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第十二話 三月九日

 三月九日、水曜日。

 また、朝がやって来る。

 前震はまだ発生していない。

 仙台駅近くに取った安くて狭いビジネスホテルの窓から、僕は灰色の空を眺めていた。空からは、みぞれ混じりの冷たい雨が落ちてきている。高橋からの返信はない。もちろん鈴木からも、佐々木からも。僕が東京で送ったあの魂の叫びは、やはり彼らの心には届かなかったのだ。


 僕は、完全に一人だった。

 この数日間、僕は来るべき日に備え、一人で可能な限りの準備をしようとした。しかし、その結果は相変わらずひどいものだった。僕の部屋の隅には、近くのスーパーから運んできた数箱の段ボールが積まれているだけ。中身は、焼け石に水にもならない量の、水と栄養補助食品。

 自分が如何に無力であるかを思い知らされるのも、もう何度目だろうか。


 ノートパソコンに表示される東北の地図。一体、何人の人びとが、ここに住んでいるのか。子供たちはどんな顔で笑うのだろうか。お年寄りたちは、どんな思いでこの海と共に生きてきたのだろうか。

 僕は、彼らの顔も、声も、何も知らない。それなのに、彼らに待っている辛い宿命だけを知っている。その切ない事実に、僕は何度も吐き気を催した。


 もう、午前十一時を回っていた。

 僕は、ほとんど諦めかけていた。やはりダメだったのだ。僕の言葉は誰にも届かない。僕の記憶はただの呪いだったのだ。

 僕は、ホテルの固いベッドに横たわり、天井の意味のない模様を、ただぼんやりと眺めていた。もう、全てがどうでもよい。

 十二時。正午だ。もし、正午を過ぎても何も起こらなければ、全ては終わりだ。僕はこのホテルを出て、どこか、誰も僕を知らない遠い場所へ消えてしまおう。

 そう、心に決めた。


 僕が、全ての希望を手離しかけた、その瞬間だった。


 ジリ、ジリ……。

 部屋の、安っぽい電気ケトルが、カタカタと震えるような、微かな振動。

 僕は最初、それを気のせいだと思った。あるいは、外を走る大型トラックの振動か、と。

 だが、次の瞬間。

 ドンッ!!

 まるで、ホテルの真下から、巨大な杭で突き上げられたかのような、垂直方向の鋭い衝撃が、僕の身体をベッドから跳ね起こした。


「―――ッ!?」

 間髪入れず、ガタガタガタガタッ!と、建物全体が、左右に激しく揺さぶられる。窓ガラスが、悲鳴のような音を立てて軋む。壁に掛かっていた安い複製画が、床に落ちて乾いた音を立てた。机の上のノートパソコンが滑り落ち、床で鈍い音を立てる。

 地震だ。

 僕が東京で感じたような、生やさしい揺れではない。これは本物だ。立っていることさえ、ままならない。

 揺れは、永遠に続くかのように感じられた。僕は、ベッドの縁に必死でしがみつきながら、この揺れが収まるのをひたすら待つしかない。

 恐怖を感じてはいなかった。

 感じていたのは、自分の予言が正確に、そしてあまりにも無慈悲に現実のものとなったことに対する、鳥肌が立つような恐ろしいまでの確信。


「……やはり、来たか」


 巨大な獣の咆哮のように猛っていた揺れは、やがて少しずつその勢いを弱めていった。揺れが収まると、部屋の中はもとの静寂に包まれる。いや、違う。遠くから、いくつものサイレンの音が聞こえ始めていた。

