第9話 叡智の鍵
イザベラ。
それが私の名前。父さん―――バルドがつけてくれた。
口に出してみると、胸の奥が少しだけ温かくなる。
……いい名前だと、今は素直に思える。
父さんと過ごした十六年間。笑って、泣いて、ときに怪我して。振り返れば危なっかしい毎日の連続だった。彼はとにかく豪快で、嵐のように生きる人だったから。
でも、だからこそ、私は世界がこんなにも鮮やかだと知ることができたんだ。
もう、その父さんはいない。
ソヴリンを倒すための戦いで、私を庇って―――命を落とした。
「どうせなら一緒に死ねればよかった」
かつては、そんな弱音も胸をかすめた。
けれど今は違う。
彼が遺した『叡智の鍵』を、私が使わなければ。彼が果たそうとした願いを、私が引き継がなければ。
それが、残された者の使命。
……そんな気負いだけで魔導遺跡に踏み込んで、あっさり命を落としかけた私を助けたのは―――。
「ほんと、変なやつ」
小さな体で、大きな口をきく小人。名前はルース。
敵かと思えば、何度も何度も食料を運んできてくれたりして。正直、あの時この彼がいなかったら私は簡単に飢え死にしていただろう。
命の恩人……でも、どこか信用しきれない不思議な存在。
それでも―――。
「だからって、見捨てるわけにいかないよね」
私は意識を失って倒れたルースを拾い上げ、瓦礫を抜けて進んでいた。ガーディアンが追ってくるかもしれないから、立ち止まることはできない。
けれど落ちた先は最悪だった。
一面、氷の壁。凍てつく迷宮。息をするだけで肺が痛い。
壁の奥には、歪んだ人影が凍りついているようにも見えて……足を止めるたび背筋を冷気以上に冷たくする。
「さ、寒い……」
声にすると、余計に孤独が広がる。
歩き続けても出口は見えず、感覚はどんどん失われていく。
「まだ……死ねない……!」
強がりを吐きながら、私はとうとう膝を折った。
凍える手足をさすり、倒れないよう壁に寄りかかる。抱えるのは意識のないルースと分厚い魔導書。もう限界だった。
「まだ起きないなぁ」
彼を揺さぶっても目を開ける気配はない。
「お湯でもぶっかければ起きるかな?」
半分本気、半分冗談でつぶやきつつ、魔導書を開いた。探すのは“ケトル”。
ページを繰りながら、ふとルースの右腕の文様に視線が吸い寄せられた。黒く複雑に絡み合った模様。その中心に―――。
「……鍵穴?」
見間違いじゃない。文様の一部が、まるで鍵穴のような形をしていた。
脳裏に浮かぶのは、父さんから託された『叡智の鍵』。持ち主の願いを叶えるという、不思議な力を持つ鍵。
この鍵で遺跡の扉は開いた。なら……もしかして。
「そんな、まさか……」
心臓が早鐘を打つ。
冗談だと笑い飛ばすべきなのに、手は勝手に上着の内から鍵を取り出していた。震える指先で、そっとルースの腕に添える。
カチリ。
「え……っ!?」
鍵が、吸い込まれるように文様へと沈んでいった。
あり得ない。皮膚に鍵が差し込まれていくなんて。
「ど、どうなってんの……!」
パニックに胸が詰まる。
でももう戻れない。
差し込めたってことは、回せるってことだよね?
ここまで来たなら、最後まで試すしかない。
「悩むくらいなら―――やろう!」
父さんなら、きっとそう言うはず。
私は強く息を吸い込み、鍵を捻った。
―――瞬間。
ルースの右腕が光の奔流を放ち、文様が脈打つように明滅した。轟音と共に叡智の鍵が弾き飛ばされ、私は壁に叩きつけられる。氷の冷たさが背を焼いた。
「ルース!?」
彼の身体がゆっくりと起き上がる。焦点のない瞳。糸に操られる人形のように、ぎこちない動作で私を見つめてきた。
「……ケトル」
短く呟いたその瞬間、指先から五本の熱湯が噴き出し、氷の壁を焼き刻む。
蒸気が立ち込め、氷が弾ける音が迷宮に響いた。私は呆然とその光景を見つめるしかなかった。
数分後。お湯は消え、ルースは糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。
残されたのは氷壁に刻まれた奇妙な模様だけ。
「……何、これ?」
震える声で模様をなぞる。
そのとき、倒れていたルースが微かに身じろぎした。
「ん……なんだ? 何が起きた?」
「ルース! 身体は大丈夫!?」
「お、おう……大丈夫……たぶん」
いつもの調子が戻ったことに胸をなで下ろす。けれど彼は自分の右腕を凝視し、眉をひそめていた。
まさか……バレてないよね?
心臓が跳ねる。必死で平静を装った。だが、彼は私を射抜くように見据え、口を開いた。
「……何をした?」
「え? な、なにが?」
「誤魔化すな。分かってるんだぜ?」
ルースの視線が叡智の鍵に向けられる。
その口元に、不敵な笑みが浮かんだ。
「叡智の鍵……? ほう。面白そうなものを持ってるじゃねぇか」
―――秘密は、もう隠しきれないみたい。
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