第78話 濁った水
黒雲に噴き上げられた飛沫が、氷雨となって降り注ぐ。
冷気は鱗を突き抜け、骨に染みた。
息を吸うたび、鰓の奥で氷が鳴る。
ここは戦場―――そして、今まさに我輩は、その中心に立っている。
ゲンブとの戦い。
誰がこんな光景を想像できただろう。
ソヴリンを討つなど、夢にも思わなかったはずだ。
だが今、我輩は確かにこの戦場で生きている。
「さぁ! 次に行くわよ!!」
「分かっている!!」
背中からイザベラの声。
その気迫に押されるより先に、身体が動いた。
足場を蹴り、我輩は巨体の甲羅を駆け上がる。
邪魔をする蛇はもういないのだ!
我輩を止めるものは、もう何もない。
あの子らを守るため――やるべきことをやるだけだ!
亀の甲羅から噴き上がる濁流は、山肌を腐食し、世界を蝕んでいた。
だが、それすらも止めてみせる。
「書き写す喉!」
イザベラの呪文が風を裂く。
杖の先から伸びる氷の槍が、飛沫を凍らせていく。
それを掴み、我輩は甲羅の裂け目へ叩き込んだ。
これで何箇所目だろうか?
巨大な甲羅を1周するように栓をしてきた我輩たちは、ようやく水をせき止めることに成功したらしい。
残りは、頭だけ。
未だに空に向けて激しく放水し続けているゲンブの頭。
誰に言われるまでもなく、我輩は足を向けた。
ゲンブの巨体がのたうつ。
大地が鳴き、山がうねる。
怒りか、苦悶か。
まるで天地そのものが嘆いているようだった。
「効いてるわ! 最後の仕上げよ、アレックス! 準備はいい!?」
「任せろ!!」
「ダグ! ゲンブの口の中へ、これを投げ込んで!」
「分かった!」
イザベラが放ったのは、遺跡の壁片に聖浄の力を書き写した“罠石”。
クゥが翼をはためかせ、それを掴んで飛翔する。
吹雪の空を切り裂く一筋の白――まるで祈りが舞い上がるようだった。
「書き写す喉! このみぞれを止めるわよ!」
「異論はないぞ!」
我輩は氷柱を握り締め、全身の力で叩き込む。
氷の冷たさが手を焼くほど熱い。
我輩の内で燃えるのは、迷いのない信念だった。
「浄留界!」
イザベラの声が空を震わせ、氷柱が白く光る。
その瞬間―――
空を裂いていた濁流がぴたりと止まった。
「今よ!」
彼女の叫びと同時に、クゥとダグの影が風を裂く。
巨大な亀の口へ瓦礫を投げ込み、それが沈むのを見届けて、イザベラが詠唱を重ねた。
「もう一度眠りなさい! 浄培界!」
光が爆ぜた。
山の空気が一瞬、静止する。
そして――ゲンブの巨体が山頂に沈み込むように傾いた。
まるで眠りに戻るように。
「やった……のか?」
そう呟いた途端、山が悲鳴を上げる。
霧氷山の頂が、音を立てて崩れ落ちていく。
「アレックス! 逃げて!」
イザベラの声を聞くより早く、我輩は彼女を抱き上げた。
氷が砕け、雪が爆ぜ、世界がひっくり返る。
音が消え、すべてが白に呑まれた――。
――落下。
体を打つ衝撃、水の冷たさ、息の渇き。
そのすべてが生を確かめる痛みのように感じられた。
水面を割って浮上した瞬間、視界が広がる。
切り立った崖に囲まれた空洞。
中央には、動かぬ巨亀。
甲羅の上の遺跡が、粉雪を受けて淡く光っていた。
まるで、神が眠る祭壇のようである。
余りにも美しく見えるその光景に見惚れていた我輩は、視界の端で動く影に気が付いた。
暗い水中でもがいているのは……イザベラだ!
「イザベラ! 大丈夫か!?」
「ぶはぁっ! ケホッケホッ!」
「すまない、見つけるのが遅れた! すぐに水から上がるぞ!」
「だ、大丈夫よ。それより、ゲンブは?」
「ゲンブなら、あそこで動かなくなっているぞ! これはあれか? 我輩たちはついに成し遂げたという事なのか!?」
「―――まだよ」
イザベラの声は静かで、凛としていた。
彼女の瞳が、水面の光を反射する。
その瞬間、空間の奥底から声が響いた。
「ゲンブを退けた者たちよ。よくぞ成し遂げました」
「何者だ!?」
「やっぱりそうなるのね」
その声は、風でも水でもない。
山そのものが語っているような、温もりを帯びた女性の声。
「さぁ、神に導かれし者たちよ。私の元まで来るのです。そして、成すべきことを成しなさい」
「アレックス! ゲンブに……魔導遺跡に向かって!」
「遺跡に? だが、今の声は」
「説明は後でするから。いい加減水から出たいし」
思わず笑い、我輩は頷いた。
「了解だ、勇者殿」
よく見れば、ダグたちも遺跡に向かっているようだ。
であるならば、我輩たちも合流したほうがいいだろう。
そして説明をしてもらおう。
水を蹴り、遺跡へ向かって泳ぎ出す。
頭上では、粉雪が光をまとって舞っていた。
先ほどまでの轟音とは打って変わり、静寂が遺跡を包み込む。
そんな雰囲気を、我輩は知っている。
幼い頃、何度も味わったことのある、懐かしい空気だ。
あの教会で、あの方とともに祈りを捧げていた日々。
懐かしさと同時に、寂しさを思い出してしまうのはなぜだろう。
そんな疑問の答えを、我輩は背中の熱のおかげで思い出した。
あの子たちも、そして我輩も。
皆が等しく背負われていたかつての記憶。
眩しく思えるその記憶を思い出したからこそ、我輩は自覚するのだ。
今はもう、背負う側になったのだと。
『願いの先は同じなのに、目の前にある現実が違うから、私とあなたは見てるものがズレてたのよ』
流れに身を任せて、ここまで来た。
だからこそ、流れに乗らない彼女と衝突したこともあった。
身を任せることこそが、清く正しいことなのだと信じていたから。
だが、今ならわかる。
我輩のしていたことは、流れに乗っていたのではない。
長い時間をかけて、同じ場所を何度も回り続けていただけなのだ。
祈り願い続けていたはずだったのに。
祈ることも願うことも叶わないのだと、淀んでしまっていたのだ。
淀みはいずれ、濁りとなる。
濁った水では、元気な種も育めないであろう。
改めて、感謝しなければならない。
彼女たちは、我輩に初心というものを思い出させてくれたのだから。
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