 僕はしばらく、ベッドの上で呆然としていた。

 そしてふと気付くと、ベッドから転がり落ちるようにして、テレビの電源を入れる。

 全てのチャンネルが、緊急地震速報に切り替わっている。

 画面には、激しく揺れる、港の定点カメラの映像が映し出されていた。そして、『宮城県北部 震度5弱』という、真っ赤なテロップが躍っている。

 アナウンサーが、これまでの冷静な口調とは打って変わって、切迫した声で情報を読み上げていた。


『先ほど、午前十一時四十五分ごろ、東北地方で、強い地震がありました。震源は、三陸沖。震源の深さはおよそ八キロ。地震の規模を示すマグニチュードは、七・三と推定されます。この地震で、宮城県栗原市、登米市で震度五弱を観測しました。また、岩手、宮城、福島の各県の沿岸に、津波注意報が発表されました。予想される津波の高さは、五十センチから、場所によっては一メートルに達する見込みです。海岸や、川の河口付近におられる方は、直ちに、高台などの安全な場所へ避難してください。繰り返します――』


 マグニチュード七・三。震度五弱。

 間違いない。これだ。

 僕の記憶の中の「前震」。

 アナウンサーの声が遠くなる。僕はただ、テレビ画面に表示される日本地図に打たれた、巨大な赤い震源のバツ印を見つめていた。

 自治体によっては避難の呼びかけが始まっている、というテロップが流れる。そうだ、この前震でも多少の混乱があったはずだ。だが誰も、この後に本当の地獄が待っていることなど知るよしもない。


 その時だった。

 数日間、沈黙を続けていた僕の携帯電話が、まるで悲鳴を上げるように、けたたましい着信音を響かせた。

 僕は、震える手でその電話を取った。画面を見るまでもない。誰からの電話か、とっくに分かりきっていた。


『健か!?』

 電話の向こうから聞こえてきたのは、やはり高橋の声だった。その声は、もはや僕を諭すような冷静さはなく、剥き出しの純粋な驚愕と焦りに満ちていた。

『地震……いま、東京も、かなり揺れたぞ! テレビ!東北、震度五!?お前の、お前の言った通りじゃないか!お前が言ってた通り、今週、本当に、来たじゃないか!』

「ああ」僕は、乾いた喉で、かろうじて答えた。「来たんだ」

『どうなってんだ、健!説明しろ!いや、違う!』高橋は、一度、言葉を切り、そして、叫んだ。『俺たちは、どうすればいい!?次は何が来るんだ!いつだ!?』


 その、魂からの叫びを聞いて、僕の中で何かが弾けた。

 絶望の底で消えかけていた僕の最後の炎が、再び激しく燃え上がる。

「時間がない!これは、まだ前震だ!」僕は受話器を握りしめ、叫び返していた。

『ぜんしん……? これが、まだ、前震だっていうのか!?』

「本番は、明後日!三月十一日の、昼過ぎだ!今日とは、比べ物にならない、化け物みたいなやつが来る!そして、津波が、全てを飲み込む!」

『……分かった』

 高橋の声が、一瞬で変わった。驚愕から、覚悟を決めた戦士の声へ。

『分かった。なら、やることは一つだ。健、お前はそこにいろ。司令塔になれ。俺は、今すぐ、動ける人間を全員集める!金はどうする!?』

「僕の口座に、いくらあると思ってるんだ! 金の心配はするな!お前は、人だけを集めろ!プロをだ!」



 その瞬間から、僕たちの狂気じみた戦いが始まった。

 僕は、余震の続く仙台のビジネスホテルから、高橋は、遠く離れた東京のオフィスから。二つの司令塔として、僕たちは同時に動き出した。

 僕は、床に落ちたノートパソコンを拾い上げると、ベッドの上で海外の証券口座にアクセスする。そして躊躇なく、数億円単位の資金を自分の口座へと送金した。

 その間にも、高橋は獣のように動いていた。

 電話の向こうで、彼の怒鳴り声が聞こえる。

「俺だ!高橋だ!今すぐ、全ての仕事をキャンセルしろ!キャンセル料は、こっちで持つ!理由?いいから言うことを聞け!これは、お前らの人生を変える仕事だ!」

 彼は、イベント会社での人脈をフルに活用し、彼が最も信頼する設営会社の親方、警備会社の隊長、そして、数々の修羅場を共にしてきたフリーランスの制作スタッフたちに、片っ端から招集をかけていた。「命懸けの災害派遣だ。日当は、言い値で払う。前金で、今すぐ振り込む!」。

