エピローグ
震災から数ヶ月が過ぎた。
季節は、夏を迎えようとしていた。春先はどんよりと灰色だった東京の空も、今は突き抜けるような青を取り戻している。原発騒ぎで計画停電の続いていた日々も終わった。街も活気を取り戻そうとしている。まだ大きな余震が時折襲ってくることもあるが、人びとの顔には少しずつ日常が戻っていた。東北の地でも、復興への力強い槌音が響き始めている。
僕たちのつくった団体「みらい東北振興会」は、歴史に残る奇跡の象徴となっていた。
NPO法人化し、その代表として時の人となった高橋は、政府の復興会議にも、民間アドバイザーとして招かれるようになっていた。佐々木はその広報手腕を買われ、大手広告代理店に、破格の待遇で引き抜かれた。鈴木は市役所を辞め、NPO法人の専従職員として、支援金の公正な分配のために、今も東北と東京とを飛び回っている。
そして僕が創り出したビットコインは、この震災をきっかけに、その価値と可能性を世界中に知らしめた。タイムリープ前の世界よりも遥かに早いスピードで、その価格は急騰を始めていた。震災とその復興段階で、自分が持っていたほとんどのビットコインは使い果たしていたが、それでも残っていた分は、自分の生活を十分に支えてくれている。
僕はその全てを、タワーマンションの一室から静かに眺めていた。
僕は、影の英雄だった。東北各地で辻立ちをして東北を救おうとした、謎の未来人。誰も、僕の本当の姿を知らない。それでよかった。僕が望んだのは、名声ではなかったからだ。
その夜、僕は数ヶ月ぶりに、都心の隠れ家のようなバーで、高橋たち三人と祝杯を挙げていた。
「健! 本当に、お前のおかげだ!」
高橋が、僕の肩を力強く叩いた。「お前がいなければ、俺たちは何もできなかった。お前こそが本当のヒーローだ」
「よせよ」と僕は照れながら、グラスを傾けた。「お前たちがいてくれたからだ」
「まったくだぜ」と佐々木が笑う。「俺なんか、もう会社の英雄扱いだぜ? あの時のネットでの情報戦、伝説になっているらしいからな」
鈴木が、静かな目で僕を見ながら頷いた。「僕も、市役所にいたままだったら、決して見ることのできない景色を見られた。君には、言葉にできないほど感謝している」
仲間たちの、心からの賞賛の言葉。
僕はこの数ヶ月で、初めて心の底から、笑ったかもしれない。
僕の孤独で、惨めだった人生は、確かに変わったのだ。僕は多くの命を救い、仲間たちの人生さえも良い方向へと導くことができた。
それは、紛れもない勝利だった。
僕の人生の、完全な勝利。
そう、確信したその時。
「……なあ、健」
鈴木がふと真面目な顔になり、声を潜める。
「一つだけ、ずっと、お前に、言わなければならないと、思っていたことがあるんだ」
その、ただならぬ雰囲気に、高橋も、佐々木も、口を噤んだ。
「なんだよ、改まって」
僕は、まだ笑っていた。
鈴木は鞄の中から、一枚の折りたたまれた紙を取り出した。
「今回の震災で、数百名の犠牲者が出ている。『みらい東北振興会』の方でも、犠牲者の方々の、最終的な名簿の確認作業を手伝っていてね……。その中で、見つけてしまったんだ」
彼はその紙を、テーブルの上にそっと置いた。
「……同姓同名の、別人かもしれないと、何度も、思った。でも、本籍地と、生年月日を、確認したら……間違いない」
僕の心臓が、嫌な音を立てて、軋んだ。
僕は震える手で、その紙を広げた。
そこには、いくつかの市町村の名前と、そして夥しい数の、人びとの名前が、小さな文字で印刷されていた。
そして、そのリストの中ほど。
宮城県、南三陸町。
その町の名前の下に、僕は見つけてしまった。
僕が、このリストに、何よりも見たくなかったその二文字を。
『遠藤 美咲』
遠藤。
ああ、そうか。結婚したのだから、苗字は変わっているのか。
僕の頭の中で、何かがプツリと切れた。
バーの洒落た音楽も、周りの客たちの楽しそうな話し声も、全てが遠ざかっていく。
僕は紙の上の、インクの染みにしか見えない彼女の名を、呆然と見つめていた。
その後のことを、僕はよく覚えていない。
気付けば、僕は自分の部屋で一人、蹲っていた。
部屋の中は、めちゃくちゃに荒れ果てていた。高価なグラスも、ウイスキーのボトルも、全てが床に叩きつけられ、砕け散っている。壁には、僕が拳で殴りつけた生々しい穴がいくつも空いていた。
僕の喉は、叫び過ぎて完全に潰れていた。
数日間、僕はそうやって、獣のように荒れ狂い、そして泣き続けた。
何のために。
僕は、何のために、ここまで来た?
