第九話 行脚
数日間、僕は抜け殻のようになった。酒を飲み、ただ天井を見つめて過ごす。もう無駄だ。諦めよう。僕一人が何をしても、世界は変わらない。運命には抗えないのだ。そう自分に言い聞かせようとした。
しかし眠りに落ちるたび、僕の脳裏には、あの悪夢が鮮明な映像となって蘇る。
黒い津波に飲み込まれていく、人びとの顔、顔、顔。助けを求める子供の叫び声。その光景から、僕は決して逃れることができなかった。
そのたびに、僕は汗びっしょりになって飛び起きる。
「僕が諦めたら、この人たちは本当に死んでしまう」
あまりに重い事実が、僕の心を再び奮い立立たせる。
理屈じゃない。論理でもない。
デジタルがダメなら、肉声で。匿名の警告がダメなら、顔を晒してでも。
ただ、伝えなければならない。
僕は、衝動的に立ち上がった。テーブルの上に転がっていた、財布と携帯だけを摑む。それから部屋を飛び出し、近くの駅から東京駅へと向かった。震える手で、東北新幹線の一番早い時間のチケットを買う。
新幹線の車窓から高速で流れていく日本の景色を眺めながら、僕は自分がこれからやろうとしていることが如何に無謀で、狂気じみているかを自覚していた。それでも、僕にはもう、それしか道が残されていなかったのだ。
僕が最初に降り立ったのは、仙台だった。
二月の空気は身を切るように冷たく、吐く息は真っ白になった。駅西口に広がるペデストリアンデッキは、多くの人びとで賑わっている。誰もが、それぞれの日常を生きていた。これから起こる悲劇の足音など、誰の耳にも届いていない。
僕はその雑踏の真ん中で、何時間もただ立ち尽くしていた。勢い込んで衝動的にここまで来たものの、何をどのように伝えるか、具体的なことは何も考えてこなかった。
何から話せばいい?
どうやって、声をかければいい?
心臓が、喉から飛び出しそうなくらい激しく高鳴っていた。足が、コンクリートに縫い付けられたように動かない。
行き交う人びとが、僕を訝しげに一瞥し、あるいは無関心に通り過ぎていく。
ダメだ。怖い。
そう思った瞬間、脳裏にまた、あの津波の映像がよぎった。
僕は、意を決して声を張り上げた。
「皆さん!お願いです!少しだけ話を聞いてください!」
しかし街の喧騒の中ではその声はあまりにもか細く、吸い込まれては消えていく。ちらっと視線を送るだけで、誰も足を止めない。僕という存在は、通り過ぎる人びとにとって、景色の一部でしかなかった。
僕は、必死で言葉を続けた。声が上ずる。
「数週間後!三月十一日、この町に巨大な地震と津波が来ます!お願いです!逃げてください!」
その、あまりに突拍子もない言葉を聞いて、初めて数人が足を止め、動物園の珍しい生き物でも見るかのような目で、僕を遠巻きに眺め始めた。「なんだ、あいつ」「また変なのがいるよ」。そんな囁き声が、僕の耳に届く。
伝えたいことは山ほどあるのに、言葉にならない。僕の口から出るのは、断片的で支離滅裂な叫びだけだった。
「僕は、未来から来たんです!本当なんです!」
「このままでは、みんな死んでしまう……!」
僕は、自分が周りからどう見えているかを、痛いほど理解していた。ただの哀れな狂人だ。それでも、僕は叫ぶのをやめられない。やめてしまえば、今度こそ全てが終わってしまうからだ。
その日、僕の声は誰の心にも届かなかった。その夜は駅裏のビジネスホテルに泊まり、次の日、沿岸部の石巻へと向かう。
そこから、僕の絶望的な巡礼の旅が始まった。
石巻の、活気ある漁港。僕はそこで働く日に焼けた屈強な漁師たちに、必死で訴えかけた。
「この海が、牙を剥きます!お願いです、信じてください!」
