星さがし
想いが人を突き動かす
『セナのおとうさんってへんだよな!目が見えないってさ!』
夢の中、俺の声が響いていた。それは、俺の母親に言及されそうになった際、友人の言葉をかわすためのものだった。
今だからこそ、それがどれだけ彼女の心に強く響いたかがわかる。目が見えないというアドバンテージを背負っていても、その人が彼女の父であることに変わりはない。
みんな違ってみんないい。そんな単純な言葉でまとめたくはないけれど、要はそういうことだろう。
彼女にとって、その人はたった一人の父なのだ。家族なのだ。そんな人を罵倒した俺は、そこで完璧なまでに、彼女に嫌われた。
嫌われたことだって、当時の俺には理解できなかった。ただ、彼女はこれまで以上に俺を無視して、俺と話してくれなかった。
それだけ。
それを、俺は嫌がらせだと思った。許せないと思った。
だから、俺は一層苛烈に、彼女に当たった。そうするのが当然だと思っていた。
そうして、ますます俺と彼女との距離は開いた。
それでも、俺は止まれなかった。止まらなかった。
友人の友里と仲良さげに話す彼女を見て、俺ともそうやって話してほしいと思った。もっと、彼女と話したかった。彼女に見てもらいたかった。彼女と関わりたかった。
その思いが恋だと気づいた時には、多分もう、全てが遅かった。
◆
「なぁ、なぁってば」
小学五年生になって、俺は再び星凪と同じクラスになった。なぜだか、やたらと楽しくて仕方がなかった。
去年の一年、星凪がいないクラスはつまらなかった。仲の良い芳樹とか優紀は一緒のクラスだったけど、それだけ。気が付けば、俺は星凪を探していた。
星凪の声を聞きたかった。話をしたかった。俺を見てほしかった。その目に映りたかった。けれど、俺はたった数メートル、隣のクラスに足を運ぶことができなかった。だから、俺は登下校などで見つけた時、決まって星凪を追いかけた。
もっと話そうと。だって俺たちは友人だろ?
なのに、星凪は俺を無視して、友人の友里とばかり話していた。だから腹が立った。悔しかった。同じクラスになったらもっと話しかけてやる。だから話せよ。クラスメイトなんだから。
そんな思いが現実となって、俺は再び星凪のクラスメイトになった。
なのに、星凪は今日も俺を無視する。授業後。掃除が終わった友人たちは部活のために走り去っていく。部活動にも少年団なんかにも参加していない俺は、帰り支度をしている星凪の姿を見つけて走り寄った。
「なぁ、今日暇か?どっかで遊ばねぇ?」
ちらり、と星凪が俺を見る。その口が小さく震える。やわらかいピンク色の唇。なぜだかそこから、目が離せなかった。
言葉の代わりに、星凪は小さなため息を漏らす。
教室の扉から、友里の声が聞こえた。隣のクラスのあいつが、星凪を迎えに来た。このままだと、また無視される。
「星凪ー?」
「今行くよ」
真っ赤なランドセルを背負った星凪が歩き出す。
瞬間、沸騰しそうなほどの怒りに襲われ、俺は激情のままに手を伸ばした。ふざけんなよ、無視すんなよ、と。
「待てよ!」
伸ばした手が、何かをつかむ。
星凪が、勢いよく振り向く。
何かが、ぶちりと音を立ててちぎれて。ジャラ、と豆がぶつかるような音と、小さな弾むような音が響いた。
睨むように俺を見る星凪の目は、綺麗だった。やや茶色いその目が、真っすぐ俺を捉えていた。何かを言おうと、星凪が口を動かしながら一歩前に出て、その動きが止まった。その視線が俺の手へと移り、そして、星凪は唇をわななかせる。
「……それ」
震える手で指さされ、俺は自分の手の中にあるものを確認するために手を開いた。
そこには、真っ赤な星があった。ビーズでできた、小さな星。星凪のランドセルにぶら下がっていたストラップだった。
元々はきちんとした星形をしていたはずのそれは、けれど角の一つが欠けていた。
その中央から、コロン、と乳白色の真珠みたいな球体が出て来て、床を転がった。
カランという小さな音が、やけに大きく聞こえた。
「……あ」
しまった、と思った。とてつもない後悔が押し寄せて来た。けれどそれも、怒りに変わった。お前が無視するのが悪いんだ――勢いのままに、そうまくしたてようとして。
星凪の頬を伝う涙に、目が吸い寄せられた。彼女は、綺麗だった。見開かれた目は宝石のように輝いていた。きめ細かな肌はわずかに朱がさし、つんと尖った鼻に柔らかそうな唇。さらりとした黒髪が揺れて、星凪の片目を隠した。
綺麗だった。そこには、俺が知る星凪はいなかった。代わりに、成長した、少女とも大人の女性とも言える人がいた。そう、思った瞬間、ぶわりと顔が熱を帯びた。
そこで、ようやく俺は気づいた。
俺は星凪のことが――
星凪が、腕を振りかぶる。その動きが、やけにゆっくりしているように見えた。
パァン、と乾いた音が響いた。
視界が揺れ、頬が熱を帯びた。何をされたのか、そう思うより先に、星凪の声が耳に飛び込んで来た。
「大っ嫌い!」
心が震えた。激しい絶望で、視界がチカチカと瞬いていた。
手を伸ばす。すがるように伸ばしたその手は、けれど俺が壊したビーズのストラップが握られていて。
去っていく星凪を捕まえることはできなかった。
――俺は、星凪が好きだった。
けれどその気づきは、少しばかり遅かったんだ。
◆
「……謝ったのか?」
低い声で問われて、俺は体が震えるばかりだった。声は言葉にならず、ただ恐怖だけがあった。
小さく、首を横に振った。そんな俺を見て、父さんは俺の頭を殴った。
「っ、何すんだよ!?」
目の前に光が散った。痛みで頭が真っ白になり、それから理不尽に対する怒りが口から迸った。
「俺は謝罪の一つもできないようにお前を育てた覚えはないぞ?」
「うっせぇ!クソジジイ!」
怒りのままに叫んで、俺は逃げ出した。
分かってるんだ。謝れなかった俺が悪い。分かっていたんだ。なのに今更正論を突き付けて来るなよ。傷に塩を塗るなよ。やめて、くれよ。
頭が痛くて、けれどそれ以上に心が痛かった。
涙を見せまいと、父さんに背を向けて廊下を走った。
星凪に、謝れなかった。嫌われた。いいや、多分、ずっと前から嫌われていた。けれど今度こそ、絶対に嫌われた。もう、仲直りだってできそうになかった。
夕方、ふてくされたまま公園で時間を潰してから帰った俺を、父さんは険しい顔で出迎えた。先生から、俺が星凪のストラップを壊してしまったという連絡が来ていたらしい。多分あそこにいた誰かがチクったんだ。けど、今はそんなことはどうでもよかった。
どうしたら、星凪と仲直りできる?そんなの無理だ。どうしようもない。だって、星凪は俺のことを大っ嫌いって言ったんだ。嫌いじゃない、大嫌いだ。
大嫌い、そんな言葉、もうずいぶん言っていない気がする。前は……ああ、母さんが死んだ時だ。母さんが死んだときに涙の一つも流さなかった父さんを見て、腹が立った。確か、まだ五歳かそこらの時だ。
だから、大嫌いだと言ってやった。母さんの死が悲しくない父さんなんて大嫌いだ。母さんじゃなくて父さんが死ねばよかったんだ――そんなことを、言った気がする。
「……ははっ、俺はこんなんばっかりかよ」
自分が嫌になる。目が見えない星凪の父さんを馬鹿にした。俺の父さんも、馬鹿にした。俺はクソだ。ゴミだ。芋虫だ。こんな俺が、星凪と仲直りする?そんなの不可能だ。
頭から布団をかぶって、涙を流した。頭が痛くて、喉が痛くて、心が痛かった。
夢の中、小さな俺は星凪に向かって悪口を言っていた。目がみえないなんておかしい。お前の父さんは変なんだ。そんな言葉を俺が口にするたびに、星凪は表情をくしゃりと歪めていた。どれほど星凪が苦しかったか、痛かったか、今なら痛いほどわかる。
でももう、遅いんだ――
ノックの音が聞こえた。まどろみの中から、意識が這い上がる。
「鷹?いるんでしょ?」
夢姉さんの声が聞こえた。姉さんと言っても、実の姉じゃない。義理でもない。
夢姉さんは父さんの妹だ。近くに住んでいて、時々家に来て父さんの料理を食べて泊っていく。姉さん曰く、父さんの料理が夢姉さんのおふくろの味らしい。よくわからない。夢姉さんにとって父さんは兄のはずだ。
このタイミングだ。きっと父さんが夢姉さんを呼んだに違いない。
父さんは余計なことしかしない。すべきことだって、できないくせに。
「……ほっといてよ」
ひどく枯れた声が出た。そういえば喉が渇いた。泣きながら眠っていたせいか、体が酷く重かった。布団は湿っていて、気持ちが悪かった。顔を洗いたいし、鼻もかみたい。
けど今は、とにかく誰とも話したくなかった。誰とも、会いたくなかった。
小さな衣擦れの音がした。それから、扉をこするような音がして。
そっか、と夢姉さんは扉の向こうに座って、小さくつぶやいた。
気づけば日が沈んでいて、電気もつけていなかった部屋は真っ暗になっていた。
鍵はないから、入ろうと思えば夢姉さんは俺の部屋に入って来れる。けれど、夢姉さんはそうしなかった。
無言の時間が続くと、星凪のことばかりが頭に浮かんだ。これまで、星凪はたくさん俺にひどいことをしたと思っていた。何度も無視された。せっかく俺が話を振っても、星凪は俺がいないみたいにふるまった。
嫌な奴だった。でも、本当に嫌な奴は俺だった。
父さんの顔を、思い出した。悲しそうな、顔。父さんが死ねばよかったと、そう言った時の父さんの顔を思い出した。
母さんの顔は、もう、ほとんど思い出せなかった。
「……まったく、峻佑兄さんも不器用だよね」