人生をやり直し、歴史を変え、数万の命を救った。サトシ・ナカモトとして、新しい世界さえ創り出した。
なのに。
なのに、なぜ。
僕が、本当に、本当に、やり直したかった、たった一つの未来だけが、こんな最悪の形で、失われなければならないんだ。
数週間後。
抜け殻のようになった僕は、一つのことだけを考えていた。
美咲に、会いに行かなければ。
僕は一人、東北へ向かう新幹線に乗った。
車窓から見える景色は、数ヶ月前とはまるで違っていた。震災の傷跡は、まだあちこちに生々しく残っている。だがその中で、確かに新しい復興の槌音が響き始めていた。その復興活動の多くを、僕たちの創ったNPOが支えている。その皮肉な事実が、容赦なく僕の胸を突き刺す。
彼女が眠る南三陸町は、海を見下ろす美しい丘の上にあった。
仮設の白い墓標が並んでいる。僕は、鈴木から聞いていた場所を頼りに、美咲の小さな木製の墓標を見つけ出した。
僕は持ってきた一輪のガーベラを、そこに供えた。彼女が一番好きだった花だ。
僕は墓標の前に膝をつき、静かに手を合わせた。
言葉は、何も出てこない。ただ、涙だけが頬を伝った。
「……あの……」
不意に、背後から声をかけられた。
振り向くと、そこには初老の夫婦が立っていた。僕はその顔を見て息を呑む。美咲のアルバムで一度だけ見たことがある、美咲のご両親だった。
「もしかして……健くん、かな?」
お母さんが僕の顔を見て、そう言った。その目もとは、美咲によく似ていた。
「……はい」
僕は、かろうじてそう答える。
「そう……。やっぱり、来てくれたのね。ありがとう」
お母さんはそう言って、深く、深く、頭を下げた。「あの子も、喜んでいると思います」
「いえ……僕は……」
「あなたたちのこと、ニュースで見ました。『みらい東北振興会』の方、なんでしょう? あなたたちのおかげで、この町の、本当に多くの人が、助かりました。私たちも、あの時、避難所にいて、おかげで……。本当に、ありがとう」
お父さんも、僕に向かって、深々と頭を下げた。
僕は、何も言えなかった。彼らに、一体何が言えるというのだ。
あなた方の大切な娘さんを、僕は救えませんでした、とでも言うのか。
お母さんが、涙を拭いながら、語り始めた。
「あの子ね、結婚してからも、時々あなたの話をしていたのよ。『健は、大丈夫かな。ちゃんと、ご飯食べてるかな。あたしがいないと、あいつ何もできないんだから』って。いつも、あなたのこと、心配していて……」
「……」
「あの子、ここで、幼稚園の先生をしていたのよ。あの日もね、最初の揺れの後、園児たちを、全員、高台の、このお寺まで、連れて来てくれたの。でもね……」
彼女は、一度、言葉を詰まらせた。
「点呼を取ったら、一人、足りなかったの。怖がって、教室の机の下に、隠れちゃってた子が、一人……。周りは、みんな、もう危ないから、行くなって、止めたんだけど……あの子、『先生だから行くのは当たり前』って、そう言って、笑って、一人で、園まで、走って、戻って行ったの」
お父さんが、言葉を継いだ。
「……あの子は、いなくなっていた子を、見つけ出したんだそうだ。そして、その子を、背中に、しっかり、おぶって、この、丘を、駆け上がってくる、途中だった。あと、ほんの、数十メートルだったんだが……」
そこで、言葉は途切れた。
もう、何も聞きたくなかった。
全ての、真実。
彼女は、ただ運悪く死んだのではない。
最後まで、誰かのために戦って、そして命を落としたのだ。
僕が、やろうとしていたこと。
いや、僕がやるべきだった、本当の尊い行いを、彼女はたった一人で、そのか細い身体で成し遂げたのだ。
僕は、その場で崩れ落ちた。
そして、子供のように声を上げて泣いた。
「ああ……あああああああああっ!!」
「美咲ッ……!! ごめん……! ごめん……っ!!」
僕は、人生をやり直した。
歴史を、変えた。
数万の命を、救った。
サトシ・ナカモトとして、世界さえ変えたのかもしれない。
しかし。
僕が、本当に、本当に、やり直したかった、たった一つの未来。
彼女が、隣りで笑っている、ただそれだけの平凡な未来を。
僕はこの手で、永遠に失ってしまったのだ。
僕の全ての成功は、この一つの絶対的な喪失の前では、何の意味もなさなかった。