「兄ちゃん、頭大丈夫か。縁起でもねえこと言うんじゃねえよ。仕事の邪魔だ、あっち行ってろ!」
彼らは、僕をまるで厄介者のように追い払った。
次は、釜石。かつて鉄の町として栄えた、歴史ある街。商店街のアーケードの下で、買い物途中の主婦たちに声をかける。
「奥さん、お願いします。お子さんを、高い場所へ……」
主婦たちは、僕を憐れむような目で見ながら、聞こえよがしに、ひそひそと言葉を交わす。「可哀想に」「何か、辛いことでもあったのかしらねえ」。
同情は、拒絶よりも深く心を抉った。
僕は、北へ、北へと向かった。宮古、久慈。リアス式の美しい海岸線が、車窓から見えるたびに、僕の胸は張り裂けそうになった。この美しい風景が、もうすぐ地獄に変わるのだ。
僕は日を追うごとに、肉体的にも精神的にも疲弊していった。食事は、コンビニのおにぎりを日に一度かじるだけ。夜は古びた駅前の旅館で、悪夢にうなされながら浅い眠りについた。
僕は東京で買った場違いに綺麗なコートのままで、それがいっそう僕の場違いさを際立たせていた。
僕の訴えは、徐々に論理的な警告から、感情的な懇願へと変わっていった。
「お願いです!あなたの子供の顔を、旦那さんの顔を、思い出してください!」
「この、当たり前の平和な日常が、あとほんの数週間で、全部終わってしまうんです!」
ある町の広場で、僕はついに地面に膝をつき、嗚咽しながら頭を下げた。
「お願いします……誰か、誰か一人でもいい。僕の話を、聞いてください……」
涙で、目の前が滲む。
しかし、通り過ぎる人びとの反応は、どこへ行っても同じだった。
無視。
嘲笑。
そして、憐憫。
僕の魂は、無数の無関心な視線に晒され、やすりで削られるように、少しずつすり減っていった。
そして、旅の最後の街。八戸。
僕が、駅前でいつものように、もう掠れて声も出なくなりそうな喉で叫んでいた、その時だった。
「はい、君、ちょっといいかな」
二人の警察官に、有無を言わさぬ力で肩を摑まれた。
「ちょっと、お話聞かせてもらおうか。署まで、ご同行願います」
周囲の野次馬たちが、面白そうに僕たちの様子を眺めている。
僕は抵抗しなかった。いや、抵抗する気力も、もう僕には残っていなかった。
警察署の殺風景な取調室。カツ丼はもちろん出てこない。差し出されたのは、出がらしのぬるいお茶だけだった。
僕の前に座った、人の良さそうな年配の警官が諭すように言う。
「君の言いたいことは、だいたい分かった。何か辛いことがあったんだな。大変だったな。でもな、こんなことをしても何も解決しないぞ」
その目。
その目が、僕の心を完全に折った。
それは、僕を「犯罪者」として見る目ではなかった。僕を「嘘つき」だと断罪する目でもなかった。
僕を「精神のバランスを崩した保護すべき哀れな若者」として見る、善意に満ちた、しかし僕の言葉を絶対に信じていない眼差しだった。
その優しい拒絶が、何よりも僕には辛い。
厳重注意の上で解放された僕は、雪が散らつく夜道を、一人とぼとぼと歩いた。
冷たい雪が僕の頬を濡らす。それが雪なのか自分の涙なのかさえ、もう分からなかった。
僕は、ここで完全に理解した。
一個人の声など、この社会では何の力も持たないのだ、と。
正しさも、真実も、必死さも、社会という巨大で分厚い壁の前では、何の意味もなさない。
二十年間、ひたすらバイトと仮想通貨に明け暮れる毎日を送っていた僕には、そんなことすらも理解できていなかったのだ。
東京へ帰る新幹線の窓の外に広がる、真っ暗な闇を見つめながら、僕が流し続けた涙はいつしか枯れ果てていた。タワーマンションの広く静かな部屋に戻った時、僕を迎えてくれたのは絶対的な静寂と、僕自身の敗北の匂いだけ。