 その言葉に、金の匂いとただならぬ事態を嗅ぎ取った、腕に覚えのあるプロたちが、次々と高橋のもとへと集結し始めていた。その数、二百人以上。


 佐々木も動いていた。彼は広告代理店の自席から、あらゆるSNSやブログ、掲示板に情報戦を仕掛けていた。「今日三月九日の地震は、ただの前震!政府やマスコミの『余震だはあるが少しずつ収まる』というのは嘘だ!本当の巨大地震が、十一日に来る。この前震を予言した男がいる。信じろ!」。彼は、僕が辻立ちで「消費」されたネットニュースのリンクを逆手に取り、この記事の男こそが真実を知っている、という新たな物語を、猛烈な勢いで拡散させていた。

 その日の夜、高橋率いる二百人を超える「腕利き部隊」は、一時運転を見合わせた後、運行を再開した最終の東北新幹線に乗り込んだ。

 車内は不安げな顔で故郷へ向かう人びとで、異様な空気に包まれていたが、その中で高橋のチームだけが違っていた。彼らの目には恐怖ではなく、これから始まる巨大な仕事に立ち向かう、プロフェッショナルとしての緊張感と高揚感が宿っていた。彼らは移動時間も無駄にせず、僕がリアルタイムで送る情報をもとに、膝の上のパソコンで作戦を練り続けていた。


 僕は仙台駅のホームで、彼らの到着を今か今かと待っていた。

 仙台の三月の夜の空気は、まだまだ冷たい。いつもなら人通りが少なくなる終電近くの駅の構内も、地震にともなう電車の運休や遅延が多発し、まだ混乱が続いているようだ。

 やがて最終の新幹線が、ゆっくりとホームに滑り込んでくる。

 ドアが開くと、まず見慣れた三つの顔が、僕の目に飛び込んできた。高橋、鈴木、佐々木。さらに彼らの後ろから、黒い実用的な服装に身を包んだ精悍な顔つきの男女が、何十人も何十人も、まるで軍隊のように整然と降りてきた。

 彼らは僕の前に立つと、誰からともなく深く頭を下げた。


 僕は、彼らの顔を一人一人見渡した。

 そして、高橋と目が合った。

 つい先日決裂したはずの親友の顔。

 言葉は、いらなかった。

「……健!」

 高橋が僕のもとに駆け寄り、僕の肩を力任せに摑んだ。その目は赤く充血していた。

「お前!本当に……!俺たちは……!」

 言葉にならない、という風に、彼はただ僕の肩を、強く、強く揺さぶった。

 鈴木は眼鏡の奥の目を真っ赤にして、嗚咽を漏らしている。佐々木がそんな彼の背中を、黙ってさすっていた。

 僕の、ここ一ヶ月の孤独な戦い。狂人扱いされ、嘲笑され、憐れみを受け、完全に折れたはずの心。

 その全てが今、彼らの姿を見て報われた気がした。

 僕の中で、ずっと張り詰めていた何かがプツリと切れた。

 僕の目から、熱いものが止めどなく溢れ出てくる。

 大丈夫だ、と強がる必要はない。

 助けてくれ、と今なら言える。

 僕は、もう一人じゃない。


「……ありがとう」

 僕は、かろうじて、そう言った。

「来てくれて、ありがとう……」


 僕の孤独な戦いは終わり、仲間たちとの最後の戦いが、今ここに始まったのだ。

 僕たちは互いの肩を抱き合ったまま、しばし言葉もなく、ただそこに立ち尽くしていた。

 本震まで、あと四十時間余り。

 嵐の前のあまりに温かい、再会の瞬間だった。

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