第十四話 三月十一日
三月十一日、金曜日。
その日の夜明けは、あまりに静かすぎた。朝日が射し込んではいるが、午後からは小雪が舞う予報になっている。
僕たちが拠点とする仙台のビジネスホテルの会議室は、一夜にして戦場の司令部へと姿を変えていた。床には仮眠を取る男たちの寝袋がいくつも転がり、テーブルの上には冷え切ったコーヒーの紙コップと、夥しい数の資料、常に最新情報を表示し続ける何台ものノートパソコンが、無機質な光を放っている。
この部屋にいる誰もが、この四十時間、一睡もしていなかった。だがその目には、疲労の色よりも、これから始まる決戦を前にした、極度の緊張感と覚悟の光が宿っている。
「各チーム、最終報告!」
高橋が、部屋中に響き渡る声で叫んだ。壁に貼られた、巨大な東北の地図。その沿岸部の、赤いマーカーで示された各市町村に、彼の率いる二百数十名のプロフェッショナル部隊は、既に展開を完了していた。
『こちら、釜石チーム。指定避難所となっている市民体育館の職員と連携完了。周辺道路の交通整理計画を確認中ですが、経路が限られており難航。物資運搬中のトラックが大きく遅れており、誘導人員もまだ配置できていません』
『大船渡チーム、同じく避難所との連携完了。高台の小学校の校庭に、物資運搬用のトラック、全車両、待機完了しています』
『南三陸チームより。役場前の防災庁舎への、避難誘導ルート、確保。地元消防団、青年会の有志たちが、ボランティアとして我々の指示系統に入ってくれました。彼らは本気です』
各チームのリーダーたちの冷静でプロフェッショナルな報告が、衛星トランシーバーを通じて、次々と飛び込んでくる。彼らはこの二日間で奇跡を起こしていた。僕がたった一人では決して成し得なかった、組織的な準備。その光景に、僕は改めて仲間という存在の心強さに打ち震えていた。
しかし僕たちの心は、決して晴れやかではなかった。
朝のニュース番組では、気象庁の担当者が冷静に語っている。「昨日の地震は、一昨日のM七・三の地震の余震と考えられます。今後、一週間程度は同程度の余震に注意が必要ですが、これを上回る規模の地震が発生する可能性は低いと考えられます」と、断定的に語っていた。
それは、これまでの学術的知見から総合的に判断した、正しい報道だったのかもしれない。しかし僕たちにとっては、人びとの避難を妨げる最も恐ろしい言葉だった。
「おい、佐々木、聞こえるか。昨日の地震を余震だと言っている大本営発表を引っくり返したい。やれるか」
高橋が、早朝から南三陸に飛んでいる佐々木に向けて、無線機越しに声を掛ける。
『…当たり前だろ』
無線機から聞こえてくる佐々木の声は、不敵に笑っていた。『こっちはもう伝説の始まりだ。「辻立ちの予言者、二度目の前震も的中!」ってな。ネットは俺たちの言葉を、マスメディアの言葉より信じ始めている』
彼のチームはこの二日間、SNSや口コミを使って「公式発表に異を唱える、謎の専門家集団」という、巧みな情報戦略を展開していた。それは、人びとの不安を煽るだけの無責任なデマとは違う。「命を守るためのもう一つの選択肢」として、僕たちの存在を人びとの心に、深く静かに浸透させていた。
「#311高台へ」。その単純で、力強いハッシュタグが、Twitterのトレンドを駆け上がっていく。
「健」
高橋が、僕の方を向いた。
「最後の確認だ。本当に、来るんだな。今日、昼過ぎに」
「……ああ」僕は、固唾を飲んで、頷いた。「来る。僕の記憶が正しければ、午後二時四十六分。あと、数時間だ」
その言葉に、部屋にいた全員が息を呑む。
僕たちは、もうやるべきことを可能な限り全てやった。
あとはただ、運命の時を待つだけだった。
「分かった…」
高橋は、そう言うと壁の地図に向き直り、僕が予想もしなかった言葉を続けた。
「俺は、これから、釜石へ向かう」
「なっ……!?」
僕は、思わず椅子から立ち上がった。「何を言ってるんだ、高橋!お前はここの司令塔だろ!なぜ、今から現場に!?」
隣りにいた鈴木も、血相を変えて高橋の腕を摑んだ。
「高橋さん、無茶です! 何かあったら、誰が全体の指揮を執るんですか!」
高橋はそんな僕たちの制止を、静かに力強い視線で制した。
「健、鈴木、落ち着いて聞け。俺は、遊びに行くわけじゃねえ。最終報告が全て上がったが、釜石の進捗が大きく遅れている。現場は、俺たちの想定通りには動いていない。このままでは間に合わねえ。こういうときに、現場を最速で動かせるのは俺だけだ」
彼は、自分の胸を、指で強く指し示した。
彼の言う通りだった。僕は未来を知る予言者かもしれない。だが、人を動かすリーダーは高橋だった。二百人を超えるプロの部隊が、命を懸けて彼の元に集まったのは、僕の予言があったからではない。高橋渉という一人の男の人間的魅力と、リーダーシップがあったからだ。