僕は、自分が「敗北した」ことを骨の髄まで理解していた。
戦って、負けたのではない。土俵にすら、上がらせてもらえなかったのだ。僕が命を懸けて放った渾身の一撃は、分厚い綿に吸い込まれるように、何の手応えも残さずに消えていった。社会は僕を敵とすら認識せず、ただ哀れな狂人として、その巨大なシステムの外側へと、確実に弾き出したのだった。
僕はシャワーを浴びた。東北の冷たい雪と道中の埃にまみれた身体を、熱い湯で洗い流す。だが、心の奥底に染みついた無力感という名の汚れは、少しも落ちなかった。耳の奥では、駅前の喧騒と自分の掠れた叫び声、そして人びとの囁き声が、幻聴のように反響している。本当に自分はあの場にいたのか。現実感がない。この豪華で静かすぎる部屋は、その幻聴をより一層際立たせた。
バスローブを羽織ると、僕はリビングの棚に並んだ、高価なだけのスコッチウイスキーのボトルを手に取る。琥珀色の液体を、ロックグラスに注ぐ。氷がカランと寂しい音を立てた。芳醇なピートの香りが、鼻腔を抜けていく。僕はそれを口に含んだ。味がしない。舌の上で感じるのは、アルコールの焼けるような刺激と、液体としての冷たさだけ。まるで色のついた消毒液を飲んでいるかのようだ。
僕はふと、大学時代に美咲と飲んだ、安い居酒屋の、泡の消えかけたビールを思い出した。焼き鳥の煙たい匂い、グラスの表面を伝う水滴の冷たさ、「健は、ホントにおいしそうに飲むよね」と笑った彼女の声。あの時の方が、よほど素晴らしい味だった。喜びの味、未来への希望の味、そして何より美咲が隣りにいるという幸福の味。
僕は、グラスをテーブルに叩きつけるように置いた。
僕は、何気なくテレビの電源を入れた。
画面の中では、僕がいない間も、世界は何事もなかったかのように回り続けている。アナウンサーが春闘の妥結額について、したり顔で解説している。国会では、僕が顔も名前も知らない政治家たちが、未来のことなど何も知らないまま、些末な法案を巡って罵詈雑言を飛ばし合っていた。
チャンネルを変えると、人気のバラエティ番組が始まった。ひな壇に並んだ芸人たちが、最近あったどうでもいい出来事について、大げさな身振り手振りで語り、スタジオは、録音された効果音のような大きな笑い声に包まれていく。
この平和。この無知。この無邪気なまでの日常。
その全てが、これから起こる悲劇を知る僕にとっては、耐え難いほどの侮辱に感じられる。
僕は、テレビに向かって叫ぶ。
「笑ってる場合か!お前たちが口にすべきは、そんなことじゃないだろう!もっと、もっと大事なことがあるだろうが!」
僕は、液晶テレビの画面に向かって、リモコンを力任せに投げつけた。ガシャンという鈍い音と共に、画面に亀裂が走る。それでも壊れた画面の向こうで、芸人たちはまだ笑い続けていた。
僕は社会から拒絶された。ならば、社会が僕をどう見ているのか、その視線をこの目に焼き付けてやる。
僕は意を決して、書斎のPCの電源を入れた。キーボードを打つ指先が氷のように冷たい。
検索エンジンに、自分のことを表すキーワードを打ち込む。「辻立ち」「予言者」「東北」「警察」。
表示された検索結果は、予想通り、僕の最後のプライドを粉々に打ち砕くものだった。
僕の行動は「謎の地震予言者、警察に保護される」といった扇情的な見出しで、いくつかのネットニュースや、まとめサイトの記事になっていた。僕が涙ながらに訴える姿を、誰かが携帯電話で撮影したのだろう。画質の粗い動画と共に。
さらにはその記事に対して書き込まれた、無数の無責任なコメント。
「ただの目立ちたがり屋だろ。どうせ売れない役者かホスト」`
