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第十一話 空回り

 高橋たちに最後の賭けとも言えるメールを送ってから、僕の時間は再び止まった。

 返信はない。


 三月七日、月曜日。

世界は、いつも通りの週明けを迎えていた。僕の携帯電話は、ただの黒い箱のように沈黙を続けている。

 僕は一人、静まり返った部屋で、その「審判の日」を待つことにした。

 しかし、ただ待っているだけではいられなかった。もし万に一つ、いや億に一つでも、彼らが僕を信じ、戻ってきてくれた時。「準備はできている」と、そう言えなければならない。そして彼らが戻ってこなくても、僕一人でも戦い抜くために。


 絶望の淵から、僕は再びよろめきながら立ち上がった。

 まず豪華なリビングの壁一面に、ビットコイン構築の時に使っていた広い模造紙を設置した。その上に東北地方の大まかな地図を書き付け、津波の被害が想定される沿岸部の市町村を、赤いマーカーで一つ一つマーキングしていく。その作業は、これから失われる命の数を自らの手で数え上げているかのような、拷問にも似た行為だった。

 人口、地形、高台の有無、主要道路。僕は、インターネットで得られる限りの情報を、その地図に書き込んでいく。タワーマンションの一室は、いつしか映画に出てくるような作戦司令室ウォー・ルームの様相を呈し始めていた。

 だが、そこにいるのは僕ただ一人。有能なスタッフも、鳴り響く電話もない。


「避難者一人あたり、一日に必要な水の量は、三リットル…。対象地域の人口を少なく見積もっても五十万人とすれば、一日で百五十万リットル…。三日分なら、四百五十万リットル……?」

 僕は電卓を叩きながら、その天文学的な数字に眩暈めまいがした。これは戦争の準備と同じだ。いや、敵のいない一方的な殺戮から、人びとを守るための孤独な戦いだ。


 僕は手始めに、物資の確保から乗り出した。金ならある。金で買えるものは全て買い占める。

 だがその考えが、如何に浅はかであったかを、僕はすぐに思い知らされることになる。


 最初のターゲットは「水」だった。

 ネットで調べた、大手飲料メーカーの法人販売部に電話をかける。

『はい、〇〇ビバレッジ法人営業部でございます』

「あ、あの、水を、注文したいのですが」

『ありがとうございます。法人様でいらっしゃいますか?』

「ええと、まあ、個人ですが、大量に……」

『左様でございますか。数量は、どのくらいをご希望でしょうか』

 僕は、深呼吸して言った。

「2リットルのペットボトルを、とりあえず十万本ほどお願いしたいのですが」

 電話の向こうで、数秒の完全な沈黙があった。

『……お客様、申し訳ございません。もう一度、よろしいでしょうか』

「十万本です。じゅうまん、です」

『じゅ、十万本……でございますか。失礼ですが、お客様、どのようなご用途で……』

「チャリティーイベントで、無料配布するんです。東北で」

 僕の答えは、あまりに漠然としていた。相手が怪しむのも当然だった。

『はあ……。チャリティーでございますか。大変恐縮ですが、そのような大口の取引となりますと、まずお客様の会社概要や、企画書などを、弊社の方で拝見させていただきまして、与信調査の上で……』

「会社じゃないんです。個人です。金は、あります。前金で、全額すぐに振り込めます」

『お客様、申し訳ございません。個人様とのそのような規模のお取引は、前例がございませんで……』

 僕は何社にも電話をかけたが、答えは同じだった。社会的な「信用」がなければ、企業は僕を相手にしてすらくれない。


 僕は戦略を変えた。オンラインだ。ネット通販なら、匿名で大量に買えるかもしれない。

 僕は、当時最大手だったオンラインショッピングモールにアクセスし、ミネラルウォーターを、カートに入れられるだけ入れた。しかし決済ボタンを押した数分後、僕の元に届いたのは、無機質な自動送信メールだった。

『ご注文はキャンセルされました。理由:不正な大量購入の可能性があるため』

 アルゴリズムにさえ、僕は不審者として弾かれてしまった。


 ならば、人海戦術だ。

 ネットの掲示板に「簡単な作業です。スーパーで指定の商品を買ってくるだけ。日給二万円」というアルバイトを募集した。すぐさま何人かの若者から応募がある。たちどころにマンションにやってきた彼らに現金を手渡し、「都内各所のスーパーで、水と缶詰を買えるだけ買ってきてくれ」と指示した。

 しかし、その結果は惨憺さんたんたるものだった。

 ほとんどの者は、金だけを持ち逃げした。真面目に実行してくれた者もいたが、店側から買い占めをとがめられ、トラブルになったと報告があった。僕の部屋に届けられたのは、ほんの数箱の物資だけだった。焼け石に水とはこのことだ。


 水がダメなら、毛布はどうか。医薬品は?

