プロローグ
神様なんて信じちゃいない。もし本当にいるとしたら、そいつはきっと、たちの悪い脚本家か何かだろう。
何の変哲もない、うだつの上がらない中年男を主人公に据えて、退屈極まるリアリティ・ショーを撮り続けているに違いない。視聴率はきっと、測定不能なほど低いはずだ。
佐藤健、四十二歳。
それが、その凡庸な物語の主人公である僕の名前だ。現在のショーの主な舞台は、郊外の幹線道路沿いにあるコンビニエンスストア「デイリースマイル環状八号店」。
深夜、午前一時七分。客のいない店内に、古びた空調の唸りと冷蔵ケースのモーター音が低く響いている。蛍光灯の白い光が、床の黒ずんだ汚れも、僕の心の澱みも、平等にそして無慈悲に照らし出していた。
「健さん、この『悪魔的チーズまみれ豚キムチ』、マジで悪魔的な味しますよね。考えた人、天才っすよ」
相方としてシフトに入っている里中くんが、廃棄予定の弁当を眺めながら言った。
彼は二十歳の大学生で、軽音楽部に所属し、気のいい彼女がいて、未来は虹色に輝いている。少なくとも、僕の濁った目にはそう映る。彼の言葉には悪意など一欠片もない。ただ純粋な好奇心と、若さ特有の残酷さが同居しているだけだ。
「……まあ、悪魔もたまにはいい仕事するんじゃないの」
僕は気の抜けた返事をしながら、コーヒーのドリップマシンを洗浄する。その手際は、我ながら熟練の域に達していた。四年間の深夜勤務で得た、数少ないスキルのひとつだ。
「健さんって、何でも知ってますよね」
「知ってることと、できることは違うんだよ」
「え、名言じゃないすか、それ」
里中くんは屈託なく笑う。彼は僕のことを、少し物知りで、少し人生を拗らせた、面白いおじさんだと思っている。
それは間違いではない。だが、正解でもない。彼は知らないのだ。僕が彼の年の頃、自分もまた、未来は選び放題のビュッフェみたいなものだと信じて疑わなかったことを。そして、いざ皿に盛ろうとした時には、残っていたのが福神漬けとガリだけだった、というような結末を迎える人間もいるということを。
「そういえば健さん、この前話してたやつ、どうなったんすか。あの、カソウツウカ?」
「仮想通貨、な」
僕は訂正する。休憩時間、バックヤードの固い椅子に腰掛け、僕はスマホの画面に視線を落とした。赤と緑のローソク足が、心電図のようにか細く上下している。僕の全財産と言ってもいい、なけなしの金がデジタルデータに姿を変え、二十四時間三百六十五日、激しい荒波の中で戦っている。
もしあの時、僕にこれだけの知識と、ほんの少しの金があったなら。そう考えてしまう。金があれば、彼女にもっとマシな「将来」を見せてやれたのかもしれないのに。
「DeFiのイールドファーミングに突っ込んであるプールが、年利十二パーセントで安定しててさ。それを担保に、別のトークンを借り入れて、さらにステーキングに回してる。レバレッジをかけてるけど、ロスカットラインにはまだ余裕があるから……」
「あ、えーっと……」
里中くんの目が、理解不能な数式を前にした時のように泳ぐ。だろうな。僕が今話している言語は、このコンビニでは日本語として機能しない。それは僕だけが理解できる呪文であり、祈りであり、僕の唯一の希望だった。
「健さんって、マジ物知りっすね!