「でも、危険すぎる!」僕は、それでも、食い下がった。「僕の記憶だと、釜石は津波の被害が最も大きくなる場所の一つだぞ! 」
「分かってる」
高橋は、僕の言葉を遮った。そして、僕の肩に両手を強く置く。
「だから、健。ここからは、お前が司令塔だ」
「……え?」
「俺は、現場でお前の手足になる。全体の指揮は、お前が執れ。未来を知るお前の判断が、この作戦の唯一の生命線だ。俺も、二百人の部下も、そして何万人の住民の命も、全てお前の肩にかかってる。頼んだぞ」
あまりに重い、その信頼の言葉。僕は、何も言い返せなかった。
その時、僕の隣りで、ずっと黙って高橋の言葉を聞いていた鈴木が、静かに一歩前に出た。
「……高橋さん、俺も行きます」
いつもは少し気弱な男の、思いがけず揺るぎない声に、僕も、高橋も、驚いて彼に視線を向ける。
「鈴木、お前はこっちで健のサポートを…」
「いえ」
鈴木は、高橋の言葉をはっきりと遮った。彼は自分の眼鏡の位置を、くいっと直すと続ける。
「避難所を運営するのは、役所の人間です。こういうのは俺の専門分野だ。法律や、条例や、前例を盾にしてくる相手には、同じ土俵で話せる人間が必要です。高橋さんのような情熱と腕力だけじゃ、こじれますよ。俺も行って、法的な正当性と緊急避難の必要性を、彼らの言語で説明します」
その言葉は、僕が知るいつもの鈴木ではなかった。彼もまた市役所職員として、数年間、行政という巨大な組織の中で戦ってきた一人の男なのだ。
高橋は一瞬驚いた顔をしたが、やがてニヤリと口の端を上げる。
「……そうだったな。頼りにしてるぜ、鈴木」
その言葉に、鈴木は固い表情のまま、確かに頷いた。
高橋は、僕の方に向き直る。
「健。そういうわけだ。釜石の現場は、俺と鈴木に任せろ。だから、お前はここから動くな」
高橋は、僕の肩から手を離すと、数人の屈強な部下たちに声をかけた。
「お前とお前は、俺たちと来い。釜石まで、最短でぶっ飛ばすぞ」
そして彼は、最後に僕の前に、もう一度立った。
「じゃあな、健」
彼は、少しだけ、悪戯っぽく、笑う。
「死ぬなよ」
僕は、差し出された彼のごつごつとした手を、力強く握り返した。
「……お前こそ。絶対に、戻ってこい。約束だ」
「おう」
高橋は短くそう答えると、踵を返し、鈴木や男たちを連れて、外へ飛び出していった。
会議室に残された、僕とプロの部隊。誰もが言葉もなく、ただドアが閉まる音を聞いていた。
僕は、高橋と鈴木がついさっきまで立っていた、ホワイトボードの前に立つ。
地図の上で、赤いマーカーで塗り潰された、たくさんの町。
その一つ、釜石の文字を、僕は指でなぞった。
「……馬鹿野郎」
僕は、誰に言うでもなく呟いた。無線機のマイクを、力強く握りしめる。
時間は残酷なまでに、正確に時を刻んでいく。
正午を回り、午後一時。
沿岸部の各チームからは、緊迫した報告が断続的に入ってくる。
『避難所への住民の流入、ペースが落ちてきました。多くの人が、まだ自宅や職場で様子を見ています』
『地元のラジオが、気象庁の発表を繰り返し放送しています。「デマに惑わされないでください」と』
僕たちの最後の呼びかけも、全ての人びとを動かすことはできなかった。まだ多くの人びとが、沿岸部の危険な場所に取り残されている。
僕の心臓が、焦燥感で張り裂けそうになる。
「もう、時間がない……」
午後二時を、過ぎた。
ここ釜石の市民体育館は、しんと静まり返っていた。避難している数百人の住民たちが毛布にくるまり、固唾を呑んでその時を待っている。誰もが、無言だった。時折、不安に泣き出す子供の声だけが、だだっ広い空間にやけにかん高く響く。
「何も、なけりゃいいんだがな…」
誰かがそうぽつりと呟く声に、周囲の何人かがぴくりと反応した。
正午前に釜石に着き、汗だくで調整や誘導に明け暮れていた高橋と鈴木も、ぎりぎり準備を終わらせ、今は釜石市街地から甲子川に向かう手前の避難路で、静かにその時を待っている。
市民体育館は津波の届かない内陸の高台にあるが、今は市街地から津波避難所へ逃れる人びとを一人でも救うのが、彼らの使命だった。
仙台の司令部で、僕は残った司令部隊と、モニターのデジタル時計だけを見つめていた。
二時四十二分
二時四十三分
……
心臓が、張り裂けそうだった。
来い。いや、来るな。
頼む、僕の記憶がただの悪夢であってくれ。
微かに舞う雪の中、高橋が腕時計に目を落とす。午後二時四十五分。彼は急いで高台に向かう人びとの間を抜け、道の反対側に立つ鈴木と視線を交わした。二人の目に、同じ覚悟の色が宿る。
世界が息を止めた。
運命の、一分前。
そして、運命の時。
午後二時四十六分。
ドドドドドド……ッ!!!