 僕は、医療用品の卸問屋に電話をかけ、「クリニックの開業準備で」と嘘をついた。しかし「先生の、医師免許番号を教えていただけますか」と尋ねられ、言葉に詰まった。

 寝具メーカーに問い合わせれば、「大量発注なら、納品は早くとも一ヶ月後になります」とあっさり断られた。

 僕の焦りは募る一方だった。時間がない。金はあるのに何も買えない。


 次に、僕は「場所」の確保に奔走した。インターネットで東北地方の避難所として利用できそうな遊休民間施設を探し回る。広大な土地を持つ、廃業した私立大学。高速道路のインターチェンジ近くにある巨大な物流倉庫。

 僕は不動産会社の番号に、電話をかけた。


「もしもし、あの、閉鎖されている大学の校舎を、数週間だけお借りしたいのですが」

 電話口に出たのは、やけに口調の滑らかな不動産業者の男。僕は事情をぼかし、「防災関連の大規模なシンポジウムで使いたい」と告げた。

 男は、僕が金を持っていると察したのだろう。声のトーンが明らかに変わった。

「お客様、お目が高い!あそこは、最高のロケーションですよ!で、参加人数は、どのくらいで?」

「数万人……規模です」

「数万!それは素晴らしい!でしたら、賃料は、一日あたり……」

 男が提示してきた金額は、法外なものだった。だが、僕にとっては端金だ。

「金は、払います。すぐにでも」

「話が早い!では、契約書をすぐに作成しますので、まず企画書と、市から発行されたイベントの開催許可証、消防署の査察計画書、それから…警備計画と、保険の加入証明書を、メールで送っていただけますか」

「……え?」

 僕は言葉に詰まった。許可証? 査察計画? そんなものが必要だとは、考えてもいなかった。

 男は、僕が絶句したのを電話口で感じ取ったのだろう。

「おや、お客様。まさか、無許可で、数万人規模のイベントを、開催しようとしているわけではありませんよね?」

 その声は、ねっとりとした嘲笑の色を帯びていた。

 また壁にぶつかった。ただ場所を借りるだけでさえ、社会的な手続きと無数の許可が必要なのだ。僕にはその全てがない。


 僕は、自分の無力さに打ちのめされた。

 サトシ・ナカモトとして、世界の金融システムに革命を起こすほどの複雑なシステムを、一人で創り上げた、この僕が。

 リーマン・ショックで、世界の市場から数十億の金を吸い上げた、この僕が。

 水を、買うこともできない。

 倉庫を、借りることさえできない。

 金も、知識も、現実の物理的な世界のルールの中では、あまりに無力だった。



 僕はタワーマンションの部屋で、買い集めた段ボールの山に囲まれて、みじめに座り込んだ。部屋の隅に積まれた、数十箱の水とインスタントラーメン。数えるほどしかない毛布。それは、孤独な戦いの無残な戦果だった。

 時計の針は、容赦なく三月十一日へと近付いていく。

 高橋からの返信はまだない。

 僕は、本当に一人きりだった。

 あまりに巨大で、あまりに絶望的なこのミッションを前にして。


「……もう、ダメだ……」

 僕は、呟いた。

「僕一人では、何もできやしない……」

 涙の一滴さえ、もう出ない。

 ただ静かな絶望が、雪のように僕の心に降り積もっていった。

 窓の外を見つめる。

 空はどこまでも青く、澄み渡っている。

 まるでこれから起こる悲劇など、何一つ知らないかのように。

 僕の戦いはもう終わったのだ。何もできないままに。



 三月八日、火曜日。

 起こるはずの前震はまだ発生していない。


 僕は、まだ抜け殻のままだった。

 カーテンを閉め切った部屋で、一日中酒を飲んだ。棚に並んだ、高級なスコッチウイスキー。その芳醇な香りは僕の鼻腔をくすぐるが、心には何も響かない。味がしない。ただ、アルコールの焼けるような刺激だけ。

 酔いが回ると、このタワーマンションの最上階に、自分がたった一人で幽閉されている囚人のように思えてきた。この豪華な部屋は、僕の牢獄だ。窓の外に広がるきらびやかな東京の夜景は、僕には決して手の届かない自由な世界の象徴だった。


