第118話 静かな宣告
夜が明けていた。
湿った土の匂いが、やけに心地いい。肺の奥まで吸い込んでも、どこにも痛みが残らない。空気は澄んでいて、視界は妙にクリアだった。
――生きてる。
そんな当たり前の実感がこんなにも軽いものだったかと、少しだけ笑える。
みんな泣きつかれたのか、その場に座り込んじまってるぜ。
どこまでも穏やかで、どこまでも――油断しそうになる。
その時だった。
『――まだ、終わってはいないよ』
頭の芯に直接響くような声が、空から降ってきた。
「……あ?」
反射的に顔を上げる。
そこにいたのは、人影だった。
宙に浮かび、淡く光を帯びた半透明の男。輪郭ははっきりしているのに、どこか現実味がない。
「……幽霊かよ」
思わず漏れた言葉に、男はわずかに目を細めた。
ゆっくりと降りてくる。俺たちの視線の高さまで。
そして――
『はじめまして。……というわけではないんだったね』
きちんとした所作で、深く頭を下げた。
『まずは、長く厳しい旅を越えて来た君たちに、敬意を表したい』
礼儀正しすぎる挨拶に、誰もすぐには口を開けなかった。
勇者。
その単語の重みが、場の空気を一段冷やす。
オラクスは顔を上げ、まっすぐにイザベラたちを見た。
『魔王ルースを許し、共に生きる――その選択は、想像以上に険しい道だ』
静かな声だった。だが、確信があった。
「……あんたに、何が分かるのよ」
俺が口を開く前に、イザベラが一歩前に出て言った。
オラクスはわずかに目を伏せた。
『分かるさ。なぜなら僕たちは――それができなかった側だからね』
空気が止まる。
『彼の生い立ちを知り、それでも……許すことは、できなかった』
その言葉に、誰も反論できなかった。
『もし、世界中に彼の正体が知れ渡れば――』
オラクスはゆっくりと俺を見た。
『あなた方に、平穏な生活は訪れないでしょう』
「でもさ!」
クゥが声を上げる。
「アタシたちだって、最初は知らなかったんだし! 誰も気づかないんじゃないの?」
その言葉に、オラクスはわずかに首を振った。
『そうとは限りません』
そして、静かに続ける。
『あなた方は、ソヴリンを全て討伐した』
「……それが、なんだというのだ?」
『その結果、人々は自由を手に入れる。そして――やがて辿り着く』
オラクスが静かに瞳を閉じた。
『各地の魔導遺跡に』
胸の奥が、わずかにざわつく。
『そこには、数多くの書物が保管されています。……それらは、当時の僕たちが世界の崩壊を予見して退避させたものです』
ああ、と。
どこかで聞いた話が、繋がっていく。
『ソヴリンが世界を破壊する理由も、魔王の正体も――そこに記されています』
「……それってつまり、全部バレるってこと!?」
ダグが驚きで声を上げてる。
彼の言葉を肯定するように、オラクスは頷いた。
『欠乏の文様。そして、魔王ルースという存在』
その名を、他人の口から聞くのは、未だに妙な気分だった。
目を細めた俺を見て、オラクスは少しだけ申し訳なさそうにしながらも続けた。
『同時に、人々は知るでしょう。彼が、どのようにして力を得たのかを』
イザベラが小さく息を呑む。
『人は――強い欲望に身を委ねた時、稀に魔術を授かる』
静かな宣告だった。
『それが、彼が瞳や手……四つの力を手に入れた理由です』
沈黙。
だが、それは否定の余地のない事実だった。
「願いや祈りと同じように……欲望もまた、魔術を生み出す。……なるほどね」
イザベラが、ゆっくりと頷いた。
その表情には、驚きよりも理解があった。
「だから、“導く”必要があるのね」
その一言で、全部が繋がる。
北の大陸で、あの僧侶と交わした会話。
――魔術ではなく、魔導が必要な理由。
――魔導書や遺跡が作られた意味。
欲望に飲まれないための、枠組み。
……ああ、そういうことかよ。
俺は、鼻で笑った。
気付くのが遅すぎるくらいだぜ。
願いか祈りか、はたまた欲望か。
それらの違いを理解して操ることができる人間は、どれだけいるんだろうか。
言っちまえば俺は、この身に抱えた巨大な欲望に抗えなかったんだな。
そもそも、抗うつもりすらなかったし。
生きるためだったといえば、それまでだけど。
俺が一人で納得してると、不意にアレックスが背後を振り返った。
そして、唐突に声を張り上げる。
「そこにいるのは、誰だ!」
……正直、俺には何も分からなかった。
気配も、音も、何も。
仕方ないよな。今の俺は、ただの小人なんだから。
だが、アレックスは違う。
聞き取る耳を完全に使いこなしてやがる。
さすがだぜ。
って、感心している場合じゃねぇか。
彼の視線を追うと、わずかに揺れる茂みがある。
そして――
「……よう」
気だるげな声とともに、男が姿を現す。
エオウィンだ。
その背後で、さらに複数の気配が動いた。
「――クェッ!?」
クゥが羽をばたつかせる。
『囲まれています……! いつの間に……!』
ライラの声にも、焦りが混じる。
周囲を見渡すと、確かに――人影。
完全に、包囲されてるぜ。
「ちっ……」
俺は舌打ちしながら、体勢を低くする。
だが。
エオウィンは、そんな俺たちを見て、薄く笑っただけだった。
そして、ちらりとオラクスに視線を向ける。
軽く、会釈。
「まさかよ」
肩をすくめながら、口を開く。
「ガキの頃に読んだ伽噺の主役に会えるなんざ、思ってもみなかったぜ」
その両脇に、見慣れた顔。
ベニーとクララが並んでいる。
「マジっスよね」
ベニーが笑いながら頷く。
「この島に着いてから2日。待ち続けるって判断、さすがっスよボス」
「ええ。退屈ではありましたが……成果は十分ですわ」
クララも静かに同意する。
と、そんな二人の軽口に、イザベラたちが動揺を見せたんだ。
「……2日?」
ライラが、ぽつりと呟いた。
『でも私たちは……』
言葉が続かない。
言われてようやく、俺も同じような違和感を覚えていた。
……2日?
そもそも理解できてないんだが。
俺たちは今、どこにいるんだ?
そして、西の大陸で意識を失ってから、どれだけの時間が経ってるんだ?
面白いと思ったらいいねとブックマークをお願いします。
更新の励みになります!