カソウツウカが大好きなんすね。めっちゃ真剣なのが伝わってきますもん」
里中くんの声が客のいないコンビニの店内に響く。
中央集権的な管理者がいない、民主的な金融システム。それが仮想通貨。プログラムこそが法であり、誰にも改竄できない絶対的なルールだ。銀行に金を預けて年利〇.〇何パーセントなどという、冗談みたいなゴミほどの金利を受け取る時代はもう終わる。
僕は、この世界の仕組みを独学で学んだ。それは、この灰色の現実から脱出するための、たった一つの縄梯子だった。里中くんのような若者が、サークルの合宿や彼女とのデートに現を抜かしている間に、僕は世界の金融システムが根底から覆る、その革命的前夜に立ち会っているのだ。
――と、まあ、そう考えて自分を慰めてはみるものの、現実はあまりに情けない。
僕がこの四年で仮想通貨に投じられたのは、全部で六十万円ほど。コンビニの時給千二百円から捻出できる金額など、たかが知れている。
初期の頃に買っていれば、とっくに億万長者になれていたはずなのに、僕がこの世界の存在に気づいたのは、世間が一度バブルに沸いて、そして弾けた後だった。まさに祭りの後の掃除係だ。
チャートは、僕の祈りを嘲笑うかのように、赤いローソク足を長く伸ばした。数分で含み益が数千円減る。心臓がひやりとした。
「……まあ、宝くじ買うよりは、マシかなって」
僕はスマホをポケットにしまい、自嘲気味に笑った。里中くんは「そ、そうっすよね!」と、無理に話を合わせてくれた。彼の優しさが、かえって惨めさを加速させる。
客のいない深夜二時。モップをかけながら、僕の精神は決まって過去にダイブする。それはもう、癖のようなものだった。
二十年前。二〇〇五年。
僕は、今の里中くんより少し年上の、二十二歳の大学生だった。法学部に籍を置いていたが、法律家になる気などさらさらなかった。当時の僕は怖いものなど何一つなかった。時間は無限にあり、可能性は地平線の彼方まで広がっていると、本気で信じていた。
そして、そこにはいつも美咲がいた。
僕の、恋人だった。
同じ学部の、太陽みたいな子だった。彼女が笑うと、その場の空気が二度くらい上がるような気がした。僕のしょうもない冗談に、誰よりも大声で笑ってくれた。
大学の帰り道、二人でイヤホンを片方ずつ分け合って、当時流行っていたバンドの曲を聴いた。彼女は「この曲、私たちのテーマソングにしようよ」と言って、子供のようにはしゃいだ。その曲が、今でもラジオから不意に流れてくると、僕は、心臓を直接握り潰されるような痛みに襲われる。
就職活動の季節がやってきた時、僕は流れに逆らった。周りが黒いリクルートスーツに身を包む中、僕はよれたTシャツでパチンコ屋に並んでいた。「まだ自由でいたいんだ」と嘯いて。今思えば、ただ社会に出るのが怖かっただけだ。
そんな僕に、美咲は「これ、お守り」と言って、小さな巾着袋をくれた。中には、彼女が神社で祈祷してもらったという、小さな水晶が入っていた。
「健なら、何にでもなれるよ。私、分かってるから」。
彼女は、本気で僕の可能性を信じてくれていた。その信頼に応えられなかったのは、僕の方だ。
「健、本当に大丈夫なの?」
ある日、美咲が不安そうな顔で言った。
「大丈夫だって。なんとかなる」
僕は、根拠のない自信だけでそう答えた。大丈夫。なんとかなる。それは、若さが振りまく魔法の粉みたいなものだ。だがその効力は、卒業証書を受け取った瞬間に綺麗さっぱり消え失せる。
卒業後、僕はフリーターになった。美咲は、小さな出版社に就職した。生活のサイクルがずれ、会う時間は少しずつ減っていった。たまに会っても、僕はバイト先の愚痴ばかり。彼女は、疲れた顔で相槌を打つだけになった。
そして、二十五歳の誕生日を目前にした冬の日。彼女は、僕に別れを告げた。
「ごめん。私、もう待てない」
いつものファミレスで、彼女はテーブルの上の水のグラスを見つめたまま言った。涙をこらえているのが、分かった。「健の夢を、応援したかったんだけどな…」と、最後に消え入りそうな声で呟いた。
「将来が見えない人と、一緒にはいられない」
その言葉は、僕の胸を真っ直ぐに貫いた。僕は、何も言い返せなかった。返す言葉を、何一つ持っていなかった。
もし、あの時。
もし、あの時、僕が周りと同じように、彼女がくれたお守りを握りしめて、就職活動をしていたら?