 その時だった。

 僕の思考がふと、ある一点に吸い寄せられた。

「……ここにいては、ダメだ」

 なぜ、そう思ったのかは分からない。

 だがその考えは、雷に打たれたような衝撃と共に僕の全身を貫いた。

 ここにいては、ダメだ。

 この安全で、快適で、現実から隔絶されたガラス張りの城の中から、地図を眺め、数字を計算し、世界を救おうなどと考えていたこと自体が、根本的な間違いだったのだ。

 僕は画面の中の数字や、地図の上の記号しか見ていなかった。その向こう側にいる生身の人間の顔を、その営みを、その生活の匂いを、全く感じようとしていなかった。

 僕は神の視点に立った、傲慢な司令官を気取っていただけなのだ。

 僕は、神ではない。

 ただの無力な一人の人間に過ぎない。

 ならば、僕がいるべき場所はここではない。


「……行かなければ」

 僕は、立ち上がった。

「あの場所へ」


 理屈ではなかった。論理でもない。

 ただ行かなければならないという、抗いがたい衝動。

 僕が救いたいと願う、その人びとが生きる大地の上に、この二本の足で立たなければならない。

 彼らが吸っているのと同じ、三月の冷たい空気を吸わなければならない。

 彼らの顔を、この目で見なければならない。

 たとえ何もできなくても。たとえ僕の言葉が誰にも届かなくても。

 僕は、彼らが迎える運命の、ただの傍観者であってはならない。せめて同じ場所で、同じ時間を共有する当事者でなければならないのだ。

 それはもはや、救済計画などという大それたものではなかった。

 僕自身の罪滅ぼしのための、孤独な巡礼の旅だった。


 その決意は、僕の空っぽの心に再び行動の火を灯した。

 書斎へ向かう。部屋の隅に置いてあった、巨大な金庫を開ける。中には、リーマン・ショックの直後に、僕がこの手で銀行から引き出してきた現金一億円の束が眠っていた。

 クローゼットの奥から、大学時代に使っていた、古びた大きなダッフルバッグを引っ張り出してくる。その中に詰められるだけ、一千万円の札束を無造作に詰め込んでいく。

 それは、僕が持てる唯一の原始的な武器だった。

 僕は、デザイナーが作った高価なだけの服には目もくれなかった。代わりに、丈夫なジーンズと暖かいセーター、コートを羽織った。

 最後に、ノートパソコンをバッグの隙間に押し込む。これは僕の資金と情報への唯一の生命線だ。

 僕はそれ以外の全てを、この部屋に置いていくことにした。高級な腕時計も、洋書も、飲みかけのスコッチも。この二年半で手に入れた虚飾の全てを。


 部屋を出る。もうこの城に戻ることはないだろう。

 エレベーターが、一階へと降りていく。その静かな下降が、天上の神から、地上のただの人へと戻っていく儀式のように感じられたのだった。


 僕は東京駅へ向かい、東北新幹線の一番早い時間の片道切符を買った。

 行き先は、仙台。

 新幹線のシートに、深く身を沈める。周りには、パリッとしたスーツを着こなしたビジネスマンたち。彼らの当たり前の日常と、僕のあまりに異常な現実との、圧倒的な断絶。


 列車がゆっくりと動き出す。

 窓の外の景色が流れ始める。東京のコンクリートのジャングルが、次第に関東平野の広大な景色へと変わっていく。

 その景色を、僕は食い入るように見つめていた。

 平和な田園風景。穏やかに流れる川。家々の屋根。その全てが、あと三日後にはどうしようもなく変わってしまう。

 あまりに美しい日本の日常の風景が、僕には、死にゆく者の最期の顔のように見えて涙が止まらなかった。


 僕は、これから何をするのだろう。

 仙台に着いて、どうするつもりだ?

 また駅前で、狂人のように叫ぶのか?

 あるいは、この現金が詰まったバッグを誰かに叩きつけて、「これで逃げろ」とでも言うのか。

 計画など何もない。

 あるのはただ「そこに、いなければならない」という衝動だけ。



 数時間後。新幹線は仙台駅のホームに滑り込んだ。

 ドアが開いた瞬間、僕の身体を三月の東北の冷たい空気が包み込む。東京の生ぬるい空気とは違う、肌を刺すようなどこか澄み切った空気。

 駅の構内を行き交う、人びとの声。辻立ちを繰り返すうちに耳に馴染んだ東北の訛り。

 その全てがリアルだった。

 僕が地図の上で、赤いマーカーを使って塗り潰していたあの街の一つずつが、確かに今ここに存在していた。人びとは笑い、話し、生きている。

 その当たり前の事実に、僕は改めて打ちのめされた。


 僕は、駅近くのごく普通のビジネスホテルにチェックインした。タワーマンションとは比べ物にならないほど狭く、機能的なだけの部屋。しかし僕にとっては、あの広すぎた牢獄よりも、よほど落ち着きを感じた。

 重いダッフルバッグを、ギシギシと音を立てるベッドの上に放り出す。ジッパーを開けると、むき出しの現金の束が顔を覗かせる。

 僕はその金を、ただ見つめた。

 そして部屋の壁に掛かった、安っぽいカレンダーに目をやる。


 三月八日。火曜日。

 僕が、友人たちに最後の賭けを告げた「審判の日」は、もうすぐ確かにやってくるはずだ。

 僕は一人、この決戦の地の中心で、ただその瞬間を待つしかなかった。

 窓の外では、仙台の街の灯りが静かに瞬いている。

 嵐の前の、あまりに静かな夜だった。

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