僕は、英雄ではない。
僕は、サトシ・ナカモトでもない。
ただ運命に翻弄され、必死でもがき、そして取り返しのつかない喪失を、一生抱えて生きていく、一人の名もなき男なのだ。
僕は、美しくそして残酷な、復興途上の東北の海を前に、ただひたすら泣き続けた。
その涙が、いつか涸れる日が来るのか、僕にはもう分からなかった。
東京に戻った僕の時間は、再び色を失った。
季節は夏を過ぎ、秋へと向かっていた。タワーマンションの巨大な窓から見える空はどこまでも高く、澄み渡っている。街は、震災の傷跡などまるでなかったかのように、活気に満ち溢れていた。しかし僕の心は、みぞれが降る、三月の東北の灰色の空の下に、ずっと取り残されたままだった。
部屋は、静か過ぎた。
高橋たちが気を利かせて、僕が叩き壊した家具やテレビを、全て新しいものに替えてくれていた。だけど、その新品の、匂いのない家具に囲まれていると、僕の孤独はより一層際立つ。
僕がサトシ・ナカモトとして創ったビットコインは、僕にとってもはや勝利の証ではなかった。それは、僕が美咲を救えなかったという、あまりに巨大な墓標のように思える。
彼女の両親の言葉が、耳の奥で何度も、何度も反響する。
『あの子、結婚してからも、時々、あなたの話を、していたのよ』
『健は、大丈夫かな。あたしがいないと、あいつ何もできないんだから…』
『幼稚園の先生として、最後まで、園児たちを……』
そのたびに僕の胸は、内側から鋭い刃物で、抉られるように痛んだ。
僕は、彼女の墓前でいつまでも泣き叫んだ。だが東京に戻ってからは、涙さえもう出ない。悲しみは人の受け入れられる許容量を超えると、涙という生理的な反応さえも、奪い去ってしまうらしい。後には、鉛のように重く冷たい後悔の塊だけが、僕の魂の真ん中に居座っているだけだった。
僕は自問した。薄暗い部屋の中で何日も、何日も同じ問いをひたすら自分に投げかけ続けた。
「僕は、なぜ間違えた?」
そうだ。僕は、間違えたのだ。
この二度目の人生で、僕は致命的な過ちを犯した。
タイムリープした、あの日に戻る。大学生だった二十二歳のあの時の自分に。僕は、美咲を今度こそ幸せにしたいと、そう誓ったはずだ。
僕の過ちの一つは、金の力で美咲と幸せになろうとしたこと。そしてもう一つは、仮想通貨という技術を知ってしまっていたことだ。タイムリープ前の世界でいつまでも学生気分でモラトリアムな時間を続け、それがうまくいかなくなると、仮想通貨に夢を見る。そんな佐藤健の生き方は、人生をやり直しても変わらなかったのだ。
知識として知っていたビットコインという存在が、僕の目の前に安易な「近道」を示してしまった。真面目に働き、美咲と向き合い、地道に関係を築いていくという、本来僕が選ぶべきだった、困難ではあるが正しい道から、僕の目を逸らせてしまったのだ。
僕は、彼女とのささやかな未来を築くことよりも、サトシ・ナカモトとして世界を変えるという、傲慢で知的な快楽を選んでしまった。
その選択が、僕から美咲を遠ざけた。そして巡り巡って、結果的には、彼女を死へと追いやってしまったのだ。
あまりに重い後悔の中で、僕の思考はふと逃避するようにある謎へと向かっていった。
ビットコイン…。
ブロックチェーン……。
僕は頭の中に、いくつもの四角を鎖のように繋げて描いてみる。
「そうだ…ブロックチェーンは、一つ前のブロックのハッシュ値を、自分の中に取り込むことで、連続性を、その正しさを証明する。改竄不可能な、過去との繋がり……」
僕の、この二度目の人生も同じだ。タイムリープ前の一度目の人生の記憶があったから、僕はビットコインを、ひいては「サトシ・ナカモト」を再発見できた。
「じゃあ……」
そこまで来て、ふっと思考が繋がった。
「僕が記憶していた、タイムリープ前の世界のサトシは? そいつも、さらに前の世界の記憶を持っていたのか? これじゃ、無限に続いてしまう……。ジェネシスブロックはどこにある? 最初の、本当に最初の、誰からもハッシュ値を引き継いでいない、最初のサトシは誰なんだ……?」
僕の思考が、連鎖を始める。
僕が行動を起こした、震災からの救済。その行動は、僕が狂人のように辻立ちをした、あの孤独な過去があったから成り立った。