もし、あの時、彼女の不安に、もっと真剣に耳を傾けていたら?
もし、あの時、「大丈夫だ」と強がる代わりに、「怖いんだ、助けてくれ」と彼女の手を握っていたら?
ああ、なんと無意味な問いだろう。歴史にifはない。僕の人生という誰も読まない駄作の歴史書にも、もちろんifのページなど用意されてはいない。あるのは、取り返しのつかない選択と、その当然の帰結だけだ。
美咲と別れてからの十七年間、僕はただ緩やかに、しかし確実に、坂道を転がり落ちてきた。いくつかの職を転々とし、人間関係に疲れ、気付けばこのコンビニの深夜勤務という、社会との最低限の接点だけで生きる人間になっていた。
「健さん、お疲れ様です。朝なんで、俺、上がりますね」
午前五時。いつの間にか外は白み始め、里中くんがこちらに視線を向けながら、ゆっくりした足取りでバックヤードから出てきた。
「…健さん、また彼女のこと考えてたでしょ」
「お、おう」
里中くんとの深夜勤務のコンビも、もう数年になる。何回か美咲のことを話したりもしたはずだ。
「後悔してんすね」
「…そりゃそうだろ。二十年近くたっても、忘れたことはないよ。モトくんだって、今の彼女を失ったらこうなるぜ。大切にしてやれよ」
「…はい、ありがとうございます。健さんの思いが伝わるっす…」
「おう、お疲れ」
「じゃ、また来週」
彼は、僕がこれから直面する「眠り」の時間と、彼がこれから迎える「活動」の時間が、全く別の世界に属していることを知る由もない。里中くんは今のやり取りを考え込む風にして、自動ドアの向こうに消えていった。
朝日が、ガラス越しに差し込んでくる。その光は、僕のくたびれた制服と、目の下の深い隈を、容赦なく暴き出した。
「……戻りたいなあ」
誰に言うでもなく、呟きが漏れた。
里中くんに伝えた思いは本心からだった。あれから二十年近く経つが、一日たりとて美咲のことを忘れたことはない。
二十年前に。もう一度、あの大学のキャンパスの、噴水前のベンチに座って、彼女の話をちゃんと聞きたい。根拠のない「大丈夫」じゃなくて、もっと別の、ちゃんとした言葉を伝えたい。
美咲がまだ、僕の隣りで笑っていたあの頃に。
戻って、全てをやり直したい。今度は間違えない。絶対に。
ありきたりで、陳腐で、叶うはずのない願い。
僕は、その日も疲れ果てた身体を引きずってアパートに帰り、シャワーも浴びずにベッドに倒れ込んだ。意識が遠のく直前、ポケットの中のスマホが微かに震えた気がした。仮想通貨の価格が少しだけ上がったのかもしれない。でも、そんなことはもうどうでもよかった。
ああ、神様。
あるいは、仏様。
もしくは、この新しい金融システムをたった一人で創造したという、正体不明の天才。
神様、仏様、サトシ・ナカモト様。
どうか、僕に。
この、どうしようもなく詰んでしまった人生に、もう一度だけチャンスをください。
コンティニューを、お願いします。
そんな馬鹿げた祈りが、眠りに落ちる寸前の脳裏をよぎった。それが、四十二歳の佐藤 健として、最後に抱いた明確な意識だった。
僕の身体は、まるで深い水の底に引きずり込まれるように、暗く、重たい眠りの中へと沈んでいった。
そして、次に目覚めた時。
世界は、僕の馬鹿げた祈りを、想像し得る限り最良の形で、しかし最も不可解な方法で、聞き届けてくれることになる。
僕が、まだそのことを知る由もなかった。