地鳴り、という生やさしいものではなかった。
地球そのものが、断末魔の悲鳴を上げているかのような、腹の底をえぐられる凄まじい轟音。そして次の瞬間、世界が文字通り反転した。
ドンッ!という、垂直方向からの暴力的な衝撃。僕は、椅子からなすすべもなく床に叩きつけられた。会議室の巨大なテーブルが、数センチ、宙に浮いたのが見えた。
間髪入れず、全てを破壊し尽くすかのような左右への狂ったような揺れが、僕たちを襲った。
ガシャン!ガシャン!ガシャン!
壁のホワイトボードが次々と床に落ち、窓ガラスは、今にも砕け散りそうな不快な音を立てて激しく波打っている。照明が消え、非常灯の頼りない緑色の光だけが、地獄のような光景を照らし出した。
『うわあああああああっ!』
『捕まれ!何かに捕まれ!』
無線機からは、各チームの絶叫と怒号が入り乱れて聞こえてくる。
僕は床に這いつくばりながら、必死でテーブルの脚にしがみついた。
長い。
揺れが、あまりに、長い。
一分、二分、三分……。まるで永遠に続くかのように、世界は狂ったように揺れ続けた。
これが、僕が知っていた未来。
これが、僕が止めようとした運命。
そのあまりに巨大で抗いがたい力の前に、僕は自分の無力さを噛みしめることしかできなかった。
やがて、悪夢のような揺れが少しずつ、その勢いを弱めていった。
だが、僕たちに安堵している時間は一秒もない。
揺れが完全に収まるか収まらないか、その刹那。
僕は司令部の全部隊に、そして高橋に思いきり叫んだ。
「津波が、来る!今すぐ、動け!」
その瞬間、僕たちのチームの、本当の戦いが始まった。
彼らの任務は、シフトした。もはや避難の「呼びかけ」ではない。避難の「強制執行」だ。
高橋は、揺れでむせ返るような粉塵の舞う釜石の路上で、拡声器を手に鬼の形相で叫んでいた。
「津波が来るぞ!今すぐ、高台へ逃げろ!振り返るな!荷物なんか、捨てろ!命より大事なもんがあるか!」
揺れで、呆然と立ち尽くしている人びと。家の様子を見に戻ろうとするお年寄り。泣き叫ぶ子供。
高橋の部隊は、そんな人びとの腕を文字通り摑んで誘導路へと引っ張る。
しかし、彼らが人びとを誘導し始めた、その時だった。
午後三時八分。
グワングワン!と、世界が再び大きく歪んだ。一度目の揺れとはやや異なる、船の上にでもいるかのような、内臓をかき混ぜられるような、巨大な余震が彼らを襲った。
「うわっ!」
逃げようとしていた人びとが、再び地面にへたり込む。パニックで動けなくなる者もいた。
「止まるな!揺れで死にはしない!波に飲まれたら終わりだ!行けえええっ!」
高橋のチームの一人が、崩れかけたブロック塀から、子供をかばうように突き飛ばす。その背中に瓦礫が降り注ぐ。
午後三時十五分。
各チームのメンバーが高台へ続く坂道を、人びとを押し上げるようにして駆け上がっている、その最中。
三度、巨大な揺れが襲った。今度は、突き上げるような鋭い衝撃が断続的に続く。
「もうダメだ……歩けない……」
お年寄りがその場に座り込む。
「ばあちゃん、しっかりしろ!」
警備班の若者が、動けなくなったお年寄りを背中に担ぎ上げた。「俺たちが、絶対に、上まで連れてく!」
彼らは、人間で鎖を作った。前の者が後ろの者の手を引き、滑りやすくなった坂道を、励まし合いながら登っていく。
だが、その地獄のような光景の中で、僕たちは一つの確かな希望も見ていた。
僕たちの、この数日間の必死の訴え。それは決して無駄ではなかった。
揺れが収まった直後、多くの人びとは避難を躊躇しなかった。彼らの頭には「揺れの直後、津波が来る」という、僕たちが執拗なまでに繰り返した言葉が、深く刻み込まれていたからだ。