僕の東北各地での辻立ち。その行動は、僕がサトシ・ナカモトとして、ビットコインを再発明した、あの狂気的な探求の日々があったから、生まれた使命感だった。
僕のビットコインの再発明。それは僕がリーマン・ショックを予見し、巨万の富を得た、あの孤独な投資家時代があったから可能になった。
僕の投資家時代。それは僕が大学時代に美咲を失い、人生をやり直したいと強く願ったから始まった。
僕の大学時代。それは……僕がタイムリープしたから手に入れた、二度目のチャンスだった。
僕の思考は、ついに全ての始まりへと行き着いた。
タイムリープ。
あの日。四十二歳のうだつの上がらない僕が、コンビニの深夜バイトを終え、全てに絶望していたあの朝。
「そういえば……」
僕は、思い出す。
「あの日の朝、帰ろうとしていた里中くんに、美咲の話をしたんだったな……」
『健さん、また彼女のこと考えてたでしょ』
『後悔してんすね』
彼の、あの、全てを見透かしたような、それでいて、どこか他人事のような不思議な眼差し。
里中くん……。
モトくん。
彼の、下の名前は、確か……モトシ。
『里中 素史』
さとなか もとし……。
僕は、その場で凍り付いた。
心臓が、止まるかと思った。
僕は、震える手でペンを取り、その名を紙の上に書きなぐった。
そして、文字を並べ替える。
さとしなかもと
全身の毛が逆立った。
全てのピースがはまった。
鳥肌が全身を駆け巡る。
え?
なぜ?
なんで?
数年間、深夜勤のコンビになった里中くん。
え?
彼がサトシ・ナカモト?
最初の?
そんな…。
彼は仮想通貨なんて、何も知らない顔をしていた。
いや、違う。そんなふりをしていただけだ。もしかして、人間的な存在ではないのかもしれない。
彼は、もっと大きな……。
僕は、衝動的に部屋を飛び出した。
そして、かつて自分が働いていた、あのコンビニへと急ぐ。答えを知りたい。足がもつれる。電車を乗り継ぎ、見慣れてるはずの、だけど、今はどこか遠い世界の風景に見えるあの駅へと。
私鉄の駅で降りると、記憶を頼りに環状八号線沿いのあのコンビニへと向かう。角を曲がると、コンビニがあった……。僕の記憶している風景と何も変わらず、そこに。
自動ドアが開き、聞き慣れたチャイムが鳴る。
レジの向こうに、彼はいた。
僕の記憶と何も変わらない、人の良さそうな笑顔で、「いらっしゃいませー」と客を迎えている。
僕は、彼が客の対応を終えるのを待ち、静かに声をかけた。
「……里中くん」
僕の顔を見ると、彼は少しだけ驚いたような顔をし、そして、すぐに全てを理解したような悪戯っぽい笑顔に戻った。
「……お久しぶりです、健さん。てか、俺の名前、よく覚えてましたね」
その、あまりに軽い口調。しかしその瞳の奥は、僕の全てを見透かしているようだった。
僕は、彼を店の外へ呼び出した。
僕たちは、コンビニの駐車場に向かい合って立った。夕暮れの中、秋の冷たい風が僕たちの間を通り過ぎていく。
僕はアナグラムを書いた、あのくしゃくしゃの紙を彼に見せた。
「あなたは……誰なんですか」
僕の声は、震えていた。
里中素史は、困ったように頭を掻いた。
「あー…、バレちゃいました? マジかー、やっぱ、健さん、頭いいっすね」
彼のあまりに軽い返事に、僕は眩暈がする。
「なんて言うんすかね」と、彼は続けた。「まあ、ストーリーの管理人、みたいな? あまりにバッドエンド過ぎる話は、ちょっとだけ、手心を加えたくなるんすよ。健さんの最初の人生、あまりにも報われなさ過ぎだったんで」
「……僕の祈りを、聞いたのか」
「そりゃもう、ビンビンに。健さん、マジで、めっちゃ真剣に祈ってたじゃないすか。『コンティニューを、お願いします』って。俺、ああいうの、結構好きなんすよね」
全てを知った僕は、その場に膝から崩れ落ちた。
「でも……僕は……」
涙が、溢れてきた。
「僕は、また失敗しました! あなたがチャンスをくれたのに! 僕は、美咲をまた失ってしまった! 僕が、ビットコインなんていう余計な知識を持ってたせいで……!」
「まあ、そうっすね」
里中くんは、あっさりと頷いた。
「健さん、二度目の人生も結局、美咲さん本人よりビットコインの方に夢中だったでしょ。だから、ああなっちゃったんすよ」