くぐもった声が扉の向こうから聞こえてくる。布団をかぶって耳を塞いでも、「不器用」という単語はするりと俺の耳の中に滑り込んだ。
夢姉さんは以前から、父さんのことを「頼れる兄さん」だと言っていた。父さんの弟で、夢姉さんの兄である航大兄さんは、いつまでもガキな大人扱いなのに。
そんな父さんが「不器用」だと表現される理由が、わからなかった。
「……父さんは不器用じゃない」
なぜだか、俺はそんなことを言っていた。話の一つだってしたくはなかったのに。
俺の声を聞いた夢姉さんは、扉の向こうでからからと笑っていた。からかいがいがある――そんな声が聞こえた気がした。
「ふふ、やっぱり鷹は峻佑兄さんが大好きなんだね」
「好きじゃない!父さんなんか……嫌いだ!」
大嫌い――口を出そうになったその言葉を押し込めて、俺はただ嫌いだと言った。ああ、父さんが嫌いだ。結婚したはずの母さんの葬式で泣きもしなかった父さんが嫌いだ。
でも、それ以上に腹が立っていた。父さんは不器用じゃない。あんまり覚えてはいないけれどたぶん母さん以上に料理が上手だし、家事は完璧だ。それに俺が頼むといろんなところに連れて行ってくれる。そういえば、嫌な顔一つ見たことがない気がするし、文句だって聞いたことがない気がする。夢姉さんは、「仕事が忙しいはずなのに大丈夫なの?」って父さんに聞いていた気がするけれど、父さんは「大丈夫」としか言っていなかった。
「……どうして嫌いなの?鷹はずっとお父さんっ子だった気がするけれど」
「嫌いだから嫌いだ」
「それじゃわからないでしょ」
「……じゃあ、父さんのどこが不器用なんだよ?父さんは料理できるじゃん。夢姉さんと違って」
「ぐっ……わ、私はいいの。別に困ってないし?」
「でもいつも泣きながら父さんの料理を食べてるよね?これがおふくろの味だ~って言いながら」
恥ずかしそうに叫んだ夢姉さんが、ぱたりと口ごもる。何か、おかしなことを言っただろうか。
途端に、不安になった。星凪に言ったみたいに、今、何か悪口を言ってしまったんじゃないか。押し寄せる不安で、吐きそうだった。
「……峻佑兄さんは、不器用だよ。鷹に、どうふるまったらいいか悩んで、苦しんで、こうして私に話を聞いて来てほしいっていうくらいだから」
「そんなの嘘だ。父さんはそんな人じゃない」
「峻佑兄さんは優しい人よ?」
「優しくなんてない!」
不器用かどうかはともかく、父さんは優しくない。心のない人なんだ。機械みたいな人なんだ。友人が言っていた「シャチク」ってやつだ。社会に適合した、ロボットみたいな人。そんな父さんが優しい?ありえない!
「……どうして、優しくないなんて思うの?」
「…………だって、母さんの葬式で、泣いてなかったから」
「だから、不器用なんだよ」
優しい声で、夢姉さんはそう告げた。だから?どういうこと?俺には、全く分からない。夢姉さんが何を言っているのか、夢姉さんが話しているのが、本当に父さんのことなのか、全く分からない。
気づけば俺は布団から体を出し、じっと扉を見つめていた。その先に座る夢姉さんが、何を考えているのか、夢姉さんから見た父さんがどんな人なのか、気になった。
「真帆義姉さんの葬式で、確かに峻佑兄さんは泣かなかったわ。でも、悲しくなかったからじゃないの。だって、峻佑兄さんは確かに真帆義姉さんを愛していたから」
久しぶりに聞いた。母さんの名前。けれどその名前は、なぜだかもう、俺にとっては他人の名前に聞こえてしまった。夢姉さんと違って、俺の記憶には、もう母さんはほとんどいない。
「じゃあ、どうして泣かないんだよ……」
「鷹がいたからよ」
「……俺が、いたから?」
雷に打たれたような感覚がした。背中が震え、脳天に衝撃が走った。
俺のせいで、泣けなかった?
「そう。鷹がいたから、泣けなかった。泣いてはいけないと思った。……多分、思い出しちゃったんだろうね。お母さん……私たちの、お母さんを」
「父さんの、母さん?」
「そう。あのね、私たちのお母さんも、若いころに死んじゃったの。医者だったお父さんは、私たち三人を養うために頑張って働いてくれたわ。ううん、お母さんが亡くなってからしばらくは、お父さんは何もしなかったし、できなかった。無気力なお父さんの代わりに、家のことは峻佑兄さんがやっていた。そうするしかなかったから。まだ小さかったのに、私たちの世話で毎日を過ごして、料理だってしてくれて。峻佑兄さんのお陰で、私たち一家は立ち直ったの。私と航大兄さんにとって、峻佑兄さんはお母さんのような人でもあったわ」
「……そんなの、知らない」
「言えなかったんでしょうね。だって、峻佑兄さんは不器用だもの。弱音を吐けない人だから。吐いてはいけないと、苦しさを飲み込んでしまう人だから。献身的に尽くして、他者との関係を嘯いて、本心を言えない不器用な人。……自分みたいな苦しさを味わってほしくなくて、鷹の前で泣けなかったんじゃないかしら。無気力になったら、鷹が自分と同じような苦しい目にあってしまうから。だから必死に働いた。本心を隠して、悲しみを飲み込んで……ねぇ、鷹、あなたはお父さんが嫌い?」
もう、嫌いだなんて言えなかった。言えるはずもなかった。
胸元の衣服を強く握った。心が痛かった。苦しかった。
申し訳なさで、胸がいっぱいだった。俺はいつも、自分勝手だ。父さんのことだって、星凪のことだって考えもせず、自分のことばかり考えている。
父さんは優しい人だ。星凪だって、嫌な人じゃない。
嫌な人は、俺だ。俺が、悪いんだ。
「……あや、まらないと」
声は震えていた。ひどく小さくて、今にも消えてしまいそうだった。それ以上声を上げると、涙が溢れそうだった。
震えながら、一歩を踏み出す。
扉に手をかけて、開く。
途端に、まばゆい光が目に飛び込んで来た。ひどくにじんだ視界の先、夢姉さんが優しげに笑って俺を出迎えた。
そこには、家庭の光があった。父さんが守ってくれた、日常の光が。
◆
「もう、大丈夫かな?」
去っていく鷹の背中を見送りながら、私は小さく息を吐く。ずいぶんと気を張っていたせいか、緊張の糸が切れた瞬間に膝から力が抜け、私は壁に背中を預けて座り込んだ。
思い出が、胸にあふれていた。鷹のお母さん――真帆義姉さんのこと。峻佑兄さんの心を自分の世界から引っ張り上げてくれて、峻佑兄さんが唯一心から本心を話せる相手になってくれた人。彼女の死に顔を見ながら、涙を押し殺し、覚悟を宿した顔をしていた峻佑兄さんの顔は、今でも鮮明に覚えている。
このままでは駄目だと、そう思ってからも私と航大兄さんは何もできずにいた。私たちの兄であり母。私たちを育て、支えてくれた峻佑兄さん。
その人生は、きっと苦しみにあふれていた。お父さんに変わって、家族を守ってくれた。恋心を押し殺して、苦しむ“親友”を支え続けたこともあった。けれど真帆さんと夫婦になって、私たちはようやく肩の荷が下りた気がした。これからは私たちのことなんて気にせず、幸せになって――そう願っていたのに運命は残酷で、真帆さんは遠い人になってしまった。
強く拳を握り、鷹を守ると決意した峻佑兄さんは、確かに鷹を守り続けた。でももう、鷹も小学五年生だ。まだ大人ではないけれど、何もできない子どもじゃない。
だから、一歩を踏み出して。峻佑兄さんを、お父さんを、救ってあげて。
祈りながら、私は開きっぱなしだった鷹くんの部屋の扉を閉め、慟哭が聞こえるダイニングの方へと歩き出した。
もう、峻佑兄さんは大丈夫だ。だって、そこには、漢気あふれる、私たちがよく知る熱血漢がいるはずだから。
◆
父さんと仲直りした。いや、別に喧嘩はしていなかったと思う。だから、父さんとの蟠りをなくした、というのが正しいかもしれない。
父さんは、母さんの死を悲しんでいないわけじゃなかった。父さんは俺を守るために、俺に辛い思いをさせないために、悲しみを押し殺していた。
その努力は、俺には分からない。だって俺は、「真帆を愛していた」だなんて素面で言えるような父さんとは違うから。
誰もが同じ環境にはいないんだ。母さんを失くした父さんには、弟と妹がいた。けれど、俺にはいない。そして、俺には努力家で、悲しみだって押し殺して働ける、スーパーマンみたいな父さんがいる。
同じ環境にはいなくて、同じ経験はしていなくて。けれどそれでも、俺は父さんと仲直りをした。ひどい男である俺だって、仲直りができた。
だから、大丈夫だ。星凪とだって、仲直りできるはずだ。
大丈夫、大丈夫、そう何度も心に言い聞かせているうちに、俺は自然と眠りに落ちていた。
翌朝。
寝すぎたせいか怠かったけれど、目はすっきりと冴えていた。それから、覚悟もできていた。
「……なんだか告白しに行くみたいな気の入りようね」
「うるさいよ、夢姉さん」
からかって来る夢姉さんに文句を言いながら、俺は食パンを牛乳で胃に流し込んで、急ぎ足に家を飛び出した。
別に急いだところで分団の出発時間が早まるわけでも、学校に早く着けるわけでもないのだけれど。
はやる気持ちを抑えながら、俺はいつもの道を歩いた。もう四年も歩いた、慣れた道。ほんの少し風に混じる海の匂いを感じながら、俺は下級生を連れて小学校まで歩いた。
下駄箱で靴を履き替えながら、視線は星凪の場所を見ていた。そこには上履きの代わりにシンプルな黒のスニーカーがあった。
星凪はもう、学校に来ている。
途端に落ち着かない気持ちになって、俺は一度目を閉じて深呼吸した。
