第一話 タイムリープ
ぼんやりとかかった霧が次第に晴れていくように、意識は徐々に明確になった。重く貼り付いたような瞼をこじ開ける。最初に目に飛び込んできたのは、見慣れない、それでいて猛烈に懐かしい木目調の天井だった。いくつか染みが浮いていて、そのうちの一つが人間の横顔に見える、なんてことを考えていたのを、ふと思い出す。
(どこだ、ここ……)
昨夜、僕は確かに、プロパンガス臭い安アパートの、万年床と化した布団の上で眠りに落ちたはずだ。そこはもっと殺風景で、もっと生活に疲れた匂いがする空間だった。しかし今、僕の鼻腔をくすぐるのは、古本の紙が発する甘い匂いと、北向きの部屋特有の微かなカビの匂いだ。空気が若い。
身体を起こそうとして、すぐに違和感に気付いた。いつもなら悲鳴を上げる腰に、痛みがまったくない。四十肩で上がりにくかった右腕が、何の抵抗もなく動く。まるで自分の身体ではないみたいだ。いや、むしろあまりに健康すぎて、借り物の機械を動かしているような奇妙な感覚があった。
部屋を見渡す。壁には、当時僕が心酔していたインディーズバンド『サイレント・マジョリティ』の、ライブ会場で買ったポスターが画鋲で留められていた。本棚には、背表紙が日焼けした漫画がぎっしりと並んでいる。『DEATH NOTE』が最終巻を迎え、『NANA』が世の女性たちの心を鷲掴みにしていた、そんな時代。床には、数日前に読んだであろう『週刊少年ジャンプ』が投げ捨てられている。表紙では、麦わら帽子をかぶったゴム人間の主人公が、仲間を救うために巨大な組織に喧嘩を売っていた。
心臓が、嫌な音を立てて脈打ち始める。
これは僕が大学の頃住んでいた、四畳半一間のアパートじゃないか。
「夢だ。これは夢に違いない」
声に出してみると、その声が自分のものとは思えないほど若々しく、甲高かった。慌てて立ち上がり、部屋の隅に置かれた姿見の前に立つ。鏡に映っていたのは、紛れもなく僕だった。だが、目の下に深い隈を刻み、生気の失せた四十二歳の男ではない。頬にはまだ若さの証であるニキビの跡が残り、髪には一本の白髪もなく、ただ漠然とした未来への不安だけを瞳に宿した、大学生の佐藤健がそこにいた。
「な……んだよ、これ……」
頬を思い切りつねってみた。じわりと確かな痛みが走る。夢じゃない。だとしたらなんだ? テレビのドッキリか? いや、僕のような社会の底辺にいる人間を被写体にしても、一円の価値にもなりはしない。まさか統合失調症か何かを発症して、幻覚を見ているのか。それならいっそ納得がいく。四十二年間、負け続けた人生の終着点が精神の破綻だったとしても、驚きはしない。
震える手で、部屋に唯一ある机の上を探る。カレンダー。そうだ、日付を確認しなければ。
卓上カレンダーが、乱雑に置かれた教科書の下から顔をのぞかせていた。アイドルの女の子が、時代がかった水着で微笑んでいる。そこに印刷された、くっきりとしたゴシック体の数字。
2005年5月20日(金)
二〇〇五年。
ご、と喉が鳴った。頭を鈍器で殴られたような衝撃。血の気が引き、指先が急速に冷えていく。二十年前。僕が大学四年生で、人生の歯車が本格的に狂い始める、まさにその時期だ。
何が、どうなっている。理解が追いつかない。僕は混乱のまま、部屋に転がっていた携帯電話をひったくった。スマートフォンではない。僕の記憶では、iPhoneというものがこの世に登場するのは、もう数年先の話だ。僕が手にしていたのは、パカパカと二つに折りたためる、いわゆる「ガラケー」だった。銀色の、流線形のフォルム。三菱電機が誇る高画素カメラを搭載した、当時の人気機種「D901i」。懐かしさで眩暈がした。
おそるおそる電源を入れる。ピポパという電子音と共に、液晶画面が光を放った。待ち受け画面に表示された画像を見て、僕は息を呑んだ。
画質の粗い小さな画面の中で、二十二歳の僕と一人の女の子が、窮屈そうに寄り添って笑っている。ゲームセンターのプリントシール機で撮った、典型的な一枚。背景には「ズッ友☆」などという、今となっては気恥ずかしい落書き。
