第二話 再会
居酒屋「笑い猫」での、あの夜。
僕の心には、確かに野心という名の火が灯った。未来を知るという神にも等しい力。これを使い、巨万の富を得て、今度こそ美咲を誰よりも幸せにするのだ。
しかしその決意は、翌朝アパートの窓から差し込む平凡な朝日に照らされた時、あまりにも現実離れしていて、熱に浮かされた夢物語のようにも感じられた。
目の前にはまだ彼女がいる。仲間たちがいる。失ったはずの、二十年前の日常がある。
まずはこの奇跡のような時間を、もう一度だけちゃんと生きてみよう。焦ることはない。ビットコインが生まれるまでには、まだ三年以上の時間があるのだから。
僕はそう自分に言い聞かせ、失われたはずの「二度目の大学生活」へと再び足を踏み入れた。
それは、甘美な時間だった。
何もかもが、輝いて見えた。
気の抜けたビールのようだった、退屈な講義。それでも、隣りに座る美咲のシャンプーの香りを感じながら聞いていると、不思議と頭に入ってくる。ノートを取る彼女の真剣な横顔を盗み見るだけで、心が満たされた。
一杯二百五十円の、学食のカレーライス。四十二歳の僕がコンビニの廃棄弁当で満たしていた胃袋には、その何の変哲もないカレーが、三つ星レストランのフルコースよりも美味しく感じられた。高橋や鈴木たちとくだらない話で笑いながら食べる、ただそれだけのことが、かけがえのないご馳走だった。
サークルの部室は、相変わらず汗臭くて雑然としていた。
「おー、健!最近、お前ちょっと変だったけど、やっと元に戻ったな!」
高橋は新入生歓迎コンパの企画書を広げながら、僕の肩をガシリと摑んだ。彼は昔からこうだった。太陽のように明るく、人を惹きつけ、ぐいぐいと周りを引っ張っていく。彼の周りには、いつも自然と人の輪ができた。
「悪い、色々と考え事してた」
「就活のことか? まあ、俺らもそろそろ考えねえとな」
そう言って笑う彼の横顔には、能天気な普段の姿とは違う、リーダーとしての責任感が滲んでいた。
「佐藤も、何か始めた方がいいんじゃないか?」
部室の隅で参考書を広げていた鈴木が、分厚い眼鏡の奥から心配そうに声をかけてきた。彼は前の失恋の痛手から少し立ち直り、来るべき就職活動に向けて、黙々と資格の勉強を始めている。生真面目で少し要領は悪いが、彼の優しさは本物だ。その不器用な優しさが、僕には少し眩しかった。
そして何より、僕の隣りにはいつも美咲がいた。
僕の人生という暗く長いトンネルの中で、唯一の光だった彼女。
講義が終わると、僕たちはキャンパスの裏にある小さな公園をよく訪れた。ベンチに座り、彼女が膝枕をしてくれる。僕は目を閉じ、彼女の温もりと風に揺れる木々のざわめきを感じる。彼女が僕の髪を、慈しむように優しく撫でる。その指の感触だけで、僕はこの二十年間、心の奥底に溜まっていた澱んだヘドロのようなものが、浄化されていくような気がした。
夏が来ると、高橋が「海行くぞ、海!」と言い出した。彼のリーダーシップは、こういう時に遺憾なく発揮される。レンタカーを手配し、あっという間にメンバーを集めた。
「おい鈴木、お前、そんなに日焼け止め塗ってどうすんだよ。男だろ」
「うるさいな。シミになるんだぞ、将来」
生真面目な鈴木を、お調子者の佐々木がからかう。そのやり取りも、何もかもが懐かしい。
僕は美咲と二人、少し離れた波打ち際を歩いた。じりじりと肌を焼く太陽。しょっぱい潮の香り。足元を洗い、そして引いていく、冷たい波の感触。
「……きれいだね」
美咲が、キラキラと光る海面を見つめながら呟いた。
「ああ」
僕は、海ではなく彼女の横顔を見ていた。その笑顔を、僕はこれから先、何があっても守り抜かなければならない。
「来年も、また来ようね。みんなで」
彼女のその言葉に、僕はただ頷くことしかできなかった。来年の今頃、僕がどうしているのか、僕自身にもまだ分からなかったからだ。
秋には、学園祭があった。
僕たちのサークルは、焼きそばの模擬店を出した。ソースの焦げる香ばしい匂い。絶え間なく聞こえる客の呼び込みと、ライブステージからの演奏。その喧騒の真ん中で、僕は仲間たちと鉄板に向かっていた。
「健、そっちのキャベツ、もっと細かく切れ!」
「高橋こそ、火が強すぎるぞ!」
四十代の記憶を持つ僕が、二十代の若者たちに混じって油と汗にまみれ、必死にヘラを握っている。その光景はどこか滑稽で、なのにどうしようもなく楽しかった。
「健!差し入れ!」
ひょっこりと顔を出したのは、エプロン姿の美咲だった。彼女のサークルは、隣りでクレープを売っているらしかった。彼女が差し出してくれた、冷たい麦茶のなんと美味しかったことか。
「健の焼いた焼きそば、すっごくおいしいよ。才能あるんじゃない?」
そう言って笑う彼女の笑顔が、夜のキャンパスを彩るどんなイルミネーションよりも、僕の目には眩しく映っていた。
「健、お腹すいた。今日、うちでご飯食べない?」
美咲のアパートで、二人きりで過ごす時間。
彼女がエプロン姿でキッチンに立ち、僕のために作ってくれる生姜焼き。特別なご馳走ではない。どこの家庭にでもある、ありふれた夕食。僕にとってはそれが、失われた幸福の味そのものだった。