大丈夫。落ち着け。謝ればちゃんと許してくれる。
「星凪!」
教室の扉。小さな窓の先に星凪の姿を見つけた瞬間、俺は彼女の名前を呼んでいた。一瞬顔を上げた星凪は、嫌そうに表情を歪め、それから何事もなかったように机に顔を伏せて読書に戻った。
教室にはまだ人は少なくて、星凪とよく話している女子もいなかった。今が、チャンスだった。
「ごめん!」
ランドセルを下ろすのも忘れて、俺はポケットに入れておいた、元はお年玉用のポチ袋を取り出して、両手で星凪に差し出しながら頭を下げた。
「……何、これ?」
よかった、無視されなかった。そんな安堵から、俺はゆっくりと顔を上げ、不審そうにポチ袋を見る星凪の顔を伺う。眉間にしわを寄せてはいたけれど、星凪は綺麗で。やっぱり俺は、星凪のことが好きなんだと場違いにも思った。
「星凪の星だよ」
そう告げた瞬間、星凪の顔に激しい怒りが宿った。
「ッ、どっか行って!」
「な、なんでだよ!?」
「うるさい!」
その目には、涙さえにじんでいた。分からない。ただ、壊れていてもちゃんと謝って返そうと思っただけなのに、星凪は俺の手の中にあった袋を叩き落し、俺を睨む。それから、勢いよく踵を返して教室から走り去っていった。
「……どうすればいいんだよ」
ガラスが擦れるような音がする袋の中を覗き込めば、そこには昨日以上に崩れてしまったビーズの星の姿があった。
昼休みの時間は、俺は友人の誘いを断り、覚悟を胸に隣のクラスを訪ねた。
他のクラスに行くのは苦手だった。こう、アウェーというか、自分が入ってはいけない場所であるみたいは雰囲気があるから。
扉の先、去年同じクラスだった友人たちは、早くも隣のクラスで新しい人間関係を築いていた。そこに、俺の居場所はない。当然だ。だって俺は、隣のクラスなんだから。
「……どうしたの?」
扉付近の席に座っていた女子が、俺に気づいて話しかけて来た。確か、三年の時に同じクラスだったやつ。そのことに意識を引き戻されて、俺は教室を見回していた視線をそいつに向けた。
なぜだか口の渇きを感じながら、俺はごくりと喉を鳴らして口を開いた。
「なぁ、友里っているか?」
「ん?友里ちゃん?えーっと……いないね」
彼女につられて教室を見回したけれど、星凪の親友の姿はなかった。
「今の時間だと、多分図書室じゃないかな。あ、でも、告白だったら中庭かも?」
「……りょーかい。ありがとな」
「ううん、気にしないで」
再び本の海に戻った彼女に礼を言って、俺はひとまず図書室に向かった。
廊下を歩きながら、俺は星凪のことではなく、先ほどの会話のことを思い出していた。
どうでもいいけど、友里ってこんな会話に告白なんて単語が出るような奴なのか?確かにまあ可愛い気がしなくもないし、友人の中には友里に告白したっていう奴もいるけど、あいつって意外と口が悪いしな。こう、ガサツってわけじゃないけど、毒舌?みたいな感じか?だからあんまり話そうって気にならないんだよな……
「あら、それはごめんなさいね?」
「っ……俺、何か口にしてたか?」
気づいたら目の前に友里の奴がいて、俺は盛大に頬が引きつった気がした。俺の心まで見通しそうな真っ黒な目が、俺を映していた。長い黒髪と白い肌が特徴的な、人形みたいな奴。いや、お嬢様みたいって言った方が正しいかもしれない。その手には古めかしい赤色の表紙の本が握られていた。
冷え冷えとした友里の目から逃げるように、俺は視線を足元に向けた。
「あら、特に何か言っていたわけではないわ。でも、板垣くんが図書室前まで足を運ぶなんて、天変地異の前触れのようなことをしているのだもの。それに険しい顔。私に用があったのでしょう?苦手意識を持っていて話しかけたくない私のところまで来るのだから、内容は星凪のことね」
最悪だ。これだからあまり友里とは関りたくないんだ。こう、全部お見通しみたいなことといい、口元は笑っているのに全く目が笑っていないことといい、怖くて仕方がないんだ。
「……あ、ああ。そうだよ」
「それで、私が星凪との仲直りのための秘訣を伝授するとでも?笑わせないでもらえるかしら。貴方のような塵芥に掛ける言葉なんてないわよ」
「こうして今話してんじゃねぇか」
「あら、相変わらず口が悪いわね。それって貴方のデフォルトなのね。そんな口調だから星凪にも嫌われるのよ。大っ嫌い、だったかしら」
「……ああ、そう言われたよ」
なぜかきょとんとした様子をみせた友里は、数度目を瞬かせた後、ねぶるように俺の顔を見て来た。
「ひょっとして、ようやく自分の心との折り合いがついたのかしら?思春期丸出しだったお猿さん?」
「俺は猿じゃねぇよ……」
顔が熱くなるのを自覚しながら、俺はやっとのことでそれだけ絞り出した。やっぱり、周りの奴からすると俺の思いなんて簡単にわかるようなものだったわけだ。
まああれだけ親鳥に鳴く雛みたいに星凪に話しかけていれば俺の想いなんて簡単にわかるかもしれない。
……俺が自覚したのが昨日なのに、友里はもっと前から俺の想いに気づいていたわけだ。気づいていて、何もしなかった。
指摘してくれればいいだろうに――
「あら、私に指摘する筋合いなんてないわよ。第一、星凪を困らせている貴方には、できることなら星凪に関わって欲しくないの。理解していないわけではないでしょう?貴方は星凪に嫌われているの」
「……分かってる。ひどいことを言って、謝りもしなかったからな」
「ふぅん。やっとそっちも自覚したのね。でももう遅いわ。これに懲りて、二度と星凪に近づかないことね」
言い捨てるように告げた友里が、俺の横をすり抜けるようにして歩き去っていこうとする。思わずその背に伸ばした手は、けれど途中で止まった。そこに、揺れる赤い星を見た気がしたから。
「俺は!」
代わりに、張り裂けるほどの声で叫んでいた。
友里が足を止め、怪訝そうに振り向く。その目に宿る感情が、やっと理解できた気がした。
友里は、俺を軽蔑している。嫌っている。親友の星凪を傷つけた相手なんだから、当たり前だ。他人に対して俺にあたりが強いのも、多分それが理由なんだと思う。
でも、他人は他人、俺は俺だ。友里がどう思おうが勝手だ。でも、俺はまだ星凪との仲直りを諦めてない。友里が拒絶しても、俺は星凪と仲直りして見せる。絶対に。
「……俺は、星凪と昔みたいに仲良くなって見せる」
「無理でしょうね」
ひどく冷めた様子の友里は、それだけ告げて歩き去っていった。腹の底から湧き上がる怒りを飲み干して。ただじっと、俺は友里の背中を見送った。
握りしめた拳の中、手のひらに食い込んだ爪が痛かった。
◆
友里に協力してもらえなくて、星凪との仲直りの計画は暗礁に乗り上げた。
ベッドに転がりながら、俺は瞼の裏にこびりついた友里の顔を振り払う。軽蔑、冷笑、無。およそ好意的からほど遠いそれらの表情を向けられるほど、俺は友里に、そして星凪に嫌われている。その事実に胸が痛んだ。
いつまでもめそめそしているわけにはいかない。時が経てば感情は風化するけれど、たぶん時間が過ぎるのを待っていたら、きっと星凪と仲直りすることはできない。時間が経てば、たぶん許してもらうことすらできなくなる。謝罪は意味を持たなくなって、空虚な言葉になってしまう。
俺の言葉に感情は乗らず、俺の言葉は星凪の心に響かない。
そうなったら終わりだ。だから早く、仲直りの方法を探さないといけない。
「……どうすればいいんだよ」
泣き言のようにつぶやきながら、俺はベッドの上で転がる。
じゃり、と砂の擦れるような音がした。その音は、やけに大きく頭に響いた。
瞬間、跳ね起きるようにベッドの上に座り、音の発生源であるポケットをあさった。
クシャリという紙がつぶれる音。そして、入れっぱなしになっていたビーズストラップが顔を覗かせた。形を崩した星はその角の一つが失われていて、破壊された部分からはいくつもの半透明の糸の先端が伸びていた。
これを治す、というのはできる気がしなかった。元の形こそわかるけれど、作り方が分からない。そもそもビーズを触った経験なんてない。一ミリくらいの小さなビーズと、数ミリほどの細長いビーズ。赤と銀からなるその星は、そもそもビーズだって数が足りない。
でも、それは俺に確かな希望を与えた。
星凪は星が好きだ。このストラップもそうだし、ペンケースや手提げ鞄にも星のワッペンや飾りがついていた。つまり、このビーズの代わりになる星のストラップを仲直りの証にあげる必要がある。
そうと決まれば、さっそく動かないといけない。
勉強机へと向かい、その上に置いていたカエルの貯金箱を手に取る。お小遣いを入れておいたそれは重く、持ち上げればジャラリと音がした。後ろの黒いキャップを財布の中にあった十円玉で開けて、中身を取り出す。
全部で二千円くらい。十分足りると思う。
百円玉を詰め込めば財布は膨れ上がった。重いそれを持ち、息をひそめて扉を開く。
父さんの気配はなく、廊下は暗かった。夢姉さんも今日は家にはいない。
「……行ってきます」
靴を履き、小さな声で告げて扉を開く。かすかな開閉音が静まり返った家の中に響く。
不安が広がるも、父さんが気づいた様子はなかった。
財布を手に、暗闇を歩く。もう夜も遅くて、左右に続く道には人影はもちろん、車の一台だって見えはしなかった。
小さなあくびが出た。仲直りに失敗したせいか、精神的な疲れがひどかった。
