第1話 ドンゾコの世界
――俺のことを「ルース」って呼び出したのは、誰だったっけ。
……もう覚えてねぇや。
十年は人と会ってねぇ。名前の一つや二つ、忘れて当然だろ?
崩れた天井から冷たい雨が落ちる。頬を打つ雫が、痩せた身体にじわりと染みこんでいく。
飛ばされた洗濯物なんてどうでもいい。
生きること自体、もうどうでもよくなってるぜ。
ついこの前までは、雨が降ると歓喜してたんだ。飲み水が手に入るから。
――笑えるよな。
今は食うものもねぇ。雨水だけじゃ渇きを抑えられねぇし。
骨ばった腹が内側から切り裂かれるみてぇに痛んでる。
家もねぇ。ぬくもりもねぇ。希望もねぇ。
神様よぉ。
……いい加減、俺を連れてけよ。
「その願い、聞き入れるわけにはいきませんね」
――声だ。
女の声。頭の奥に直接響くみてぇに。
俺は呻こうとしたが、唇は動かねぇ。声も出ねぇ。
「魂を回収します。命は有限ですから。あなたには“役目”を担ってもらいます」
「はっ……? 役目だぁ?」
目の前の光景が崩れた。
瓦礫の廃墟が溶けて、真っ白な靄に変わっていく。
皮膚が透け、手足が薄く光り、やがて――自分の身体が半透明になった。
「なっ……すっぽんぽんじゃねぇか!」
骨と皮ばかりの醜い身体が、白昼に晒されている。
「もう少し恥じらいを持ったらどうなのですか?」
「っ!? 見えてんのかよ! 姿を現せ!」
「私はそちらへ行けません。声だけです」
静かに、しかし拒絶を許さぬ響きのその声が黙り込む。
「で、あんたは誰だ?」
「神です」
「……冗談も大概にしろ」
「本当ですよ? その証拠と言ってはなんですが、あなたに天罰を下さなければなりません」
「はぁ!? どうして俺が天罰なんか―――」
「ルース――あなたは少女の“ナビゲーター”として生まれ変わるのです」
俺の体がさらに変化した。
白い靄の中、全身が圧縮される。
視界が急激に下がり、背丈は六分の一に。四肢に黒い文様が走り、脳へ熱と知識が洪水のように流れ込む。
直後、焼けるような痛みに思考がかき乱された。
「どうなってんだ……!」
「準備完了です。では三つ、心に刻みなさい」
声は淡々と告げる。
「一つ。生まれ変わったことを決して明かさぬこと」
「ちょっ、勝手に――」
「二つ。少女を導き、四大陸を蹂躙する魔物ソヴリンを滅ぼすこと」
「俺がそんな――」
「三つ。あなたはできる。私はそう信じています。だから、あなたも自分を信じなさい」
……ふざけんな。
俺はただの人間だった。勇者でも魔術師でもねぇ。
前時代の残骸を漁って生き延びてただけの、地べたをはい回る虫けらだ。
「質問を一つだけ許しましょう」
「一つだけ……? なら聞く。もし破ったらどうなる」
「厳罰を与えます。魂を再利用し、さらに弱体化させます」
……再利用。
命は無限じゃない――そういう意味かよ。
クソ。逃げ場はねぇ。
白い靄の渦が俺を呑み込み、視界を引き裂いた。
俺はただ、流れに身を委ねるしかなかった。
――もうこれ以上、どん底なんてないと思っていたから。
だが。
本当のドンゾコは、この先にあったんだ。
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