人びとは、家の鍵をかけることも貴重品を取りに戻ることもせず、ただ一目散に、僕たちが、あるいは行政が示した高台の避難所へと駆けだした。僕の知っているタイムリープ前の世界において、多くの人びとがほんの数分の躊躇によって、命を落とした。しかしこの世界では、その「致命的な数分間」を、僕たちが消し去ることができたのだ。多くの人びとは、僕の知る史実よりも、多少の余裕を持って逃げ切ろうとしていた。
津波避難所へとようやくたどり着いた高橋たちが、息を切らしながら自分たちがほんの数分前までいた、眼下の街を見下ろした、その時。
ゴオオオオオオオオオオッ……。
地鳴りとも、風の音とも違う、今まで誰も聞いたことのないような、低く不気味な音が海の彼方から聞こえ始めた。
そして、全員が息を呑んだ。
水平線の、向こう側。
空と海の境界線が、黒く盛り上がっている。
波。いや違う。
それは僕が、タイムリープ前の世界で、テレビやインターネットを通じて、何度も、何度も見た光景。
「黒い壁」だ。
それは、波ではなかった。山だった。黒い水の山脈が、信じられないほどの速度と高さで、街へと迫ってくる。
まず巨大な防潮堤が、子供の作った砂の城のように、いとも簡単に乗り越えられ、そして粉々に砕け散った。
次の瞬間、その黒い壁は瞬く間に、港に、街に、到達した。
メキメキ、バキバキ、ゴゴゴゴゴ……。
家々が、ビルが、電信柱が、玩具のようになぎ倒され、砕かれ、そして濁流の中に、飲み込まれていく。車が、船が、木の葉のように、舞い上がる。
悲鳴は、もう聞こえなかった。
あまりにも巨大で、あまりにも絶対的な破壊の前では、人間の声など無力だった。
高台の避難所では、誰もが言葉を失い、自分たちの故郷が、思い出が、日常が、一瞬にして消え去っていくのを見つめている。
多くの人がその場に崩れ落ち、泣き叫び、あるいは天を仰いで祈っていた。
高橋のチームも、その光景をただ呆然と見つめていた。
彼らはプロだ。数々の修羅場をくぐり抜けてきたはずだ。しかし天災という名のこれほどの純粋な暴力は、誰も経験したことがなかった。
だが、彼らはいつまでも立ち尽くしているわけにはいかない。
高橋が無線機に向かって、声を震わせつつもはっきりと叫んだ。
「……健、聞こえるか。見たぞ……俺たちは、全部、見た」
そして彼は、部下たちに向き直り叫ぶ。
「第一段階、終了!これより、第二段階へ移行する!釜石チームは各避難所の被災者サポートを開始しろ!俺は体育館に向かう!」
その声に、ハッと我に返ったように高橋の率いる部隊は一斉に動き出した。
警備班は、パニック状態の避難民たちを落ち着かせ、誘導する。
「大丈夫です!ここは、安全です!お年寄りとお子さんを、体育館の中へ!」
設営・運営班は、待機させていたトラックの荷台を開け、備蓄物資を次々と降ろし始めた。
「毛布を配れ!水と、食料を全員に行き渡らせるんだ!」
「発電機を回せ!投光器で、周囲の安全を確保しろ!」
ボランティアとして集まってくれた地元の若者たちも、そのプロフェッショナルな動きに引きずられるように、必死に動いていた。
地獄のような光景の中で、彼らの組織だった力強い動きは、希望の光のように見えた。
僕は仙台の司令部で、無線機から聞こえてくる彼らの声を聞きながら、モニターに映し出される、茶色い泥水に覆われた、かつて街だった場所の映像を見つめていた。
僕たちの戦いは、終わったわけではない。
いや、むしろここから本当の戦いが始まるのだ。
僕たちの、長く果てしない夜が始まろうとしていた。