夜の街を一人で歩く非日常の高揚感が心を満たす。背後から追い抜いていく車の明かりがスポットライトのように照らして、歩道に俺の長い影をつくる。点滅する街灯の周りには蛾をはじめとする小さな虫が集まっていた。
冷えた春の風が吹き抜け、くしゃみが出た。
すぐに星を手に入れないといけないという焦りばかりが先行していたけれど、段々と我に返って来た。別にこんな時間に出歩かなくても良かったんじゃないだろうか。こんな時間だと空いている店なんてほとんどないはず。
百均……はそもそもプレゼントを買いにいくような店じゃない。こう、女子の琴線に刺さるようなお店が夜遅くまで開いているイメージがない。そもそも、そんな店を知らない。
「……どこに行けばいいんだ?」
途方に暮れるばかりだった。立ち止まると自分の足音が消え、静まり返った夜の闇が押し寄せて来るような恐怖に駆られた。もう小学五年生なんだから、暗闇は怖くない。怖くなんてない。
でも、暗闇が俺に言う。仲直りなんて諦めてしまえ。そんなの不可能だと。
「不可能なんて、やってみないとわからないだろ」
本当はできないんじゃないか、そんな心の中の思いに蓋をして、俺は大きな一歩を踏み出した。
自然と、足はコンビニへと向かっていた。
海岸沿いにある、外装がすごく古びた建物だ。 「りがんりゅう」とやらであまり観光客はいないけれど、砂で遊ぶ人影なんかを見かけることがある海岸沿いのコンビニ。時々向かうそこは、この時間にも開いているとわかる数少ない店だった。
等間隔に置かれた電灯に照らされる夜道の先、白い建物が見えて来た。この街で最大の総合病院。真っ白な外装は、細い月の光を浴びて、暗闇の中にぼんやりと浮かび上がっていた。
まるで建物の幽霊みたい、そんな恐怖を飲み込み、歩き出した俺の耳にカツカツという音が聞こえて来た。
思わず、足が止まった。その音は病院の方から響いていた。
体が震えるのを感じながら、病院へと視線を向ける。影が、そこに動いていた。
それを見た瞬間、俺は走り出していた。幽霊、いや、そんなわけがない。そうわかっているのに、足は止まらなかった。だって、背後から追いかけるように足音が聞こえていたから。
俺の足音じゃない、もっとこう、硬質な音だった。
その音から、全力で逃げた。
コンビニの明かりが見えた頃には、もう全身から汗が噴き出して、体は重くて、へろへろだった。店を取り囲むように存在する逆U字の金属の柵みたいなものに体を預けて息を整えた。
振り向いた先、足音はもちろん、人影が見えることはなかった。
コンビニの明かりが、恐怖に震える心を溶かしていった。幽霊か、ストーカーか、耳の錯覚か。もう一度睨んだ先にはやっぱり誰の姿もなかった。
「らっしゃせー」
くたびれた声を聞きながら、俺はコンビニに入る。きょろきょろと見回す視線の先に探すのは星。食品の場所は無視。雑貨の棚を順番に見ていくけれど、星は見つからない。せいぜい、パッケージに星のイラストがあるくらいだ。
元々、コンビニに星のストラップがあるなんて期待はしていなかった。それでも、万が一手に入るなら、というそんな淡い期待があった。
何も、なかった。せいぜい、スマホのイヤホンジャックに差す月の飾りくらいだった。
ブゥゥン、という冷蔵庫の音が頭に響く。横で影が動いた気がして、慌ててそちらの方を見た。
壁一面に並ぶ飲料コーナー。電気代対策か薄暗くなっているガラス張りの扉に、俺の影が映っていた。
「……はぁ」
気が抜けて、ため息を漏らした。走ったせいか、やけに喉が渇いていた。
徒労に終わったけれど、このまま何も買わずにコンビニを出るのはどうかと思って、そのまま棚を見回した。
そして、気づく。お茶のペットボトルの一角、キャップのところにおまけの何かが付いていることに。それが、星に見えた。
しゃがんで、へばりつくようにそれを見た。背後からのいぶかしげな視線は気にならなかった。
コスモキャット……星や彗星?みたいなものを背負った、宇宙服みたいな装備をした猫たち。そのストラップの一つに、星に乗る猫がいた。
青い宇宙服に身を包み、頭だけ出した猫。黄色の星に乗ったその猫は、俺を誘うように大きな口を開けて鳴いていた。
その奇跡に、体が震えた。かじかむように震える手で棚からお茶を取り出して、購入する。貯金を崩す必要もない金額のそれを手に、帰路を急いだ。
潮騒が響く海岸沿いを走った。今度は、高揚感を胸に抱いて。
「……ただいま」
静かに開いたその先は明るくて。玄関口に座った父さんがじっと俺のことを見ていて、口から心臓が飛び出しそうだった。
「危ないからせめてどこに行くか話してから出かけろ」
「……過保護だよ。もう小五なんだからさ」
「それでもあまり夜道を出歩くなよ」
それだけ言って、父さんは背を向けて歩き出して。ぴたりと止まった、少しだけ振り返った。
「……お帰り」
「あ、うん。ただいま」
歩き去っていく父さんの背中を見ながら、夢姉さんの言葉を思い出していた。不器用――ああ、不器用なのかもしれない。心配していたって、そう言えばいいんだ。それなのに、たったそれだけのことが言えない父さんがおかしくて、けれど不思議と心は温かかった。
「……ただいま、父さん」
もう一度、小さな声で呼びかけた。姿の見えない父さんには、多分その声は聞こえてはいなかった。
翌日。昨日と同じように父さんが用意してくれた朝食を口に詰め込んで、急いで家を飛び出した。
早く家を出たって学校に着く時間にはほとんど影響はない。それでも、はやる気持ちがのんきに朝食を摂らせてくれなかった。
学校の門をくぐって分団が解散してすぐ、俺は走り出した。下駄箱で靴を履き替えるその手間がもどかしかった。
階段を駆け上がり、教室に飛び込む。今日も、星凪は俺より早く教室に来ていた。机の上に星の模様が目立つ紺色の布製の筆箱を置き、本を開いて読書に耽っていた。
慌ただしい足音のせいか、読んでいた本から顔を上げた星凪が俺を見て、興味を失ったように視線を落とす。その目には、確かな嫌悪があって。
一瞬ひるんでしまったけれど、心を奮い立たせて星凪のもとへと向かった。
「……星凪、星を壊してごめん。これ、受け取って欲しい」
昨日帰ってから折り紙を折って作った封筒。それを星凪に突き出した。
星凪が受け取ってくれる様子はなくて、俺は顔を上げた。わずかに茶色がかった黒目が、真っすぐ俺を見ていた。その目が、すっと細くなる。そこには、もはや嫌悪すら見えなかった。
無言で、星凪は本に視線を戻す。つられて見た先、豆粒みたいな小さな文字がぎっしりと並んでいた。見覚えのある赤い表紙の本から、星凪は顔を上げない。
無視された怒りは、けれどすぐに罪悪感と寂しさと後悔に変わった。もっと、違う対応をしていれば変わったかもしれない。もっと、星凪のことを考えた発言をしていたら、すぐに仲直りできていたかもしれない。ストラップを壊してしまったところで、「仕方がないからいいよ」なんて、そんな風に許してもらえたかもしれない。
でも、そうはならなかった。全ては、俺の悪口のせい。
家族を馬鹿にするような発言でどれだけ星凪が傷ついたのか、俺には分かる。だって、母親がいないことをからかうように友人に言われた時、俺は怒りのままに殴り掛かったから。そう言えばあの時だけは、普段は厳格な父さんは俺の話を聞いて、怒ることなく頭をぽんぽんと撫でて来た。
ああ、俺はどうして、もっと早く星凪の痛みを理解できなかったんだろうか。今になって、自分で発した言葉が心臓に突き刺さっているような気がした。ずきずきと痛む心臓は、焦りのせい。
手に持っていた包装を開いて、中に入れて置いたストラップを取り出す。
「……なぁ、俺が悪かったよ。大事なストラップ……大事な星だったんだよな。こんなのが代わりになるとは思ってないけどさ、ほら、星を探してきたんだよ」
星という単語を聞く度に星凪の肩がピクリと震えた。それから、おずおずと、確認するようにその目が俺の手元を見て。
「……私の星は、こんなんじゃない」
それだけ告げて、星凪は再び読書に戻った。
星を返す。その方針は、多分間違っていなかった。でも、駄目だった。同じようなビーズのストラップじゃないと駄目だってことだろうか?けれどもしも、あのストラップ自体に思い入れがあったとしたら?例えば、家族からもらった手作りのものだったら?もしそうだったら、仲直りは絶望的かもしれない。
ひとまず星凪の机に置いたストラップは、彼女の手によって払いのけられた。落ちたソレは、ほんの少しの音を立てて床に転がった。
あの日を、思い出した。星から零れ落ちたビーズが、床を跳ねる瞬間。
あの日の失敗を悟っての後悔が、今になって再び膨れ上がって心を覆った。
その日から俺は星を探し回った。
折り紙で作った金や赤の星は、ぐちゃぐちゃに丸めて捨てられた。
ガラス製の星のストラップは、投げ捨てられた。
手芸用品店で見つけたビーズの星のストラップだって、涙目で「こんな星は要らない」と言って投げ返された。
どうしようもなかった。これ以上、星が見つかる気はしなかった。
自室の窓を開いて、空を睨みながら考える。星、星、星のストラップ。
ビーズ手芸の本を図書館で探したけれど、壊れてしまった星と同じストラップの作り方を書いた本はなかった。多分、あれと同じ本じゃないと星凪は許してくれない。そんな気がした。
空を睨む。そこには、街の明かりに遮られながらも、確かに輝く星々が瞬いていた。
「……別に同じ星じゃなくてもいいだろ」