「じゃあ、なんで僕に、ビットコインの知識を残したんですか!あれさえなければ……!」
「え、だって、それが健さんじゃないすか」
彼は、さも当たり前のように言った。
「あの時の健さんから、仮想通貨への熱意を取っちゃったら、もう別人になっちゃう。俺がやり直したかったのは、どうしようもなく不器用だった『佐藤健』の物語なんで」
彼は、淡々と続ける。
「でも、たくさんの人を救ったのも、事実でしょ?」
「……!」
「俺は、どちらにしても健さんがビットコインを再発明するだろうなって、予測はしてました。そしたら健さんは、とんでもない力を手に入れる。でも健さんって、根はめっちゃお人好しじゃないすか。そんな力を持ったお人好しが、これから起こる悲劇を知ってたら、どうするかなーって」
里中くんは、夕闇の迫る茜空を見上げた。
「健さんがたくさんの人を救ったのは、俺の計画じゃない。俺の当初の目的は、美咲さんとやり直してもらいたかっただけ。健さんがそういう人間だったから、そうなっただけですよ。まあ、最高の『副作用』でしたけどね」
彼は、僕の目を正面から真っ直ぐに見つめながら言う。
「でもおかげで、大事なこと学べたんじゃないすか? 金とか世界を救うとか、そういうデカい話より、大切なたった一人をちゃんと見ている方が、どんだけ難しいかってこと」
そして、彼は続ける。
「美咲さんの言ってた『健なら、きっと、すごいことするよ。私、分かってるから』って、大当たりじゃないすか」
「……!」
「健さんは美咲さんを分かろうとしてなかったのかもしれないですけど、美咲さんは健さんの全てが分かってたんですよ。美咲さんは大切な健さんを、ちゃんと見ていたってことじゃないすかね」
それを聞くと、僕はたまらなくなって、彼に懇願した。地面に額を擦り付けるようにして。
「お願いします! もう一度だけ……もう一度だけ、僕をあの時間に戻してください!」
「今度は、もう間違えません。金のためじゃない。名声のためでもない。ただ、たった一人、美咲を今度こそ、僕の全てを懸けて救いたいんです。そして美咲や仲間たちと共に、また東北を救います!」
里中素史は、静かに僕を見つめていた。
彼の顔から、コンビニ店員の軽い笑顔がふっと消えた。その、どこか物悲しく美しい顔は、僕が生まれてから一度も見たことのない神々しさを湛えていた。
「……普通、三度目はないっすよ。マジで」
その言葉に、僕は絶望した。だが彼は続ける。
「それに、今度の健さんは、完全に初期化します。ビットコインの知識も、サトシ・ナカモトだった記憶も、ぜーんぶ、没収。ただの二十二歳の、何も知らない、うだつの上がらない佐藤健に戻るだけ。あるのは、この二度の人生で味わった、彼女を失う心の痛みだけ」
彼は、僕の目を真っ直ぐに見据えた。「それでも、やります?」
僕は、迷わず頷いた。
涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、彼の目を見つめ返して。
「はい!それこそが、僕が本当にやり直したかった人生ですから」
里中素史は満足そうに、それでいてどこか慈しむように微笑んだ。それはコンビニ店員の里中くんの、いつもの屈託のない笑顔だった。
「……りょーかいっす。健さんのその物語の新しいページ、俺も見てみたいんで」
彼が、そっと僕の肩に、手を置く。
「健さんは一文無しでも、美咲さんや高橋さんたちと東北を救いに行くでしょうね。難易度強烈に高いですけど、健さんならなんとかしちゃいそうな気もするな…」
ふふっと笑う里中くんの笑顔がぼんやりと消え失せ、僕の世界は真っ白な光に包まれていった。
次に僕が目を覚ました時、そこはきっと、あの懐かしい下宿の天井の下だろう。
そして僕は、今度こそ間違えない。
僕はもう、ビットコインを追い求めない。
僕はただ一人の男として、就職活動をし、社会に出る。
僕が本当に愛した、たった一人の女性のその手を、今度こそ決して離さないように、固く、固く、握りしめるのだ。そして美咲や仲間たちと、再び悲劇を覆す。
それが、僕が二度の人生をかけてようやくたどり着いた、たった一つの真実なのだから。
美咲、待っててくれ。
僕の三度目の本当の人生が、これから始まろうとしていた。
【完】




