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第十話 決裂

 僕の止まっていたはずの時間が、再び動き出そうとしていた。

 まだ、終わっていない。

 僕の戦いは、まだ終わってはいなかったのだ。

 僕は、床に転がったまま、充電器の上で震え続ける携帯電話を、ただ見つめていた。液晶画面に表示された、その名前。


『高橋 渉』


 大学時代の友人。僕が一方的に関係を断ち切った、失われた過去の象徴。

 なぜ、今になって。

 僕は、しばらくその着信音を聞いていた。それは僕の孤独な墓標に、外の世界から差し伸べられた、一本の蜘蛛の糸のように思えてくる。これを手放せば、僕は二度とこの静かな闇の中から這い上がることはできないのではなかろうか。

 脳裏にいくつもの記憶が、洪水のように押し寄せる。安い居酒屋の煙たい空気。サークルの部室の汗臭い匂い。そして、くだらないことで腹を抱えて笑い合った彼らの顔。

 僕は、震える指で通話ボタンを押した。


「……もしもし」

 声が、ひどく掠れていた。

『お、佐藤!?健か!?おい、やっぱりお前か!』

 受話口の向こうから、記憶の中にあるのと寸分違わない高橋の、少しけたたましい声が飛び込んできた。その声を聞いた瞬間、僕の目頭は勝手に熱くなった。

『大丈夫か、お前!ニュース見たぞ!東北で地震が来るって騒いで、警察に捕まったって!あれ、どう見てもお前だろ!』

「……見てたのか」

『見てたのか、じゃねえよ!心配したんだぞ、こっちは!鈴木も佐々木も、みんな大騒ぎだ!お前、今どこにいるんだ?』

 何の裏表もない、その純粋な心配の言葉が、僕の乾ききった心に、じんわりと染み渡っていくようだった。

 僕は、自分の居場所を告げる。高橋は「明日の夜、いつもの奴らと、絶対行くからな! そこにいろ!」と一方的に言うと、電話を切った。



 翌日の夜、僕の部屋のインターホンが鳴った。

 ドアを開けると、そこには高橋だけでなく、鈴木と、佐々木の姿もあった。三人とも少し緊張した面持ちで、息を切らしている。僕の廃人のような姿と、この場違いに豪華な部屋を見比べ、彼らは言葉を失っていた。


「……健、お前、本当に大丈夫なのか?」

 一番に口を開いたのは、真面目な鈴木だった。彼の眼鏡の奥の瞳は、真剣に僕の身を案じていた。

「なんだよ、その幽霊みたいな顔。つーか、ここ、お前の部屋? 家賃いくらだよ」

 佐々木が、無理に軽口を叩いて、場の空気を和ませようとする。

 高橋は、何も言わずに、ずかずかと部屋に入ってくると、僕の肩を力強く摑んだ。

「……馬鹿野郎。何があったか知らねえけど、一人で抱え込むなよ」

 その不器用な一言と、肩に食い込む指の力強さに、僕の涙腺は思わず決壊しそうになった。


 僕たちは、数年ぶりに顔を合わせた。

 高橋はイベント会社で揉まれて、精悍な顔つきになっていた。鈴木は市役所勤めらしく、少し堅い雰囲気だが、優しそうな物腰は変わらない。佐々木は広告代理店で働いていると聞いたが、相変わらずどこか飄々として、摑みどころがなかった。

 彼らは、僕が差し出したミネラルウォーターを飲みながら、僕の辻立ちのこと、それからこの数年間のことを、矢継ぎ早に質問してきた。

 僕は当たり障りのない嘘を並べながらも、ずっと聞きたくてたまらなかった、一つの質問を、喉の奥で何度も、何度も反芻はんすうしていた。


 やがて、僕は、意を決して切り出す。

「……なあ」

 声が、震えた。

「美咲は……元気にしてるか?」

 その名前を口にした瞬間、三人の顔から笑顔が消えた。気まずい沈黙が、部屋に重くのしかかる。

 やがて高橋が、言いにくそうに口を開いた。

「……健。お前、本当に、何も知らないんだな」

「どういうことだ?」

「美咲は……結婚したよ。もう、二年くらい前かな」


 その言葉は、何の比喩でもなく、僕の頭を鈍器で殴りつけた。

 結婚。

 そうか、結婚、したのか。

 当たり前だ。僕が彼女を捨ててから、もう何年も経っている。彼女が、新しい幸せを見つけて当たり前だ。頭では分かっている。分かっているのに、僕の胸は、鉄の爪で鷲摑みにされたかのように、激しく痛んだ。

「……そっか。そうだよな」

 僕は、かろうじて、それだけを言った。

 鈴木が、僕を気遣うように言葉を続けた。

「相手は、美咲の会社の先輩らしい。俺も一度だけ結婚式で会ったけど、優しそうないい人だったよ」

「……そうか」

「あいつ、お前のこと、最後まですっごく心配してたんだぜ」

 佐々木が、つけ加える。

「結婚が決まって、俺らでささやかにお祝いした時も、酔っぱらって、お前の話ばっかりしてた。『健は、大丈夫かな。ちゃんと、ご飯食べてるかな。あたしがいないと、あいつ、きっとダメなんだから…』ってさ。最後には、『いい人、見つかるといいな』なんて言って、泣き笑いみたいな顔しててよ」