女の子の名前は、美咲。
僕の、当時の恋人。
四十二歳の僕にはあまりにも眩しすぎる、失われた太陽。その笑顔の鮮やかさが、キリキリと僕の胸を抉った。
着信履歴のボタンを押す。そこには「高橋」「鈴木」といった、サークル仲間たちの名前が並んでいる。メールの受信ボックスを開けば、「今日の飲み、どうする?」「昨日の講義のノート貸して!」といった、たわいないやり取りが残っている。その日付は、全てが「二〇〇五年五月」を示していた。
僕は幽霊のような足取りで、部屋の隅にある小さなテレビに近づいた。ブラウン管のずんぐりとした筐体。主電源のボタンを押し込むと、「ブーン」という音とともに画面がぼんやりと明るくなり、やがて砂嵐が映し出される。チャンネルのボタンをガチャリと回すと、聞き覚えのある声がスピーカーから飛び出してきた。当時の人気お笑い芸人が司会を務める、昼のワイドショーだった。画面の隅に表示されている日付も、やはり「2005年5月20日」。当時の首相の動向、公開されたばかりのハリウッド映画の話題、スーパーの特売情報。流れるCMも、商品のパッケージも全てが、僕が二十年前に確かに見て、聞いて、触れていた世界そのものだった。
情報が、脳の処理能力を超えて飽和する。
「タイムリープ」
SF小説や映画の中でしか知らなかったその言葉が、否定しようのない現実として、僕の目の前に突きつけられていた。昨夜、ベッドの中で願った、あの馬鹿げた祈り。
『神様、仏様。どうか、僕にもう一度チャンスをください』
まさか。
まさか、本当に叶ってしまったというのか。
最初は、純粋な恐怖が全身を支配した。帰りたい。元の世界に。たとえそれが、うだつの上がらない灰色の人生だったとしても、四十二年間積み上げてきた僕の現実だ。
だが、どうやって?
タイムリープの方法なんて、分かるはずもない。このまま、この二十二歳の肉体に閉じ込められて、もう一度あの間違った道をなぞるだけの人生を繰り返すのか? 美咲と出会い、そしてまた失うのか?
絶望に打ちひしがれ、座り込んだその時。
ふと別の感情が、心の底から湧き上がってきた。泥水の中から小さな気泡が生まれるように。
後悔にまみれた四十二歳の人生じゃない。まだ何者にでもなれたはずの、二十二歳の自分。無限の時間が目の前に広がっている。
これは罰じゃない。罰なんかじゃない。
これは、チャンスなんだ。
その考えに至った瞬間、世界の見え方が変わった。カビ臭かった部屋の空気が、可能性の匂いに満ちているように感じられた。窓から差し込む光が、未来を照らすスポットライトのように思えた。
その時だった。
ブブブ、ブブブ。
手の中のガラケーが、けたたましく震えた。液晶画面に表示された名前は、「高橋」。サークルの、一番の友人だった男だ。二十年ぶりに聞くはずのその名前に、なぜか僕は昨日も話したかのような親近感を覚えていた。
おそるおそる、緑色に光る通話ボタンを押す。
「おー、佐藤? 生きてるか? お前、昨日の飲み会で潰れてただろう。ちゃんと帰れたのかよ」
受話口から飛び出してきたのは、紛れもなく高橋の、少し鼻にかかった能天気な声だった。記憶の中にある声と寸分違わない。
「……ああ、なんとか」
自分の口から出た声が、あまりに若々しくてまた動揺した。声帯がまだすり減っていない。
「そりゃよかった。で、大事な連絡だ。今日の夜、また飲むぞ」
「……またかよ」
「おう、まただよ。失恋した鈴木を慰める会だ。駅前の『笑い猫』な。七時集合。絶対来いよ」
一方的にそれだけ告げると、通話は切れた。ツー、ツー、という無機質な音が、僕が確かに「過去」と繋がったことを証明していた。
約束の時間まで、まだ数時間ある。僕は引き寄せられるように、大学へ向かうことにした。クローゼットを開けると、そこには僕のセンスを疑いたくなるような服が並んでいた。意味の分からない英語がプリントされたTシャツ、妙に色落ちしたジーンズ。僕はその中から、一番当たり障りのない無地のシャツを選んで袖を通した。