「おいしいよ、美咲。世界一うまい」
「ほんと?よかった!」
そう言って、彼女は太陽のように笑う。その笑顔を見るたびに、僕はこの日常が永遠に続けばいいと心の底から願った。
「ねえ。健は、将来、何になりたいの?」
食後のコーヒーを飲みながら、彼女はふとそんなことを聞いた。
僕は言葉に詰まった。僕の野望はあまりに突拍子がなく、彼女に話せるようなものではない。
「……今は、まだ探してるところだ」
それが僕にできる、精一杯の誤魔化しだった。
すると彼女は、僕の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「そっか。健なら、きっと、すごいことするよ。私、分かってるから」
曇りのない、その絶対的な信頼。
僕はその言葉の重みに、胸が締め付けられるようだった。応えなければならない。今度こそ絶対に、彼女を失望させてはならない。
僕はこの甘美な日常を守りながら、ビットコイン購入のための資金を貯めることにした。
高時給を謳っていた、深夜のファミリーレストランのキッチンで、アルバイトを始める。
油の匂い、鳴りやまないオーダーの伝票、洗い場の蒸気、飛び交う怒号。四十二歳の頃にやっていたコンビニの深夜勤よりはまだましだったが、それでも楽な仕事ではない。肉体的な疲労は、確実に僕の精神を蝕んでいった。
それでも僕は、このささやかな幸せを守るためだ、と自分に言い聞かせた。
数ヶ月が過ぎた。
僕はバイト代が入るたび、ノートに几帳面に収支を記録した。
時給は千円。深夜手当がついて、一ヶ月の収入はだいたい十五万円。
そこからアパートの家賃五万円、光熱費や通信費で一万五千円、食費が三万円。そして美咲とのデートや、仲間たちとの飲み会で使う交際費が二、三万円。
僕は電卓を叩いた。
手元に残るのは、多くて月に四万円。
僕はその数字を元に、未来の計画を計算した。
「ビットコインが生まれるのは、二〇〇九年。残された時間は約三年。月四万円だとすると、一年で四十八万円。三年で……百四十四万円?」
その数字を見た瞬間、僕の背筋を冷たい汗が伝った。
足りない。
全く、足りない。
僕の未来の記憶では、ビットコインは最終的に一つ一千万円を超える価値を持つ。だが、それはあくまで頂点の価格だ。そしてそれだけの利益を得るためには、初期にそれこそ何万、何十万という単位で、無価値に等しいコインを「買い占める」必要がある。
そのためには、数百万、いや一千万円クラスのまとまった軍資金が絶対に必要だ。
百数十万円では、たかが知れている。普通の人生を、少しだけ豊かにすることはできるかもしれない。だが、「彼女を絶対に幸せにする」「誰にも文句を言わせない」という僕の歪んだ野望を叶えるには、象の鼻を蚊が刺すようなものでしかない。
現実という冷たい壁が、僕の目の前に立ちはだかった。
穏やかで幸せな日常。これを続けている限り、僕の計画は絶対に達成できない。
その日から僕の心の中で、天秤が激しく揺れ動き始めた。
右の皿には、「美咲との穏やかで幸せな日常」。
左の皿には、「未来を知る者として、巨万の富を掴むという一度きりのチャンス」。
最初は右に大きく傾いていた天秤が、日を追うごとに、ギシリ、ギシリと、音を立てて左へと傾いていく。
四十二歳のあの苦い記憶が、亡霊のように蘇る。
フリーターを続け、美咲に愛想を尽かされ、捨てられたあの日の記憶。
『将来が見えない人と、一緒にはいられない』
あの言葉が耳元で響く。
そうだ。あの時と同じじゃないか。このまま中途半端なバイト生活を続けていれば、歴史はまた同じ結末を繰り返すだけなんじゃないか?
その恐怖が、僕を駆り立てた。
思考が、徐々に危険な方向へとシフトしていく。
美咲を本当に幸せにするには、この日常を守ることじゃない。
この日常を、一度僕自身の手で壊してでも。
もっと大きな、絶対的な安心――つまり、「金」を手に入れることなんじゃないか?
そうすれば、彼女は二度と将来に不安を感じることなどなくなるはずだ。
ある日の、日曜の午後だった。
僕たちは公園のベンチで、いつものように他愛もない話をしていた。
「ねえ、健、聞いてる?」
美咲が、僕の顔を覗き込む。僕は上の空だった。頭の中は、資金計画のことでいっぱいだった。
「あ、ああ、ごめん。何だっけ」
「もう。最近、また何か考え込んでるでしょ。難しい顔してるよ」
彼女はそう言って、不安そうに眉を寄せた。
その顔を見た瞬間、僕は決意した。
このままでは、ダメだ。この優しい顔を、二度と不安で曇らせてはならない。そのためには僕が変わらなければ。
「……ごめん、美咲」
僕は、彼女の目を真っ直ぐに見つめた。
「俺、やらなきゃいけないことがあるんだ。本気で」
僕の目の奥に、今までとは違う硬い光が宿っているのを、彼女は感じ取ったようだった。
「……うん」
彼女は、ただ小さく頷いた。
その瞬間、僕たちの間に流れる穏やかだった空気は、張り詰めた弦のようにその質を変えた。
僕たちの甘美な日常の、終わりを告げる序曲だった。
僕が、狂気じみた資金集めにその身を投じることになる、まさに前夜のことだった。