表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

10/18

第九話 行脚

 数日間、僕は抜け殻のようになった。酒を飲み、ただ天井を見つめて過ごす。もう無駄だ。諦めよう。僕一人が何をしても、世界は変わらない。運命には抗えないのだ。そう自分に言い聞かせようとした。

 しかし眠りに落ちるたび、僕の脳裏には、あの悪夢が鮮明な映像となって蘇る。

 黒い津波に飲み込まれていく、人びとの顔、顔、顔。助けを求める子供の叫び声。その光景から、僕は決して逃れることができなかった。

 そのたびに、僕は汗びっしょりになって飛び起きる。

「僕が諦めたら、この人たちは本当に死んでしまう」

 あまりに重い事実が、僕の心を再び奮い立立たせる。


 理屈じゃない。論理でもない。

 デジタルがダメなら、肉声で。匿名の警告がダメなら、顔を晒してでも。

 ただ、伝えなければならない。

 僕は、衝動的に立ち上がった。テーブルの上に転がっていた、財布と携帯だけを摑む。それから部屋を飛び出し、近くの駅から東京駅へと向かった。震える手で、東北新幹線の一番早い時間のチケットを買う。


 新幹線の車窓から高速で流れていく日本の景色を眺めながら、僕は自分がこれからやろうとしていることが如何に無謀で、狂気じみているかを自覚していた。それでも、僕にはもう、それしか道が残されていなかったのだ。


 僕が最初に降り立ったのは、仙台だった。

 二月の空気は身を切るように冷たく、吐く息は真っ白になった。駅西口に広がるペデストリアンデッキは、多くの人びとで賑わっている。誰もが、それぞれの日常を生きていた。これから起こる悲劇の足音など、誰の耳にも届いていない。

 僕はその雑踏の真ん中で、何時間もただ立ち尽くしていた。勢い込んで衝動的にここまで来たものの、何をどのように伝えるか、具体的なことは何も考えてこなかった。


 何から話せばいい?

  どうやって、声をかければいい?

 心臓が、喉から飛び出しそうなくらい激しく高鳴っていた。足が、コンクリートに縫い付けられたように動かない。

 行き交う人びとが、僕をいぶかしげに一瞥し、あるいは無関心に通り過ぎていく。

 ダメだ。怖い。

 そう思った瞬間、脳裏にまた、あの津波の映像がよぎった。


 僕は、意を決して声を張り上げた。

「皆さん!お願いです!少しだけ話を聞いてください!」

 しかし街の喧騒の中ではその声はあまりにもか細く、吸い込まれては消えていく。ちらっと視線を送るだけで、誰も足を止めない。僕という存在は、通り過ぎる人びとにとって、景色の一部でしかなかった。

 僕は、必死で言葉を続けた。声が上ずる。


「数週間後!三月十一日、この町に巨大な地震と津波が来ます!お願いです!逃げてください!」


 その、あまりに突拍子もない言葉を聞いて、初めて数人が足を止め、動物園の珍しい生き物でも見るかのような目で、僕を遠巻きに眺め始めた。「なんだ、あいつ」「また変なのがいるよ」。そんな囁き声が、僕の耳に届く。


 伝えたいことは山ほどあるのに、言葉にならない。僕の口から出るのは、断片的で支離滅裂な叫びだけだった。

「僕は、未来から来たんです!本当なんです!」

「このままでは、みんな死んでしまう……!」

 僕は、自分が周りからどう見えているかを、痛いほど理解していた。ただの哀れな狂人だ。それでも、僕は叫ぶのをやめられない。やめてしまえば、今度こそ全てが終わってしまうからだ。