 もう、聞きたくなかった。

 彼女の優しさが、彼女の気遣いが、今となっては、僕の身勝手さを映し出す鋭利な鏡となって、僕の心をズタズタに切り裂いていく。

 僕は、生まれ変わるチャンスまで与えられたのに。

 この奇跡のような時間の中で、また同じ過ちを犯したのだ。美咲の、あの太陽のような笑顔を、僕自身の手で再び永遠に失ってしまった。


 後悔と、絶望が、僕の中で、黒い渦を巻いていく。そしてその渦の中から、一つの狂気じみた決意が浮かび上がってきた。

 佐藤健の個人的な幸せを取り戻すことは、もうできない。

 ならば、せめて。

 せめてこの国を、この国に住む人びとを、救わなければならない。

 彼女が、最後まで心配してくれたこの僕が、ただの狂人ではなかったと証明するために。

 だからこそ、この避難計画だけは、絶対に、絶対に、失敗することは許されないのだ。


「……みんな、聞いてくれ」

 僕は、決心して顔を上げる。僕の目の奥に宿る尋常ではない光に、三人は息を呑んだ。

 僕は、話した。

 全てを。

 自分が、四十二歳の未来から、この時代にタイムリープしてきたこと。

 ビットコインという、未来の通貨の知識を使い、巨万の富を得たこと。

 そして数週間後、この国を東日本大震災という未曾有の災害が襲うこと。


 僕が話し終えた後、部屋には、重い、重い沈黙が支配した。

 三人はただ呆然として、僕の顔を見つめている。

 やがて、最初に口を開いたのは高橋だった。

「……健。お前、疲れてるんだよ。最近、色々あったからな。少し、休め」

 その声は、僕を諭すような、優しい声だった。

「嘘とか、もはやそういう問題じゃねえんだよ。お前の話は、あまりに現実離れしすぎてる。タイムリープ? 地震の予言? お前、自分が何を言ってるか、分かってるのか?」

「分かってるさ!誰よりもな!お前たちには分からないだろうな!これから起こる地獄を知らずに、のうのうと生きてるお前たちには!」

 言ってはならない言葉だった。

 三人の顔から、表情が消える。

「……もういい」

 高橋が、静かに立ち上がった。「もう、帰るわ」

「お大事にな、健」

 鈴木が、悲しそうにそう言った。

 三人は僕に背を向け、部屋を出ていった。ドアの閉まる冷たい音が、僕の最後の希望が断ち切られたことを告げていた。



 僕は、一人になった。

 再び、一人に。

 怒りとやるせなさが、込み上げてくる。

 僕はテーブルの上のグラスを、壁に向かって思いきり投げつけた。ガシャンというけたたましい音とともに、ガラスの破片が飛び散る。

「なんでだよ!なんで、信じてくれないんだよ!」

 僕は獣のように叫び、ソファのクッションを何度も、何度も殴りつけた。

 だが、殴っても、叫んでも、胸を焼き尽くすようなこの絶望は、少しも消えはしない。

 やがて怒りの嵐が過ぎ去ると、後にはただ魂が抜け殻になったような、深い、深い悲しみだけが残った。

 僕はその場に崩れ落ち、ソファに顔を埋めて、子供のように声を上げて泣いた。そして、いつしか涙も枯れ果て、そのまま眠りに落ちていた。



 翌日。

 僕は、気の抜けた空っぽの状態で目を覚ました。

 世界が灰色に見えた。もう何もする気力がない。ただソファに座り、時が過ぎるのを待つだけ。

 その時。


 ガタガタッ、と。

 窓が小さく、しかし、確かに揺れた。

 天井の照明が、微かではあるが、左右に振れている。

 地震だ。

 震度一か、二程度の、東京では日常茶飯事の地震。取るに足らない揺れ。

 昨日までの僕なら、気にも留めなかっただろう。

 だが、全ての希望を失い、空っぽになった僕の意識に、その「揺れ」という感覚が、妙にくっきりと染み込んできた。


 揺れ。地震。

「……待てよ」

 僕は、顔を上げた。

「あの日の前にも、確か……あった。こんな、小さな揺れじゃない。もっと、大きなやつが……」

 そうだ。記憶が、蘇る。

 タイムリープ前の世界では、本震の数日前に、M七クラスの巨大な前震があったはずだ。

 僕は、絶望の闇の底で、一つの細い光を見つけた気がした。


 これだ。

 これしかない。

「未来から来た」とか、「大震災が来る」とか、検証不可能なそういう巨大な夢物語はもう誰も信じない。

 ならば、証明するしかない。

 僕の言葉が真実であるという、動かぬ証拠を。


 僕は、震える手で携帯電話を摑む。そして、昨日僕の部屋を出ていった高橋にメールを打った。

 それは怒りでも、懇願でもない。

 最後の賭けだった。


『昨日は、すまなかった。もう何も信じなくていい。僕が狂ってると思ってもらっても構わない。でもこれだけは覚えておいてくれ』

 僕は、一度、指を止めた。

 そして、記憶を手繰り寄せる。確か、本震の、二、三日前だったはずだ。

『今週中だ。ここ数日、三月七日から十日の間に、一度大きな地震が来る。お前たちが今日感じたような、生やさしい揺れじゃない。東北で、震度五以上を記録する大きな地震だ』

『もし、それが本当に来たら。それは僕の言葉が真実であるという、たった一つの証拠だ。その時は、もう一度僕の話を聞いてほしい』


 メールを送信する。

 返信はなかった。

 僕は一人、静まり返った部屋で、その「審判の日」を待つことにした。

 同時に、僕は一人で、できる限りの準備を始めることを決意した。たとえ彼らが戻ってこなくても、自分一人で戦い抜くために。

 本当に孤独な僕の戦いが、まさに今ここから始まろうとしている。

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