「てか、このコート、どこのブランド? 特定班はよw」`
「こういうのに騙される奴がいるから、オレオレ詐欺がなくならない」`
「必死すぎやな。 いつの未来から来たん(笑)」`
僕の、命懸けの訴え。僕の、魂の叫び。
その全てが、僕の意図とは全く無関係な文脈で興味本位に分解され、おもしろおかしく消費されていく。衆人環視の中で精神的に裸にされ、石を投げつけられているような激しい屈辱に襲われる。マウスを握る手が、怒りでカタカタと震える。
僕は、黙って静かにブラウザを閉じた。これ以上見ても、何も変わりはしない。
それから数日、僕は完全に社会との接触を断った。
カーテンを閉め切り、電話線を抜き、昼も夜も分からない、この豪華な棺桶のような部屋で、ただ時間が過ぎていった。食事を作る気力など湧かない。一番高価な寿司やステーキを、デリバリーで注文する。美しい器に盛られた料理が届く。しかし僕はそれをただ眺めるだけで、ほとんど箸をつける気にもならなかった。
僕の絶望などお構いなしに、日々は容赦なく過ぎ去っていった。
ある日、部屋の空気があまりに澱んでいることに気付き、僕は久しぶりに、バルコニーへ続く窓を少しだけ開けた。
流れ込んできた空気が、数週間前までの、肺を刺すような冬の冷たさではなく、ほんの少しだけ、湿り気と柔らかな暖かさを含んでいることに気付く。季節が変わっているのだ。
「……春の、匂い……」
それは、土や草木が長い眠りから目覚めようとする、生命の匂いだった。
ふと眼下のバス通りの街路樹に目をやると、枯れきった茶色い木々に、緑が少しずつ戻り始めているのが、遠目にも分かった。
その健気な生命の兆しが、これから起こる「大量の死」と残酷なコントラストを成しているのに気付き、僕の心を再び締め付ける。
この蕾が美しい花を咲かせるのを見ることができない人たちが、たくさん、たくさんいるんだ……。
僕が救えなかった、たくさんの人びとが。
東北で、今この瞬間も、何も知らずに春の訪れを心待ちにしている人びとが。
僕は部屋に戻り、壁のカレンダーを見上げた。
僕が空回りを続けている間に、暦はもう三月に入っていた。
赤い丸で囲まれた特別な日など、どこにもない。ただ淡々と、数字が並んでいるだけだ。
三、四、五……。
そして、十一日。金曜日。
その数字が、何もできない僕を嘲笑うかのように、のっぺりとした表情でそこにあった。
僕の心は、絶望と諦観に、完全に支配されている。
もう、何もできることはない。
僕は神ではない。ただの無力な人間だ。
未来を知っているという、呪われた力を持っただけの。
ソファに深く沈み込み、目を閉じる。
このまま眠ってしまおう。三月十一日が終わるまで、決して目覚めなければいい。
そうすれば、僕はあの地獄を見なくて済む。
何もできなかった自分の無力さを、再確認しなくて済む。
そう諦めかけた、その時。
充電器の上に放置していた携帯電話が、不意に着信を知らせるバイブレーションを響かせた。
ブブブ……、ブブブ……。
その無機質な音が、僕の作った完璧な静寂を簡単に破壊する。
その音をしばらく無視する。どうせ間違い電話か、何かのセールスだろう。
しかしそれは、執拗に鳴り続けた。
僕は、苛立ちとほんの少しの好奇心に負け、のろのろと携帯電話を手に取った。
そして液晶画面に表示されていた名前に、僕は、息を呑む。
そこには、疎遠になってから一度も自分から連絡を取らなかった、決して忘れることのない友人の名前が表示されていた。
『高橋 渉』
僕の止まっていたはずの時間が、再び動き出そうとしていた。
まだ、終わっていない。
僕の戦いは、まだ終わってはいなかったのだ。