 その日、僕の声は誰の心にも届かなかった。その夜は駅裏のビジネスホテルに泊まり、次の日、沿岸部の石巻へと向かう。

 そこから、僕の絶望的な巡礼の旅が始まった。

 石巻の、活気ある漁港。僕はそこで働く日に焼けた屈強な漁師たちに、必死で訴えかけた。

「この海が、牙を剥きます!お願いです、信じてください!」

「兄ちゃん、頭大丈夫か。縁起でもねえこと言うんじゃねえよ。仕事の邪魔だ、あっち行ってろ!」

 彼らは、僕をまるで厄介者のように追い払った。


 次は、釜石。かつて鉄の町として栄えた、歴史ある街。商店街のアーケードの下で、買い物途中の主婦たちに声をかける。

「奥さん、お願いします。お子さんを、高い場所へ……」

 主婦たちは、僕を憐れむような目で見ながら、聞こえよがしに、ひそひそと言葉を交わす。「可哀想に」「何か、辛いことでもあったのかしらねえ」。

 同情は、拒絶よりも深く心を抉った。


 僕は、北へ、北へと向かった。宮古、久慈。リアス式の美しい海岸線が、車窓から見えるたびに、僕の胸は張り裂けそうになった。この美しい風景が、もうすぐ地獄に変わるのだ。

 僕は日を追うごとに、肉体的にも精神的にも疲弊していった。食事は、コンビニのおにぎりを日に一度かじるだけ。夜は古びた駅前の旅館で、悪夢にうなされながら浅い眠りについた。

 僕は東京で買った場違いに綺麗なコートのままで、それがいっそう僕の場違いさを際立たせていた。


 僕の訴えは、徐々に論理的な警告から、感情的な懇願へと変わっていった。

「お願いです!あなたの子供の顔を、旦那さんの顔を、思い出してください!」

「この、当たり前の平和な日常が、あとほんの数週間で、全部終わってしまうんです!」

 ある町の広場で、僕はついに地面に膝をつき、嗚咽しながら頭を下げた。

「お願いします……誰か、誰か一人でもいい。僕の話を、聞いてください……」

 涙で、目の前が滲む。

 しかし、通り過ぎる人びとの反応は、どこへ行っても同じだった。

 無視。

 嘲笑。

 そして、憐憫。

 僕の魂は、無数の無関心な視線に晒され、やすりで削られるように、少しずつすり減っていった。


 そして、旅の最後の街。八戸。

 僕が、駅前でいつものように、もう掠れて声も出なくなりそうな喉で叫んでいた、その時だった。

「はい、君、ちょっといいかな」

 二人の警察官に、有無を言わさぬ力で肩を摑まれた。

「ちょっと、お話聞かせてもらおうか。署まで、ご同行願います」

 周囲の野次馬たちが、面白そうに僕たちの様子を眺めている。


 僕は抵抗しなかった。いや、抵抗する気力も、もう僕には残っていなかった。

 警察署の殺風景な取調室。カツ丼はもちろん出てこない。差し出されたのは、出がらしのぬるいお茶だけだった。

 僕の前に座った、人の良さそうな年配の警官が諭すように言う。

「君の言いたいことは、だいたい分かった。何か辛いことがあったんだな。大変だったな。でもな、こんなことをしても何も解決しないぞ」

 その目。

 その目が、僕の心を完全に折った。

 それは、僕を「犯罪者」として見る目ではなかった。僕を「嘘つき」だと断罪する目でもなかった。

 僕を「精神のバランスを崩した保護すべき哀れな若者」として見る、善意に満ちた、しかし僕の言葉を絶対に信じていない眼差しだった。

 その優しい拒絶が、何よりも僕には辛い。


 厳重注意の上で解放された僕は、雪が散らつく夜道を、一人とぼとぼと歩いた。

 冷たい雪が僕の頬を濡らす。それが雪なのか自分の涙なのかさえ、もう分からなかった。

 僕は、ここで完全に理解した。

 一個人の声など、この社会では何の力も持たないのだ、と。

 正しさも、真実も、必死さも、社会という巨大で分厚い壁の前では、何の意味もなさない。

 二十年間、ひたすらバイトと仮想通貨に明け暮れる毎日を送っていた僕には、そんなことすらも理解できていなかったのだ。



 東京へ帰る新幹線の窓の外に広がる、真っ暗な闇を見つめながら、僕が流し続けた涙はいつしか枯れ果てていた。タワーマンションの広く静かな部屋に戻った時、僕を迎えてくれたのは絶対的な静寂と、僕自身の敗北の匂いだけ。