苛立ち混じりに告げたって、星は何も答えない。代わりに、潮風が運ぶ冷気に体が冷えて、くしゃみが出た。
もう一度、憎しみを込めて星を睨んでから、網戸を閉じてベッドに転がった。
シンと静まり返った暗い部屋の中、俺の息遣いだけが聞こえていた。
星、星のストラップ。ビーズの星。赤い星。
星を探して街を彷徨い歩いていた疲労のせいか、重いまぶたが下がり、気づけば眠ってしまっていた。
◆
『星――』
誰かが、星と告げる。また星かよ、もううんざりだ、そんな思いを込めて、俺は耳を閉じようとして気づいた。
ああ、ここは夢だと。
体の感覚がなかった。ただ、水中で音を聞いているように、くぐもった声だけが聞こえていた。
『新月の夜――――星――』
今度は少し違う声が聞こえた。どちらの声も、聴いたことがある気がした。女子の声。だとしたら多分、星凪と友里だと思う。他に星の話をする友人なんか思いつかないから。
いや、星凪たちにとって俺は友人ですらないかもしれない。例えばストーカー。あるいは嫌ないじめっ子だろうか。
ははっ――乾いた笑い声がもれた気がした。その声は、俺の頭の中で空しく響いた。
『怖がりだな、お前』
再び、声がした。俺の声だった。瞬間、何もなかったはずの世界に光が差し、視界が開けた。そこに、真っすぐ俺を見る星凪の姿があった。
友里が何かを言う。俺の口は独りでに動いて、何かを言い返す。
『雷が怖いビビりなくせに!』
星凪の言葉に体が震えた。雷――今は怖くないけれど、昔はすごく怖かった。誰もいない家で雷の音を聞くと、心細くて仕方がなかった。母さんが死んでから、俺は怖がりになった。だから、ビビりという星凪の発言は間違っていない。
恐怖と同時に、感動が背中を走り抜けていた。そこに、俺を真っすぐ見てくれる星凪がいた。
ふと、気づいた。これが、昔の記憶であることに。まだ星凪が俺を無視する前のことだ。
今更こんな夢を見て何になるんだろうか。過去にすがるとか、女々しすぎる。
『ほら、怖いんでしょ』
『な、こ、こわくなんてねぇし!』
両手で耳を塞いでうるさいと叫ぶ星凪の手をつかみ、耳から手を離させようとする。その手の中に在る星凪の手は小さくて、柔らかくて。けれど、過去の俺はそのドキドキをごまかすようにさらに手に力を入れた。
星凪が痛がってるだろ、やめろよ。そう念じても、自分の体は止まらなかった。
友里にやめるように言われて、俺はようやく星凪から手を離した。
涙目で上目遣いに睨む星凪の姿に、心が揺れた。もっと、その目に俺を映してほしい。俺のことを考えていてほしい。他の奴なんてどうでもいいから、俺だけを見ていてほしい。
独占欲があった。
希望があった。
仄かな恋心があった。
それら全てを、気に食わない、なんかむかつく、あいつを見ていると落ち着かない、そんな言葉でしか、俺は言い表せなかった。自分の心が分からなくて、むしゃくしゃしていたんだ。
今だからわかる。俺は、このころからもう星凪のことが好きだったんだって。たしかこの頃は小学一年生の終わりあたりだ。
ランドセルから荷物を取り出し始めた星凪を見て、ふと、そこに違和感を抱いた。
そして、その正体に気づいた。
星凪の真っ赤なランドセル。その横で輝いていた赤い星のストラップは、まだそこにはなかった。
なぁ星凪、お前はいつ、どこで、どうやってあの星を手に入れたんだ――?その疑問は声になることはなく。視界は溶けて、俺は浮遊感に包まれながら闇の中に落ちていった。
◆
目が、覚めた。寒さのせいで体が小さく震えた。
枕元に置いてある時計は、深夜一時を指し示していた。
網戸のままだった窓を閉めようと立ち上がり、ふと、空を見上げた。
隣の家の植木と家の外壁に阻まれた視界の中、黒々とした空に美しい星々が輝いていた。さっきより星がきれいに見えるのは、深夜になって街の明かりが減ったからだろう。後は、月が出ていないのかもしれない。
「……月?」
ふと、何かが引っかかって、俺は網戸を開いて窓の外に身を乗り出した。
見渡す限り、そこには月はなかった。記憶にある月は、数日前、コンビニへ向かう際に見上げた空に輝くやせ細った星。
今日は新月かと、そう思った時、電撃のように先ほどの夢の記憶が、曖昧だった声が頭の中でよみがえった。
『新月の夜に、海にしずんでいる星くず――』
『砂浜がキラキラしてる』
『イルミネーションみたいに――』
友里と星凪の声を聞きながら、俺は気づけば窓を閉め、寝巻のまま部屋を飛び出していた。
着の身着のまま、玄関扉を開いて外に出る。そこには、見渡す限り雲一つない星空が広がっていて。そこに、月は見えなかった。
「……新月」
そうつぶやいた次の瞬間には、俺の足は敷地の外へと向かっていた。わずかな下り坂を、海に向かってひた走る。
新月の夜、海に沈む砂浜にある星屑の話。きらきらと光るそれはイルミネーションのようにきれいだという。そんな話を思い出せばいてもたってもいられなかった。
その星屑をもっていけば星凪と仲直りできるんじゃないだろうか。女子はきれいなものが好きだし、あの星のストラップよりもきれいな星を持っていけば、きっと許してくれるはずだ。間違いない。
期待に胸を膨らませながら、冷たい風が吹く夜の街を走る。
寝静まった街からは人の生活音が消えていた。暗がりの中、見上げる空にはやっぱり月はない。
天に散る星の輝きだけが、ただそこにはあった。
遠く、潮騒が聞こえてきていた。進む先から、柔らかな磯の匂いが香る。もう嗅ぎ慣れた海の匂い。それを感じるほどに浮足立った。
早く、早く仲直りをしたい。
海岸沿いに続く道へと出て、車通りのない車道を横切って海へと向かう。堤防に設けられた階段を駆け下り、砂浜へと降りる。
柔らかな砂を踏みつければ足が軽く沈む。足を取られそうになりながらも、流木を回避しつつ海へと真っすぐ走る。
暗闇に沈む海。けれどそこには確かな光がある。街灯から離れた海は、星の優しい光に照らされて、わずかな白波をみせる。
引いては押し寄せる波の音を聞きながら、俺は砂浜を見回す。
イルミネーションのようなまばゆい光は見当たらなかった。街灯の光をわずかに反射する海はのっぺりとした黒い肌を晒しているばかり。そこには星と見紛うほどの光はない。
「……嘘だ」
おかしい。ここに来れば仲直りのための星があると思ったのに。
でも、心のどこかでわかっていた。海の中に輝く星なんてありはしない。噂は噂でしかなくて、新月の夜に海岸まで来た俺は夢見がちな少年ということだろう。
絶望に膝から力が抜ける。
押し寄せる波より一歩手前、わずかに湿った海岸に膝をついた。
見つめる先、押し寄せる海はひどく不吉なものに見えた。暗闇に沈む、果てのない黒。わずかに見える白波は、まるで海上で生者を誘う亡霊のよう。響く潮騒は人の営みを遠ざける。吹き抜ける風は冷たく、けれどどこか生ぬるい。磯の匂いを多分に含んだ風は塩気を帯びていて、露出している肌がべったりとしていく。
「……帰るか」
ひどく徒労感に包まれながら、立ち上がろうとしたその時。揺れる白波の中に、淡く光るものを見た気がした。
「海に沈む……星?」
星。そう考えた瞬間、体は前へと動いていた。
星。星がある。星凪と仲直りをするための星。
もう一度、昔のような関係になりたい。気やすく名前を呼びあって、たわいもない話をしたい。星凪に自分を見てほしい。星凪の瞳に映りたい。
いいや、昔以上になりたい。友人でも親友でもなく、もっと先、恋人関係に。
靴を脱ぐのも忘れて、冷たい海面に足をつける。途端に靴もズボンもぐっしょりと湿って、不快感が押し寄せる。けれど、そんなものはどうでもよかった。
海の中、闇のように黒い海面の向こうで白い光が揺れる。手を伸ばせば、まるで逃げるように光は手のひらの先から遠ざかる。海の、向こうへと。
「待って!」
手を伸ばす。砂に足が取られる。衣服に海水が染みて重い。気づけば胸元まで海に浸かっていた。
手を伸ばす。その先にある白い光が増える。一つ、また一つと、誘うように、歌うように、星屑の光が増えていく。
誰かが、歌っている気がした。誰かが、呼んでいる気がした。その声を聞きながら、手を伸ばす。光が逃げる。足がつかなくなる。
もっと、もっと先へ。あの光の下へ。
気が付けば、周囲は光に満ちていた。温かみのあるイルミネーションのそれとは少し違う、冷たい氷のような光。やや青みを帯びた白い光の球が、俺を取り囲むように存在していた。手を伸ばす。光は捕まらない。これだけあるのに、光の球はするりするりと手の中から逃げていく。まるで、質量などないように。
その時、振るった腕で飛び散った海水に混じる強く瞬いた光の先に、無機質な人工の光を見た。
気づけば、街灯は遥か遠くにあった。
離岸流――人を海の向こうへと攫って行く潮が、俺を連れて行こうとしていた。
光の海の中、俺は必死に手を動かす。父さんの顔が浮かんだ。不器用な父さん。俺を守ってくれた父さん。夢姉さんの顔が浮かんだ。優しくて面白くて一緒にいると楽しい、実の姉のような人。
そして、瞼の裏に焼き付いて離れない星凪の顔が浮かんだ。冷たいまなざし、怒った顔、困った顔、はるか遠く、笑った幼い顔。
怖い。寒い。嫌だ、死にたくない。
手を伸ばす。青白い光が体にまとわりつく。海がひどく粘ついている気がした。
もがいてももがいても、体が沈んで行く。海水が口に入った。寒い。重い。辛い。苦しい。
顔が海に沈む。まるで、海の底にいる誰かに、引きずりこまれるように。
そこに、誰かがいる――?
