込み、レバレッジを最大限に効かせた。もし何も起こらなければ、僕の資産は数日で溶けてなくなるだろう。


 神に祈るような気持ちだった。いや、僕が祈るべき相手は、神などではない。僕自身の曖昧な記憶だけだ。

 時間が、永遠のように長く感じられる。

 そして、午後四時過ぎ。

 その瞬間は、突然訪れた。

 ニュースサイトのトップページが、切り替わった。


『【速報】東京地検特捜部、証券取引法違反の疑いで六本木ヒルズのライブドア本社などを家宅捜索』


 来た。

 来た、来た、来たッ!

 僕は、椅子から飛び上がっていた。全身の毛が、逆立つのが分かった。疑心暗鬼の地獄から一瞬で解放された。僕の記憶は正しかったんだ!

 翌日、株式市場はパニックに陥った。ライブドア株は売りが殺到し、値が付かないままストップ安を繰り返す。「ライブドア・ショック」と呼ばれる歴史的な暴落が始まった。

 僕のパソコンの画面では、口座の評価額が信じられない勢いで膨れ上がっていく。八十万円だった僕の資産は、一日で二百万円になり、三日後には五百万円を超えた。

 そして、全てのポジションを決済した時、僕の口座には一千二百万円という数字が刻まれていた。


 僕はしばらくの間、その画面から目を離すことができなかった。

 ふいに笑いがこみ上げてくる。最初はくぐもった笑いだったが、やがてそれは抑えきれない大爆笑へと変わっていった。僕は部屋の中を狂ったように歩き回りながら、腹を抱えて笑い続けた。

 やった。やったんだ。

 僕は、勝ったんだ。


 この金があれば、もうあんな肉体労働をする必要はない。新聞配達も、コンビニの深夜勤も、今日限りで辞めてやる。

 そしてこの金を元手に、さらに大きな勝負に出る。二〇〇八年のリーマン・ショック。そこで資産を数十倍、いや数百倍に増やしてやる。

 そうすれば、ビットコインが誕生する二〇〇九年には、億単位の資金を用意できる。その金で、黎明期のビットコインを根こそぎ買い占めるのだ。


 計画は、完璧だった。

 僕は、未来の王だ。

 高揚感に包まれながら、僕は携帯電話を手に取った。一番にこの勝利を伝えたい相手がいた。

 美咲だ。

 これだけの結果を出したのだ。彼女もきっと、僕を理解してくれるはずだ。いや、僕の先見の明に驚嘆するに違いない。

 電話帳から彼女の名前を探し出し、発信ボタンを押す。

 コール音が、数回鳴った。そして。


「……もしもし」

 聞こえてきたのは、僕の知らない男の声だった。

「……え?」

 僕は、一瞬言葉を失った。番号を間違えたか? いや、そんなはずはない。

「あの、美咲さんの携帯じゃ……」

「ああ、美咲なら、今、風呂入ってるけど。あんた、誰?」

 男の声は、少し面倒くさそうに、そう言った。

 その瞬間、僕の頭の中で何かがプツリと切れる音がした。

 全身の血が、急速に凍り付いていく。高揚感は一瞬で消え失せ、代わりに奈落の底に突き落とされたような絶望が、僕を支配した。


 そうか。

 そうだったのか。

 僕が、孤独な戦いに身を投じている間に。僕が、彼女のためだと信じて未来の知識を振りかざしている間に。

 彼女はもう、僕の知らないところで、新しい時間を歩み始めていたのだ。

 僕が捨てた「今」を、別の誰かと。


「……いえ、間違い電話です」

 僕はかろうじてそれだけを言うと、通話を切った。

 携帯電話が手から滑り落ちる。カシャンと乾いた音を立てて、床に転がった。

 画面には、まだ一千二百万円という数字が煌々(こうこう)と輝いていた。夢ではない。

 それは僕が手に入れた、輝かしい勝利の証。

 そして僕が失ったものの、あまりに大きな代償だった。


 笑えよ、佐藤健。

 お前は、勝ったんだぞ。

 未来を手に入れたじゃないか。

 なのに、どうして。

 どうして、こんなにも胸が痛いんだ。


 僕は、その場にうずくまったまま、声を殺して泣いた。

 それは四十二歳の僕が、二十年間という長い時間で、ずっと流したくても流せなかった涙だったのかもしれない。

 黄金色の未来計画は、その輝きとは裏腹に、僕の心を深く、暗く蝕み始めていた。

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