 僕は、自分が「敗北した」ことを骨の髄まで理解していた。

 戦って、負けたのではない。土俵にすら、上がらせてもらえなかったのだ。僕が命を懸けて放った渾身の一撃は、分厚い綿に吸い込まれるように、何の手応えも残さずに消えていった。社会は僕を敵とすら認識せず、ただ哀れな狂人として、その巨大なシステムの外側へと、確実に弾き出したのだった。


 僕はシャワーを浴びた。東北の冷たい雪と道中の埃にまみれた身体を、熱い湯で洗い流す。だが、心の奥底に染みついた無力感という名の汚れは、少しも落ちなかった。耳の奥では、駅前の喧騒と自分の掠れた叫び声、そして人びとの囁き声が、幻聴のように反響している。本当に自分はあの場にいたのか。現実感がない。この豪華で静かすぎる部屋は、その幻聴をより一層際立たせた。

 バスローブを羽織ると、僕はリビングの棚に並んだ、高価なだけのスコッチウイスキーのボトルを手に取る。琥珀色の液体を、ロックグラスに注ぐ。氷がカランと寂しい音を立てた。芳醇なピートの香りが、鼻腔を抜けていく。僕はそれを口に含んだ。味がしない。舌の上で感じるのは、アルコールの焼けるような刺激と、液体としての冷たさだけ。まるで色のついた消毒液を飲んでいるかのようだ。

 僕はふと、大学時代に美咲と飲んだ、安い居酒屋の、泡の消えかけたビールを思い出した。焼き鳥の煙たい匂い、グラスの表面を伝う水滴の冷たさ、「健は、ホントにおいしそうに飲むよね」と笑った彼女の声。あの時の方が、よほど素晴らしい味だった。喜びの味、未来への希望の味、そして何より美咲が隣りにいるという幸福の味。

 僕は、グラスをテーブルに叩きつけるように置いた。


 僕は、何気なくテレビの電源を入れた。

 画面の中では、僕がいない間も、世界は何事もなかったかのように回り続けている。アナウンサーが春闘の妥結額について、したり顔で解説している。国会では、僕が顔も名前も知らない政治家たちが、未来のことなど何も知らないまま、些末な法案を巡って罵詈雑言を飛ばし合っていた。

 チャンネルを変えると、人気のバラエティ番組が始まった。ひな壇に並んだ芸人たちが、最近あったどうでもいい出来事について、大げさな身振り手振りで語り、スタジオは、録音された効果音のような大きな笑い声に包まれていく。

 この平和。この無知。この無邪気なまでの日常。

 その全てが、これから起こる悲劇を知る僕にとっては、耐え難いほどの侮辱に感じられる。

 僕は、テレビに向かって叫ぶ。

「笑ってる場合か!お前たちが口にすべきは、そんなことじゃないだろう!もっと、もっと大事なことがあるだろうが!」

 僕は、液晶テレビの画面に向かって、リモコンを力任せに投げつけた。ガシャンという鈍い音と共に、画面に亀裂が走る。それでも壊れた画面の向こうで、芸人たちはまだ笑い続けていた。


 僕は社会から拒絶された。ならば、社会が僕をどう見ているのか、その視線をこの目に焼き付けてやる。

 僕は意を決して、書斎のPCの電源を入れた。キーボードを打つ指先が氷のように冷たい。

 検索エンジンに、自分のことを表すキーワードを打ち込む。「辻立ち」「予言者」「東北」「警察」。

 表示された検索結果は、予想通り、僕の最後のプライドを粉々に打ち砕くものだった。

 僕の行動は「謎の地震予言者、警察に保護される」といった扇情的な見出しで、いくつかのネットニュースや、まとめサイトの記事になっていた。僕が涙ながらに訴える姿を、誰かが携帯電話で撮影したのだろう。画質の粗い動画と共に。