何かの存在を感じた。誰かの泣き声が聞こえた気がした。
体が沈む。
海水が耳に入る。
あれだけ聞こえていた潮騒の音が遠ざかる。ごぽごぽという泡の音が世界に満ちる。
海が、俺を飲み込み――
『落ち着きなさい!』
くぐもった声が聞こえた。暗がりの先に、光を見た。海に沈む、わずかな青い光。けれどそれは、先ほどまで見えていた寒々とした青白い光とは違う、温かさに満ちた星形の光だった。
青の星に、手を伸ばす。
暗闇の中、白い手が俺に伸びる。決死の表情をした見知らぬ女の人の姿が見えた気がした。
◆
海に揺れる。
私はいつも、海に揺蕩っている。
見上げれば、空にはまばゆい星々の輝きがある。その先へと、手を伸ばす。青白い、透き通った手のひらは、星をつかむどころか星の光を遮ることさえままならない。
けれど、それでもよかった。だって、私の中には、彼が運んでくれた星があるから。小さな少女と共に、彼が私に届けてくれた、海から掬った小さな星空。傘が運ぶ星。あの輝きがあれば、私はずっと狂わずにいられる。
けれど、それでも、私は望む。もう一度、彼に会いたい。話をしたい。彼の笑った顔を見たい。困った顔を、悲しげな顔を、怒った顔を、見たい。
わかっている。もう二度と、私は彼に会うことは叶わない。
私は今も、海に囚われている。死後の世界に向かうことなく、こうして一人、海を揺蕩う。
彼の気配は、もうこの世界にはない。私が眠る海の横、故郷に帰って来た彼の命の灯は、もう掻き消えてしまっている。
空に向かって伸ばした手を握る。そこにあるだろう、彼の星をつかむために。
どうか、手を伸ばして。私をこの世界から救い出して。
星は答えず、ただ光だけが私に届く。
目を閉じる。
海の音、風の音に耳を澄まし、私は静かに眠りに落ちる。
気配がした。懐かしい気配。知らないけれど知っている、誰かの気配。
まどろみの中、私はその気配の正体を考える。知人ではなかった。私が会ったことのない、けれど知っている誰か。
そんな人が、私が眠る海のたもとに来ていた。
その人物は、星の気配を纏っていた。まるで、空に瞬く星々の光を取り込んだような人。星に愛され、星と共に歩き続けた人。
星――そこまで考えて、はたと気づいた。
彼と共に私に星を送ってくれた少女だと。
幼い少女は月日の流れの中で成長し、美しい女性になっていた。その女性は、夫らしき人物と、小さな少女と肩を並べ、静かに海を見ていた。
彼が死んでから、もうどれだけの時間が過ぎたのだろうか。私はまだ、ここに一人。
私はただ、その少女に残る彼の残り香に手を伸ばす。
お願い、私に手を伸ばして。私を、この孤独の海から救い出して。
けれど、幸せの中にある彼女は気づかない。
輪廻から外れた私は、ただ彼女を見ていることしかできなかった。
まどろみの中、私は今日も海面に揺蕩いながら空を見上げる。月のない、美しい星空がそこにあった。
川のように、海のように光がちりばめられた空を見ながら、私はやっぱり、その光へと手を伸ばす。
かつて、私に星を届けてくれた少女のように。
ふと、海がいなないた。もう言葉も通じなくなっている、私と同じ海に飲まれた者たちが歓声をあげていた。
青白い人魂が瞬き、海の中を進んでいく。
集まっていく亡霊たちの先、海岸近くで一人の少年が人魂に向かって手を伸ばす。死者のいざないに誘われるように、少年は海へと進んでいく。
瞬間、風化しかかっていた私の記憶が刺激され、しびれるように脳に電光が迸った。
海に溺れる子どもに、手を伸ばす。その子を離岸流の流れから押し出し、けれどそこで、私は急激に体が重くなり、海に沈んだ。
お腹に手を当てる。そこには、生まれることも叶わなかった我が子が眠っている。
使命感があった。溺れる子どもを助けなければならないという、存在理由を思い出した。
けれど亡霊となった今の私には、少年を助けることはできない。
新たな同士たちを歓迎する亡霊たちから少年を救うことはできない。
いつだって、生者を救うのは生者だけ。死者は生者を救えない。
あきらめと共に、私は再び空を見上げて。ふと、その中に一つ、強く瞬く星の存在を感じた。
瞬間、何かがつながった気がした。星の海に続く、道がそこにあった。
その道をたどって、私は海から飛び出した。長く、牢獄のように私を捕えていた海が、私の魂を介抱する。
進む先に、あの少女の気配があった。今はもう少女なんて呼べない、星に愛された女性。
その女性の前に躍り出て、少年の方へと彼女をいざなう。
亡霊姿の私に動揺したのは一瞬、彼女は決死の顔でうなずき、私の誘導に従って海へと飛び込んだ。
力強い動きで海面をかき分けて、彼女は少年の下へと進む。その姿に、かつての私の姿が重なる。
あの子は、今も無事にこの世界に生きているだろうか。私が救った、幼い子ども。
亡霊たちが、海を進む女性に気づき、逃げるようにそこから距離を取る。亡霊、あるいは怨霊に至った彼らにとって、星の祝福を受けたその女性は天敵に等しい存在だったから。
亡霊をかきわけ、女性が叫ぶ。海に沈む少年へと、手を伸ばす。
沈む少年の体を持ち上げ、背後から少年をだきしめる。落ち着きなさいと、何度も呼びかけながら、女性は弧を描くようにして海を泳ぎ、岸に向かって進んでいく。
二人はもうきっと大丈夫だ。
海から子どもを守る。そんな覚悟で、私は溺れている子を救うために海に飛び込んだ。
子どもを救い、けれど私は溺れてしまった。そしてその思いの強さゆえに、私は海に囚われた。
けれど、そんな日々ももう終わり。
星に愛された彼女が紡いだ道へと、私は向かう。
星の光の筋を辿るごとに、彼の気配が強くなる。
私が愛した彼が、その先にいる。
直感は確信へと至り、私は彼のもとへと飛び込んだ。
「ただいま」
「おかえり」
光の中にいる彼の存在を確かめるように、私は強く彼を掻き抱いた。
◆
「げほ、ごほっ」
座り込み、咳き込む。喉が焼けるように熱かった。頭は重く、体は怠く、冷え切ったせいか死を前にした恐怖か、体が小さく震えていた。
えぐるように砂を握る。大地の感覚がそこにあった。
「……二度と夜に海に入っちゃ駄目よ」
俺を助けてくれた女の人が、冷たい声で告げる。顔を上げた先、長い黒髪を絞るスーツ姿の女の人がいた。既視感があった。知っている人な気がした。いや、どこかで見たことがあるだけだろうか。
その既視感の訳をさぐろうとして、けれど慌てて目をそらした。着の身着のままで海に入ったからか、衣服はぐっしょりと濡れて体に張り付き、肩から下げた鞄からも水滴が滴っていた。
落ちる雫が砂浜を濡らし、浜の一部が水で黒ずんでまるで影のように浮かび上がっていた。
「ごめ、んなさい」
こみ上げて来た死の恐怖に体を掻き抱きながら、なんとかそれだけ吐き出した。
大きなため息が聞こえた。次いで、髪を掻き上げたその日とは何かをぶつぶつとつぶやく。
「まったく。最近どうにも夜に海に行こうとする子どもが多いのよね。危機感が足りないのよ」
海を睨む女の人の瞳が、何かを探すように揺れる。その視線の先を追うも、そこにはただのっぺりとした暗い海面を晒す海があるばかり。わずかな白波を立たせる海には、先ほどまで満天の星空のように溢れていたあの白い光の球は見えなかった。
その黒い海面がまた俺を呼んでいるような気がして、体が震えた。視線を逸らすように顔を上げる。暗い海とは違って、空には優しげな星の光がちりばめられていた。
水没したスマホを見てため息を吐いていた女の人が、壊れたそれを鞄にしまう。
ちゃり、と何かが擦れる音がした。視界の端で揺れた青いそれに、視線が吸い寄せられた。
「……青い、星?」
「え?……ああ、これね」
女の人の鞄に揺れるのは、海岸沿いに設置された街灯の光を反射する、青い星のストラップだった。それも、見間違いでなければビーズの星。しかも、記憶の中にあるそれとよく似ていた。壊してしまった星凪の星と。
「あ、あの!」
ひどく裏返った声が出た。既に、身に巣食っていた恐怖はどこかに消えていた。高揚感の中、つい先ほど見た景色を思い出した。
海に沈む中、暗い海中でわずかに青くきらめいていた星のこと。あれはきっと、このストラップだったのだと思う。
新月の夜、そうして僕は確かに海に沈む星に出会ったのだ。
これはたぶん、運命なんじゃないかと思った。僕と星凪が仲直りするために、神様か誰かがこの人をここに連れて来てくれたんじゃないかと思った。ビーズの星のストラップを持った、この女の人を。
目が合った女の人は、何かを探るように、あるいはいぶかしむように俺の顔を見ていた。眉間にしわを寄せたその顔には、かなりの疲れが見えた。ひょっとして、仕事帰りとかだろうか。
「その星、どこで買いましたか!?どうやったら手に入りますか!?」
「え……これなら手作りよ」
困惑した様子の女の人をよそに、俺は内心で頭を抱えた。手作り……つまり、仲直りをしたければ俺もストラップを作れということだろうか。
ええい、せっかく希望が見えたんだ。ここで怯んでどうする。
「あの、その作り方を教えてください!」
