第十三話 三月十日
温かな再会の感動に浸り続けるわけにはいかなかった。感傷に浸っている時間は、一秒たりとも残されてはいないのだ。
「行くぞ!」
高橋が、僕の肩を強く叩きながら言った。「健のホテルに戻る。作戦会議だ。一分一秒も無駄にできねえ」
僕たちは夜の更けた仙台駅前を、一つの塊となって駆け抜けた。僕が拠点としていた狭いビジネスホテルの一室は、屈強な男たちが十数人入っただけで、たちまち酸欠になりそうなほどの熱気に包まれる。
高橋はすぐさま、一番大きな会議室を、数週間の間、現金で借り切ることをホテル側と交渉した。僕の潤沢な資金が、ここでも常識という名の壁をいとも簡単に破壊する。
かくして、僕たちの作戦司令室はその夜、仙台の地に産声を上げた。さらには、深夜にも関わらず、実行部隊の宿や食料を、リーダーたちが手際よく手配していく。二百人を超えるプロたちは、戦略立案に関わるリーダーたちを除いて、駅周辺の宿いくつかに分宿することになった。そこで仮眠をとってもらい、戦略が立ち次第、夜が明けないうちに東北各地へ出発していくのだ。
会議室の巨大なホワイトボードには、僕が東京で使っていたものと同じ、東北の地図を貼り付ける。しかし今回は、その地図を見つめる目が僕一人ではない。高橋が東京から連れてきた、設営、警備、運営、輸送、それぞれのプロフェッショナルたちの鋭い眼光が、その地図に突き刺さっていた。
彼らは僕の話を、新幹線の中で高橋から細かく聞かされていた。タイムリープ、未来の記憶、大震災。常人ならば一笑に付すだけであろう、荒唐無稽な物語。しかし彼らは、誰一人として、僕を疑う目をしていなかった。彼らが信じているのは、僕ではない。彼らが、その人生を賭けてもいいと判断した、高橋渉という男の、その覚悟の目だ。そして今日の昼、この東北の地を揺るがしたM七・三の地震という動かぬ事実だ。
「まず、大前提の確認だ」
高橋がマーカーを手に取り、口火を切った。「健の言う通り、明後日の昼過ぎ、この赤いエリア全てに、M九・〇の本震と巨大な津波が来ると仮定する。俺たちの目的は、一人でも多くの人間をそこから避難させることだ。だが――」
彼は一度言葉を切り、僕の目を見た。
「俺たちは、神でもなければ、国家機関でもない。ただの民間人だ。勝手に避難所を開設したり、道路を封鎖したりすれば、それはただのテロ行為と見なされる。警察に、即刻、全員、逮捕されて終わりだ。そうだよな、鈴木?」
高橋に振られ、鈴木がノートパソコンの画面から顔を上げて、頷いた。彼はこの数時間で、災害対策基本法や、関連する法律、条例を、全て頭に叩き込んでいた。
「その通りだ。我々には、何の法的権限もない。行政の指示に逆らうような行動は、絶対にできない。それに、下手に動けば、パニックを誘発し、かえって被害を拡大させる危険性すらある」
彼の言葉は、冷静で、的確だった。これが、プロの仕事か。僕は、ただ闇雲に叫ぶだけだった自分の行動を思い出し、恥ずかしくなった。
「そうだ」と、高橋が続けた。「だから、俺たちの取るべき戦術は一つしかない」
彼はホワイトボードに、大きくこう書きなぐった。
『公式避難所の、民間による、勝手応援団』
「俺たちは、避難所を『作る』んじゃない。各市町村が既に指定している、高台の学校や公民館。その『公式の避難所』の機能を、俺たちの力で、極限まで『拡充』するんだ。行政の手が、足が、頭が、追いつかない部分を、俺たちが黒子として、事前に可能な限り、サポートする」
彼の言葉に、その場にいた全てのプロフェッショナルたちの目の色が変わった。彼らは瞬時に、自分たちのやるべきことを理解したのだ。
「物流班!」
高橋が叫ぶと、いかつい顔つきの運送会社の社長が、一歩前に出た。
「お前らは、健が今から確保する、内陸の倉庫からの物資を、沿岸部まで運ぶ、最短・最速のルートを、今すぐ全て割り出せ。道路状況は、刻一刻と変わるぞ。複数のバックアップルートを考えろ!」
「警備班!」
元自衛官だという、警備会社の隊長が応える。
「お前らは、各避難所の、周辺の地理を把握しろ。パニックが起きた時の、避難誘導路、危険箇所。そして、物資を安全に保管・搬入するための、駐車スペースの確保だ!」
「設営・運営班!」
高橋のかつての部下たちが、声を揃えて「はい!」と答える。
「お前らは各チームに分かれ、夜が明け次第、沿岸部の各市町村に飛べ。そして公式避難所の、キャパシティを調べろ。足りないものは何か。水か、食料か、暖か、それとも情報か。必要なものを全てリストアップし、俺と健に報告しろ!」