 さらにはその記事に対して書き込まれた、無数の無責任なコメント。


 「ただの目立ちたがり屋だろ。どうせ売れない役者かホスト」`

 「てか、このコート、どこのブランド? 特定班はよw」`

 「こういうのに騙される奴がいるから、オレオレ詐欺がなくならない」`

 「必死すぎやな。 いつの未来から来たん(笑)」`


 僕の、命懸けの訴え。僕の、魂の叫び。

 その全てが、僕の意図とは全く無関係な文脈で興味本位に分解され、おもしろおかしく消費されていく。衆人環視の中で精神的に裸にされ、石を投げつけられているような激しい屈辱に襲われる。マウスを握る手が、怒りでカタカタと震える。

 僕は、黙って静かにブラウザを閉じた。これ以上見ても、何も変わりはしない。



 それから数日、僕は完全に社会との接触を断った。

 カーテンを閉め切り、電話線を抜き、昼も夜も分からない、この豪華な棺桶のような部屋で、ただ時間が過ぎていった。食事を作る気力など湧かない。一番高価な寿司やステーキを、デリバリーで注文する。美しい器に盛られた料理が届く。しかし僕はそれをただ眺めるだけで、ほとんど箸をつける気にもならなかった。



 僕の絶望などお構いなしに、日々は容赦なく過ぎ去っていった。

 ある日、部屋の空気があまりによどんでいることに気付き、僕は久しぶりに、バルコニーへ続く窓を少しだけ開けた。

 流れ込んできた空気が、数週間前までの、肺を刺すような冬の冷たさではなく、ほんの少しだけ、湿り気と柔らかな暖かさを含んでいることに気付く。季節が変わっているのだ。


「……春の、匂い……」

 それは、土や草木が長い眠りから目覚めようとする、生命の匂いだった。

 ふと眼下のバス通りの街路樹に目をやると、枯れきった茶色い木々に、緑が少しずつ戻り始めているのが、遠目にも分かった。


 その健気な生命の兆しが、これから起こる「大量の死」と残酷なコントラストを成しているのに気付き、僕の心を再び締め付ける。

 この蕾が美しい花を咲かせるのを見ることができない人たちが、たくさん、たくさんいるんだ……。

 僕が救えなかった、たくさんの人びとが。

 東北で、今この瞬間も、何も知らずに春の訪れを心待ちにしている人びとが。


 僕は部屋に戻り、壁のカレンダーを見上げた。

 僕が空回りを続けている間に、暦はもう三月に入っていた。

 赤い丸で囲まれた特別な日など、どこにもない。ただ淡々と、数字が並んでいるだけだ。

 三、四、五……。

 そして、十一日。金曜日。

 その数字が、何もできない僕を嘲笑あざわらうかのように、のっぺりとした表情でそこにあった。


 僕の心は、絶望と諦観に、完全に支配されている。

 もう、何もできることはない。

 僕は神ではない。ただの無力な人間だ。

 未来を知っているという、呪われた力を持っただけの。


 ソファに深く沈み込み、目を閉じる。

 このまま眠ってしまおう。三月十一日が終わるまで、決して目覚めなければいい。

 そうすれば、僕はあの地獄を見なくて済む。

 何もできなかった自分の無力さを、再確認しなくて済む。


 そう諦めかけた、その時。

 充電器の上に放置していた携帯電話が、不意に着信を知らせるバイブレーションを響かせた。

 ブブブ……、ブブブ……。

 その無機質な音が、僕の作った完璧な静寂を簡単に破壊する。

 その音をしばらく無視する。どうせ間違い電話か、何かのセールスだろう。

 しかしそれは、執拗に鳴り続けた。

 僕は、苛立ちとほんの少しの好奇心に負け、のろのろと携帯電話を手に取った。

 そして液晶画面に表示されていた名前に、僕は、息を呑む。

 そこには、疎遠になってから一度も自分から連絡を取らなかった、決して忘れることのない友人の名前が表示されていた。


『高橋 渉』


 僕の止まっていたはずの時間が、再び動き出そうとしていた。

 まだ、終わっていない。

 僕の戦いは、まだ終わってはいなかったのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