勢いよく頭を下げたせいで、体が酷く揺れた。地面に広がる水で湿った黒い砂と海の音を聞きながら、俺はじっと返事を待った。
やがて、ため息のような吐息と共に、女の人が口を開いた。
「いいわ。教本があるからそれを上げる」
「あ、ありがとうございます!」
これで星凪と仲直りできる。暗雲立ち込める先に見えた一条の光に、心は昂るばかりだった。
「……けれどまず、帰りましょうか。あなた、家はどこかしら?」
ひどく冷たい声が聞こえて、俺は我に返った。夜に海に飛び込むなんて危険を冒したことにようやく思考が追いついた。父さんの鉄拳を予感した。夢姉さんの呆れたため息が聞こえた気がした。何より、冷え冷えとした女の人の視線が、痛いほどに肌に突き刺さっていた。
「……こっちです」
海水に濡れた体を引きずるようにして、俺は自宅へと歩き出した。道中、必死に言い訳を考えながら、無言の時を過ごして。
◆
俺が家を出て行ったことに気づいていた父さんは、コンビニに向かったのかと俺を追ってきていた。再会してすぐ、父さんはこれまで見たことがないような顔をした。その胸の中に俺を強く抱いた。痛いほどに。
もう決して離さない――そんな強い意志を感じた。
父さんが泣いているところを、俺は初めて見た。頬を伝う涙に気づいたからか、父さんは少しばかり恥ずかしそうに顔を歪め、それから俺の頭に拳を落とした。痛かったけれど、嫌ではなかった。
それから、女の人は軽く状況を説明し、父さんから何度もお礼を言われながら去っていった。
その翌日、改めて家に来たその人から、俺はビーズづくりの本を手に入れた。そしてそこに、あの星を見た。角の一つが欠けてしまったビーズの星と、それは瓜二つどころか、全く同じもののように思えた。
願いが叶う星――青い星の絵と共に、そのビーズの作品はそう紹介されていた。
それから、悪戦苦闘の日々が始まった。
手芸なんてしたことがなかったし、ましてやビーズそのものなんて触ったこともなかった。それでも本を読みながら、買って来たビーズを手に取った。
広げた両手ほどの長さのテグスにビーズを通し、四つ目でクロスさせて形を作る。長いビーズを通し、小さいビーズを通し、クロスし、と形を作っていく。
こんがらがりながら作る俺を見て、夢姉さんは何かに気づいたようにぽんと手を打って、それからにやにやと嫌な笑みを浮かべた。
どこかからかいめいた質問を無視しながら、俺は必死に手を動かした。
慣れないことに頭が熱を帯び、ひどく疲れた。けれどそれでも、体は止まらなかったし、やめる気にもならなかった。
死にそうな思いをしてたどり着いた仲直りのための星。それを捨てることなんてできるはずがなかった。
これを手渡した時、星凪はどういう顔をするだろうか。無事に仲直りできるだろうか。いや、きっとできるはずだ。
希望を胸に俺は星を紡いだ。願いが叶う星を。
そんな俺を、父さんが眩しい物を見るように目を細めて見ていた。その視線はひどく居心地が悪くて、けれど不思議と温かさを感じた。
記憶の中にいる母さんは、こうして色々と小物を作るような人だったのだろうか。いや、多分違う気がする。こう、なんていうか、もっと活発で元気な人だった気がする。
好奇心のままに、俺は父さんに母さんのことをたずねた。
真帆母さん。父さんが愛した人のこと。
恥ずかしそうに、懐かしそうに、父さんは母さんとの思い出をぽつりぽつりと語った。
そこには悲しみがあり、苦悩があり、けれど確かに幸福があった。
いつか俺も二人みたいに、星凪と日々を歩んでいけるだろうか。
◆
出来上がったストラップを包装し、ポケットに入れる。
逸る気持ちのまま、まだ分団の集合時間には早かったけれど家を飛び出した。
学校に近づくほどに、心臓がバクバクと鼓動を刻んだ。
星凪に会いたい。謝って、今度こそ仲直りをするんだ。
その存在を確かめるように、手でポケットに触れる。
願いが叶う星。それが、ビーズが擦れる音によって確かな存在を伝えて来た。
気づけば吹き抜ける風には熱がこもっていて、照り付ける太陽にも夏の暑さを感じた。
じめっとした日本海の夏の到来を予感させる気温の中、俺はただ星凪のことだけを考えていた。
教室に入れば、今日も星凪は俺より先に来て、机に座って何かの小説を読んでいた。
日に焼けた赤い表紙の分厚い本のページがめくられる。
開かれた窓から風が吹き込み、カーテンが大きく揺れる。顔にかかった髪を掻き上げ、耳に掛ける星凪がふと顔を上げる。
目が合った。
その目はけれど、俺を映しているように思えなかった。
瞳から色が消え、再びその視線が本に落ちる。
絶望が心に芽を出す。けれど今日の俺には希望があった。ポケットに入れて置いた星の存在を確かめながら、一歩、強く前に踏み出す。
「星凪。星を壊して悪かった。これ、受け取ってくれないか」
差し出したそれは、けれど俺の手から離れていくことはなかった。クラスメイトから、突き刺さる視線を感じた。
ぺらり、とページをめくる音がする。視線の先、星凪の足が組み替えられる。
ゆっくりと顔を上げれば、星凪は俺のことを見てすらいなかった。本を置くこともなく、ただ物語に集中していた。
「俺が悪かった。ひどいことをたくさん言ったし、無駄にちょっかいも掛けた。そのうえお前の星も壊した。……本当にごめん」
もう一度、頭を下げる。すぐに星を見せれば、仲直りできると思った。けれど、それだけだと駄目だと思った。俺はただ仲直りがしたいんじゃない。仲直りをして、さらに星凪との関係を良くしたいんだ。友人より先に進めるように。
過去の全てが清算できるなんて思ってない。けれどそれでも、誠意を示さないといけない。あるいは、覚悟を見せないといけない。
なぜだか、父さんのことを思い出した。俺を不幸にしないために、母さんの葬式で涙をこらえていたという父さんのこと。悲しみにくれて俺を孤独にしないようにという、覚悟を。そんな、父さんみたいにありたいと、そう思いながら。
俺は頭を下げながら、両手に持った紙袋を星凪に突き出し続けた。
手に、小さな衝撃を感じた。手を叩かれ、その中にあったビーズが床に落ちる。
涙がにじんだ。やっぱり、謝ることもできやしない。もう、星凪との関係がよくなることなんてないんだ。
失望と絶望が足の裏から這い上がる。海に沈み、死を実感したあの瞬間を思い出した。
けれどここには、俺を救ってくれたあの人はいない。あの人が運んで来た、あの青い星はない。
気づけば、足は教室の出口へと向かっていた。
せめて涙は見せるもんかと、うつむきながら教室を飛び出す。
出口で誰かとぶつかりかけた気がしたけれど、それどころじゃなかった。
視界がにじむ。涙が落ちる。
張り裂けそうなほどに心が痛かった。
◆
「……またやっていたの?鷹も懲りないわね」
肩がぶつかった鷹に文句を言おうとして、けれどため息をつきながら友里は教室に入る。走り去っていく鷹の顔は見えなかったけれど、多分ふてくされていただろうとあたりをつけて。
隣のクラスの教室に入れば、今日も星凪は一人机に座って、じっと本を読んでいた。けれどどこか集中できていない。速読家である星凪だが、友里が見ている間に一ページも読み進めることができずにいた。
そのことが気になって友里は観察を続ける。ちらり、と星凪は床を見て、再び本に視線を戻し、それを繰り返す。
「おはよう、星凪」
声を掛ければ、星凪はビクリと肩を跳ねさせる。どこか迷子になって途方にくれたような目をしていた。
「どうしたの?」
「あ、えっと……」
「ひょっとして、また鷹が何かやったのね?」
友里が断定すれば、星凪はへにょんと眉尻を下げてうつむく。星凪の視線を追えば、床にしわの寄った紙の包みが落ちている。
「あら、星凪のかしら?」
「ううん……鷹のだよ」
鷹――名前を呼ぶことさえ嫌だと言いたげに顔をしかめる星凪だが、その口調にはどうにも覇気がない。やれやれ、と思いながら友里は星凪をぎゅっと抱きしめる。その内心では鷹への罵詈雑言が荒れ狂い、同時に星凪を私が守らなければ、という強い使命感が溢れていた。
強く抱きしめられた星凪は、やっぱり途方に暮れた様子で動きを止めていた。その視線は絶えず友里と床に落ちた包みとの間で揺れる。
「……わかっているわ。星凪は心優しい子だもの。無視をすることだって辛いのでしょう?」
「……でも、鷹は意地悪だから」
「そうね。何度も謝られて、許してあげない自分がひどく悪い人のように思えたのでしょう?けれど、悪いのは鷹よ。人の家族のことを馬鹿にして、そのことを気に留めることもないのだから」
「……そう、かな」
ああもう、と友里は心の中に蟠る思いを吐息に乗せて吐き出す。びくり、と肩を震わせた星凪の頭を優しく撫でて腕を離す。
大切な親友のため。星凪のためならば自分は何だってできると友里は考える。鷹から星凪を守ることも。星凪の本当の思いを、くみ取ることも――たとえそれが、生理的に拒絶したいことであっても。
「……私のことは気にしないで拾ってあげたら?」