アパートのドアを開け、外の世界に足を踏み出す。街の風景全てが、僕にとっては懐かしい記憶の洪水だった。まだ高層マンションが建っていない駅前の空は、広く感じられた。今はもうないレンタルビデオ店「JAM」の看板。すれ違う人びとが手にしているのはスマートフォンではなく、色とりどりのガラケーだ。女性たちの眉は細く、髪は茶色く染められ、みんな同じような服装をしている。まさに、二〇〇五年。
大学のキャンパスは、若者たちの無目的で、かつ力強いエネルギーに満ちていた。自分も二十年前までこの中の一人だったはずなのに、今はまるで動物園の檻の中から人間を眺めているような、場違いな感覚があった。僕の中身は、人生の酸いも甘いも(主に酸いばかりだが)味わい尽くした、四十二歳のおっさんなのだから。
見慣れた講義棟の、いつもの溜まり場になっているラウンジを覗き込む。
そこに、彼らはいた。
高橋が、鈴木の肩を叩いて何かをからかっている。数人の男女がけらけらと笑っている。
そしてその輪の中心に、美咲がいた。
彼女は、友人と楽しそうに話していた。長い髪をかきあげる仕草。大きな口を開けて笑う顔。僕が失ってから十七年間、夢の中でさえ鮮明に見ることのできなかった太陽が今、目の前にあった。僕の存在に気づいた彼女は、ぱっと顔を輝かせ、小さく手を振った。
「健ー!おはよー!昨日、ちゃんと帰れた?」
その声に、心臓が凍りついた。思考が停止する。何と返せばいい? 久しぶり、元気だったか? いや、違う。昨日も会っているはずなんだ。おかしいと思われてはいけない。
四十二歳の僕が知っているのは、彼女に「将来が見えない」と別れを告げられ、二度とその笑顔を見ることのなかった未来だけだ。その記憶が、僕の舌を縫い付けてしまった。
「……お、おう。おはよう」
絞り出した声は、自分でも驚くほどぎこちなかった。
美咲が、不思議そうな顔で小首を傾げる。
「どうしたの、寝ぼけてる? 顔色悪いよ」
「いや、なんでもない。ちょっと、二日酔いかな」
我ながら、見事な言い訳だった。
高橋が「だっせーの!」と笑い、仲間たちもそれに同調する。「昨日の合コンで気に入った子に、いいとこ見せようとして空回りしてたもんなあ」「健って、昔からそういうとこあるよな」。
中身のない、生産性の欠片もない、それでもどうしようもなく輝かしい会話。僕はうまくその輪に入ることができず、曖昧に笑うことしかできなかった。僕と彼らの間には、僕だけが認識している、二十年という長くて暗い川が流れていた。
夜。居酒屋「笑い猫」。
安っぽい木のテーブル、ヤニで黄ばんだ壁、喧騒。全てが記憶の通りだった。失恋した鈴木は、乾杯の音頭もそこそこにウーロンハイのグラスを空けていた。
「もうダメだ……俺はもう、誰も愛せない……」
「はいはい、そのセリフ、半年前にも聞いたわ」
高橋が、枝豆を口に放り込みながらあっけらかんと言う。誰も鈴木の悲劇を本気で心配してなどいない。ただそれを肴に、安い酒を飲むための口実なのだ。僕も最初の人生では、そうやって無為な時間を浪費していた。
そんな喧騒の中、高橋がふと真面目な顔で言った。
「つーか、お前ら、就活どうすんの? 俺、そろそろインターンとか行っとかねえと、やばいかなって」
その言葉が、僕の鼓膜を鋭く打った。
そうだ。就職活動。最初の人生で、僕が正面から向き合うことから逃げ出した、最初の、そして最大の分岐点。ここで全てが決まったと言ってもいい。
隣りに座っていた美咲が、僕の顔を覗き込んできた。彼女の眼差しには、期待と少しの不安が滲んでいた。
「健はどうするの?」
その問いに、僕の頭の中で二つの道がくっきりと現れた。
一つは王道だ。今度こそ、真面目に就職活動をする。それなりの企業に入り、安定した給料をもらい、美咲を安心させる。そして結婚し、子供が生まれ、平凡だけど確かな幸せを手に入れる。四十二歳の僕が喉から手が出るほど欲しかった、失われた人生の正解ルート。
だが、もう一つの道があった。
悪魔が囁くような、甘美な道。
僕は、未来を知っている。
この二十年で何が起こった?