彼らには、考え込んでいる時間もなかった。高橋の神がかったような指示の下、二百人を超えるプロの部隊が、それぞれの役割に応じて一斉に動き出す。会議室は、電話の怒号と、キーボードを叩く音、そして地図の上に、無数の線が引かれていく音で満たされていった。
僕はその光景を、ただ圧倒されて見つめていた。
これがチーム。これが組織。僕が、一人では決してたどり着けなかった景色。
そして三月十日が始まる。
その日の深夜、高橋率いる「腕利き部隊」は、僕が九日の昼間のうちに確保しておいた大量のバンやトラックに分乗し、まだ余震の続く暗闇の東北道を、沿岸部の各市町村へと進軍していった。
それは、まさしく鬼神のような勢いだった。
夜が明ける頃には、彼らはそれぞれの持ち場である、沿岸部の市町村に到着していた。そしてプロの仕事として、即座に行動を開始した。
あるチームは、石巻で公式の避難所となっている複数の学校を訪れる。そこには、前震の揺れに怯えた十数人のお年寄りたちと僅かな職員が、不安そうに身を寄せ合っているだけだった。
チームのリーダーは、職員にこう告げた。
「我々は、民間の緊急支援NPO『みらい東北振興会』です。行政の指示を待たず、独自に動いています。あなた方の活動を、サポートさせてください。我々には、発電機も、暖房器具も、そして間もなく、トラック満載の水と食料が届きます。どうか受け入れてください」
最初は、不審がっていた職員も、彼らのあまりに手際の良い動きと、その目にある本気の光を見て、やがてその申し出を受け入れた。
また別のチームは、南三陸町で広報活動に徹していた。
佐々木が、東京からリアルタイムで指示を出す。「政府発表を、覆せ!」。
彼らは、手作りのプラカードと拡声器を手に、早朝から駅前で訴える。
「昨日の地震は、前震です!明日の昼過ぎ、もっと、もっと大きな本震と、津波が来ます!どうか高台の避難場所へ、今すぐ避難してください!
もし地震が来なかったとしても!それはそれで万事問題ないではありませんか!」
その呼びかけに、駅の近くの住宅の窓から顔を覗かせる地元住民たちは、最初は何事かと、遠巻きに眺めているだけだった。
しかし、現地での行動が始まった三月十日午前六時二十三分。
M六・八の二度目の大きな前震が、再び東北地方を襲った。
その瞬間、潮目が完全に変わった。
「また、揺れた……」
「あの人たちの、言う通りだ……」
「本当に余震なんだろうか……」
人びとの心に、前震が植え付けた「不安」の種が、二度目の揺れによって、一気に「恐怖」という名の巨大な芽を吹き出したのだ。
佐々木のチームが流した、ネット上の口コミや動画も、この揺れをきっかけに爆発的に拡散した。「予言者がいる」「もしかしたら本当に大地震が来るのかも」。そんな、真実とデマが入り混じった情報が、人びとの避難行動を強力に後押しした。
災害弱者であるお年寄りや、小さな子供を抱える親たちが、彼らが指し示す「公式の避難所」へと、我先に殺到し始めたのだ。
僕も、仙台のホテルで二度目の前震の揺れを感じていた。それからしばらくして、高橋からの興奮した電話を受ける。
『健!見たか!これで、もう、誰も疑わねえ!人が、動き出したぞ!』
その日の午後には、僕が手配した物資満載のトラックが、沿岸部の高台に待機させた各チームの元へと、次々に到着し始めていた。
そして、夜。
仙台近辺の市町村を遅くまで見回り、帰路についた高橋からの報告。
『健。現在、俺たちがサポートしている、沿岸部各所の避難所に、自主的に避難してきた住民の数……推定、三万人を超えた』
その言葉を聞いた瞬間、僕は、椅子から崩れ落ちそうになった。
三万人……。
僕一人では絶対に届かなかった数字。
僕は仲間たちの、そして彼らを信じて動いてくれた、名もなきプロたちの顔を思い浮かべた。
涙が、止まらなかった。
「……ありがとう」僕は、電話の向こうの高橋に言った。「みんなのおかげだ」
『違うだろ』
高橋の声は、静かだった。
『お前が、最初に、たった一人で、狂人扱いされながらも、仙台まで来て、叫び続けてくれたからだろ。あの、ひたむきな姿が、みんなの心のどこかに、残っていたからだ。俺も、鈴木も、佐々木も、そして、今、現場で戦ってる、プロの連中も。みんなお前の、あの馬鹿みたいに真っ直ぐな目に、動かされたんだよ』
僕は、自分の孤独な戦いが決して無駄ではなかったことを、その時、初めて悟った。
そして仲間たちの前で、声を上げて子供のように泣きじゃくった。
本震発生まで、あと十数時間。
長かったようで、あまりに短い僕たちの戦いは、いよいよ最終局面を迎えようとしていた。