自分に向けられる眼差しに縋るような光があるのを感じながら、友里は困ったように苦笑を浮かべて告げる。
優しい星凪は、誰かを嫌い続けるなんてできない。謝罪を続ける鷹にほだされることなどわかっていた。星凪にひどいことを言った鷹を、友里はまだ許していない。けれどそんな自分のわがままで星凪を苦しめるつもりもなかった。
(私は鷹とは違うもの。大丈夫、星凪にとっての一番が私であることには変わりないもの)
親友を取られるかもしれない――そんなわずかな不安を心の中で笑い飛ばして、友里は星凪を見守る。
床に落ちていた包みを拾い上げた星凪が、慎重な手つきでシールを剥がして中身を取り出す。手のひらに転がり出たそれは、赤い星。金色の差し色が入ったそれは、友里の見間違いでなければ星凪が失った星と同一のものだった。
「……なんで、これが」
呆然としたつぶやきが星凪の口から洩れる。困惑と、それから縋るような目が友里に向けられる。
はぁ、と友里は心の中でため息を漏らし、ついでに鷹に罵声を浴びせる。けれどそんな内心はおくびにも出さずに、友里は聖母のような慈しみ溢れる顔で星凪を見つめる。
「……行ってらっしゃい」
その言葉が引き金となって、星凪は教室を飛び出す。
その手には、赤い星が握られていた。
◆
まどろみを切り裂くように鳴り響く目覚まし時計に手の平を叩きつける。布団の温もりに包まれたままでいたかったけれど、今日の予定を思い出せばすぐに目は覚めた。
起き上がってカーテンを開けば、柔らかな春の日差しが降り注いでいた。窓を開けば、温かな春の風が吹き込んでくる。昨日とは打って変わって、今日は門出にふさわしい、とても温かな一日になりそうだった。
「星凪ー?」
「起きてるよ!」
階下から聞こえて来たお母さんの声に叫び返してから、私は吹き込む温かな空気を肺一杯に吸い込む。
部屋から出て洗面所で顔を洗い、ダイニングに向かう。テーブルにはすでに朝食の用意ができていて、きつね色に焼かれたトーストと野菜のサラダ、湯気を立てるコーンスープが置かれていた。対面の席には、コーヒーを飲むお父さんの姿があった。両手で握りこむようにカップを持つ姿は可愛らしい。
ふぅふぅと息を引きかけるお父さんは、ゆっくりとカップに口をつける。目が見えないお父さんだけれど、その振る舞いはゆっくりでこそあれど違和感はない。もう慣れたよ、となんてことないように言うけれど、きっとそれまでにたくさんの苦労があったと思う。
最近、少しだけそういう、言葉の裏にある思いが分かるようになってきた気がする。
これが大人になるということだろうか。なんて、そんなことを今考えてしまうのは、少しばかりセンチメンタルになっているからだ。
今日は小学校の卒業式。もう六年も通った学校ととうとうお別れになる。それに、小学校を卒業してしまうと私立中学校に通うことになった友里ちゃんとも離れ離れになってしまう。
少しだけ鼻がツンとして、けれど今から泣いていたら始まらないと、私は慌てて頭を振って思考を追い払った。
「おはよう」
「おはよう、星凪」
「おはよう。早く食べてしまってね。わたしは陸音を起こしてくるわ」
お父さんとお母さんと朝の挨拶をしてから、すぐに席に座って手を合わせる。寝坊というわけではないけれど、早く食事を済ますにこしたことはない。
「いただきます」
「どうぞー」
台所にいたお母さんがせわしなく部屋から出ていく音を聞きながら、私は食パンにジャムを塗って食べ始める。今日のジャムはお母さんの手作りの金柑ジャムだ。お母さんがお母さんのおばあちゃんから教わったレシピで、少し金柑の苦みがあるけれど、それが癖になるらしい。大人な味で、私はまだその苦みが美味しいとは思えない。
さわやかな金柑の風味を感じながら、ほのかに甘いパンを食べ進める。途中でシャキシャキとしたレタスやトマトをつまみ、コーンスープを飲む。流石にスープはインスタントだ。
ほう、と息を吐いた時、開かれた扉から寝ぼけ眼をこする陸音が入って来る。まだ四歳の陸音は朝が弱い。あ、私の方が弱いかもしれない。
「……きょうはなにかあるのー?」
「お姉ちゃんの卒業式があるのよ。陸音は普通に保育園に行くわよ」
間延びした口調の陸音が目を瞬かせ、「そつぎょうしき?」とやや舌足らずな口調でおうむ返ししながら首を傾げる。
「小学校最後の日だよ」
「さいご?おねーちゃん、もうがっこうにいかないの?ずっとおやすみ?」
「小学校を卒業したら、次は中学校に通うんだよ」
よくわからない、と言った顔をしている陸音だけれど、話しているうちに目が覚めて来たのか、すぐに朝食に集中し始めた。そんな陸音の頭を撫でてから、私は食べた食器を積み重ね、それを台所に運ぶ。
「ごちそうさま!」
「お粗末様。早く準備しちゃいなさないね」
お母さんの声を聞きながら、私は自室に向かう。友里ちゃんと一緒に悩んだけれど、結局今日は着物ではなくスーツを着ることにした。着付けのために朝早くから起きるのは辛いから仕方ない。おしゃれより睡眠が勝つのね、と友里ちゃんにはおかしそうに笑われてしまった。
紺色のスーツに袖を通しながら、脳裏をよぎるのは小学校での思い出だ。流石に六年も通うと、一年生の頃の記憶はかなりあいまいだ。それでも友里ちゃんと過ごした楽しい思い出はたくさんあって、それを思うだけで中学では友里ちゃんがいないという事実に不安でたまらなくなる。さびしくて、心配で、涙が出そうだった。
軽く頬を叩いて気を引き締める。鏡に映った先には、ひどく大人びた自分がいた。お母さんのおさがりの服に身を包んだ私に死角はない。
「よし!」
もう一度、今度は気合を入れるために頬を軽く叩いて、持っていくものの最終確認をする。昨日のうちに学校に置いてあったものはほとんど持って帰ってきているから、大きな鞄は必要ない。だからランドセルじゃなくてお気に入りの手提げ鞄を持っていけばいい。
星のワッペンが縫い付けられた、お母さんの手作りの手提げ。チョコレート色にピンクや黄色の星がつけられたそれを持ち、ふと、ランドセルへと視線がいった。
昨日で役目を終えた赤いランドセル。くたびれて少し形がゆがんでいるそれの横に、朝日を浴びてきらりと光るストラップがつけたままだった。
願いが叶う星のストラップ。赤いそれを手に取って、少しだけ悩んでからランドセルから手提げ鞄に付け替える。
なんとなく、このストラップを置いていく気にはなれなかった。
これは、私が作った星じゃない。家族みんなでいつまでも一緒にいられますようにと願った星ではない。
それは、仲直りの星。大事な友人との繋がりを示す星。
「……友里ちゃんともお揃いにすればよかったかな?」
手提げかばんで揺れるそれを見ながらつぶやいて、けれど少しだけもやっとした。
私にとって、この星は家族との絆の証なのだ。星が好きなお母さんのために作ろうと決心して、弟の陸音が無事に生まれますようにという願掛けを込めて作った。そうして、陸音とお父さんのためにも作った、お揃いの星。一度壊れてしまっても、そこに込められていた在り方まで変わったわけじゃない。
「……家族の、証?」
なぜだか今、とんでもないことを考えてしまった気がして、私は首をひねる。この星のストラップは家族の証。星を持っている私たち四人と、それから、この星を作り直してくれた――
顔がひどく熱を帯びた。頭に浮かんだ思考を振り払うように、頭上を手でぱたぱたと払う。
「落ち着け、私。え、でもまって。ここで鷹の顔が浮かぶって……」
いつものように、友人の名前を口にしただけ。けれどそれだけで、くすぐられたような痒さと暴れ出したくなるような衝動が私の体に広がった。心が弾み、心臓は高鳴る。
心を落ち着けようと目を閉じ、胸に手を当てて深呼吸を繰り返しても、瞼にこびりついた彼の顔が消えてくれない。
「え、あれ……」
衝動は次第に困惑に変わり、頭がいっぱいになって。
「星凪、時間はいいの?」
「もう出る!」
階下から響いてきたお母さんの声で我に返って、私は慌てて鏡を見て最後の確認をする。
「おかしく……ないよね?」
いつもより慎重に身だしなみを確認してから、私はもう一度部屋を見回し、意識を切り変える。
「よし!」
扉を開けば、開けっ放しだった窓から温かな春の風が吹き込み、廊下へと流れて行く。
今日のために磨いたローファーを履き、外に飛び出す。
「行ってきます!」
家族の挨拶を背中で聞きながら、私は陽光降り注ぐ春の世界に足を踏み出す。少し遅めに開花した蝋梅が庭の端でゆらゆらと揺れていた。小さな黄色い花からは仄かに甘い匂いが漂っていた。
不安もある。寂しさもある。きっと学校に行くほどに卒業の実感が大きくなって、卒業式が終わるころには多分泣いてしまっていると思う。
友里ちゃんがいない学校生活なんて想像もできないけれど、私は一人じゃないから大丈夫だ。
顔を上げる。広がる青空には雲一つなくて。そこには、半分ほど欠けた月と、目に見えないけれど確かな星がある。
歩く拍子に擦れたビーズのストラップが小さな音を立てる。
星に見守られながら、私は旅立ちへと続く大きな一歩を踏み出した。