どんな企業が成長し、どんな技術が世界を変えた?
そうだ。iPhoneの登場。GoogleとAmazonの支配。SNSの爆発的な普及。そして……。
脳裏に、タイムリープ直前に僕が祈りを捧げた、あの単語が閃光のようにきらめいた。
仮想通貨。ビットコイン。
居酒屋の喧騒が急速に遠のいていく。高橋や鈴木の声が、意味をなさない音の羅列になる。僕の頭の中では、無数の数字とグラフが高速で回転を始めていた。
二〇〇九年にサトシ・ナカモトと名乗る謎の人物によって、最初のブロックが生成される。当初はギークたちのおもちゃで、一万BTCでピザ二枚と交換されるような、無価値に等しいデータだった。
それが、どうだ。
数年後には数万円になり、やがて数十万円、数百万円、ピーク時には一千万円を超える価値をつけた。僕がいた二〇二五年の世界でも、主要な資産として国家や大企業が無視できない存在になっていた。
「……なあ、みんな」
僕は、自分でも気付かないうちに、口を開いていた。
「もし、だよ。もし、将来、とんでもない価値になるって分かってるものがあったら、どうする? 全財産つぎ込む?」
「何それ、株の話? インサイダー取引は犯罪だぞー」
「タイムマシンでもあるんすか、健先輩。あったら、昨日の合コンの前に戻りてえなあ」
仲間たちはいつもの冗談だと思って、からかうように笑った。
しかし、僕の目は笑っていなかった。
僕の目には、もはや彼らの顔は映っていなかった。見えているのは、まだ誰もその価値を知らない、黄金色に輝く未来の設計図だった。
人生を、やり直す。
その言葉の意味が僕の中で静かに、しかし決定的に変質していくのを、僕は自覚していた。
過去の失敗を取り戻す、などという、そんな殊勝な考えは消え失せていた。
そうじゃない。
未来の全てを、この手で支配するのだ。
脳裏に、美咲の幸せそうな顔が浮かぶ。隣りには、億万長者になった僕がいる。高級マンションの最上階で、彼女にダイヤモンドの指輪を贈る。就職なんて、馬鹿らしい。働く必要などない。金が金を生む神のような領域に、僕は到達できる。これなら彼女を絶対に、誰よりも幸せにできる。
自分の顔に、四十二年の人生で一度も浮かべたことのないような、獰猛で野心に満ちた笑みが浮かんだのを、美咲だけが見ていた。
「健……?」
彼女の不安そうな声で、僕は我に返った。
「なんでもない。こっちの話だ」
僕は、目の前のビールジョッキを一気に呷った。ぬるくなったビールの味は、もうどうでもよかった。僕の舌は、まだ見ぬ蜜の味を確かに感じ取っていた。
ここからだ。
僕の、本当の人生は。
ここから始まるんだ。