スローカーブのあと直球
「なぁ木崎、おっぱいと野球って似てると思わないか?」
それは同じ学生寮に住む、馬鹿な友人の一言から始まった。
「なに言ってるんだ、お前?」
夏休みも半分を過ぎたお盆の頃合いで、ゼミに所属するみんなで夏祭りに行こう、なんて大学生らしい提案に乗ってはみたものの、待ち合わせまで時間があった。
そこで暇を持て余した同ゼミの隣人が、俺の部屋にノック一つで入り込んで来て『おっぱい=野球』などと訳の分からないことを問いかけてきたのだ。
「最近ちょっと考えてたんだ。グラビアアイドルのバストサイズって、プロ野球の投手と似てるんじゃないかって」
日差しは容赦ない熱を帯びて、窓の外ではまだ色づかない鬼灯が実り始めていた。寮の入口に吊るされた風鈴の音が、ほんの少しだけ蝉の声に混じっている。
この田代という男はかなりの野球好きで、同じくらいにグラビアアイドルが好きだった。人には食欲・睡眠欲・性欲という三大欲求があるが、野球欲が膨張した挙句に性欲と同一化を果たしたのかも知れない。
この暑さでヤツの頭がヤラれたのか、或いは元々おかしかったのか。恐らくは両方なんだろう。
「そうか、詳しく聞かせろ」
「相分かった」
勢いよく返事をしてから、田代はペンを走らせた。
◇
「なんだこれは?」
「P=π×(1.71-(0.005×(π-80)))だ」
「だから何なんだよ」
「Pはピッチャーの球速をキロメートルで表したもの。πはそのままおっぱいのサイズだ」
「それで?」
「このπに、木崎が思うバストサイズを当てはてみめよう」
語る内容は何一つ理解できないが、言葉の意味は辛うじてキャッチできた。グラビアアイドルのバスト……例えば85cmとか?
「そうだな、85という数字をπに代入しよう」
言って、田代は書き記す。
「計算すると、バスト85は球速143.2kmに相当する。プロ野球の平均球速が143.6kmだから、かなり近い数字だ」
「おいおい、どういう意味だよ」
「つまり、グラビアアイドルのバスト85は、平均的なプロの投手と遜色ないということだ」
「お、おお……?」
田代がどれだけの時間を掛けてこの数式に辿り着いたかは分からない。分からないが、凄まじい情熱だけは理解できた。
ならば俺も情熱をもって答えるのが流儀だ。反証や検証を経ないことには、この数式はただの紛い物で終わるだろう。
「たまたま近い数値が出ただけかも知れない。他の数字はどうなんだ?」
「いいだろう、言ってみてくれ」
「じゃあ極端な数字だ。バスト100とかだな」
「実はもう計算済みなんだ。数式に当てはめると……ほら、夢の160kmピッチャーの登場だ」
「なんだと!?」
野球の世界において時速160kmの速球は夢の世界だ。もはや一種の人外であり、そうそうお目に掛かれないスターの領域と言える。
「じゃ、じゃあ田代! 逆はどうなんだ!?」
「逆?」
「あぁ。ピッチャーの球速を当てはめるんだ。例えばショウヘイ・オオタニとかだな」
「……バスト101。すげぇヤツは化け物だ」
「なんてこった。ショウヘイはやっぱり日本に収まる器じゃなかったんだ!」
田代の開発した数式は完璧に思えた。
新しい世界の真理を垣間見た俺たちは、時間が過ぎるのに気が付かないほど、この数式の魔力に取り込まれていった。
「……ちょっと気になったんだけどさ」
「どうした?」
「同じゼミの子とか、どうなんだろう?」
今にして思えばゲスい発想だとは思う。これから一緒に夏祭りへ行く女子のバストサイズを語るなんて。
けれど、この時の俺たちは止まらなかった。初めて三角定規を手にした子供のように、片っ端から測らずにはいられなかったんだ。
「例えば?」
「清水とかはどうだ!」
「彼女は見るからに凄いもんな。150kmは軽く投げつけそうだ」
「あれはプロでも通用する逸材だ」
「間違いない」
「じゃあ星野とか……いや、アイツはダメか」
同じゼミに所属する、背の小さいショートヘアな同級生を思い浮かべたがイヤハヤ残念。とてもプロ野球で通用するとは思えない。それ以前に女性とさえ思えないボーイッシュさだ。
少年のような容姿、それに言動。小さい頃から空手を習っていたらしく、腕っぷしはその辺の男より強いもはや男の娘。
「まぁ、正確な数字が分からないけれど」
「75もあればいい方じゃねえ?」
「……130km。あれだね、昔のオリックスにいた星野伸之投手みたいだ」
「めっちゃボールの遅いピッチャーだっけ。よくプロに入れたよな」
「それどころかエース投手だったし……いや、ちょっと待ってくれ」
「ん?」
あごに手を当てながら、田代はブツブツと思考を巡らせた。
「そうか、この数式はあくまで数値の換算でしかない。他に勘案できる要素があるんじゃないか」
「どういうことだ?」
「木崎、例えばだ。時速160kmでも打たれるピッチャーはいるし、星野投手みたいに130kmでエースを張れる人がいる。つまり数値の換算だけじゃ、バストと速球は正確に比較できないんじゃ……!?」
田代はガクッと膝から崩れ落ちた。
それはさながら、渾身の直球をスタンドに運ばれた投手のように。
いや待てよ?
確かに今の数式では不十分なのだろう。けれど野球にはまだ大事な要素があったハズ……いや、まさかそんな、あ、でもわかったかも。
「……なぁ田代、カップとちゃうか?」
「カップ?」
「あぁそうだ。例えバストが100であっても、Aカップならそれはただのデブだ。だがFカップのバスト80であれば……」
田代の目が光りを取り戻した。
「それだ、それだよ木崎!!」
「これで行けるんじゃないか!?」
「イケる、イケるよこれは。バストカップがそのままボールのキレに該当するんだ!!」
「そうかキレだ、それだよ田代!」
「星野投手は確かにバスト75だ。けれどキレがあるから――カップが凄いからエースをやっていたんだ!!」
「うおおおっ田代! やったぞ、俺たちは真理を掴んだぞ!!」
「なに騒いでんの? あんたたち……」
不意に声を掛けて来たのは、夏祭りに行く約束をしていた同ゼミの二人だった。
「え、清水と……ほし、の??」
「なに呆けてるのよ。もう約束の時間でしょ」
呆けている、というのは確かだと思う。
二人揃った浴衣姿に、思わず言葉を失ってしまったのだ。いや、清水はまだ分かる。それよりも星野だ。
…………オマエ、いつもと違うくねぇ?
「うっふふ~、さては私達の浴衣に見とれてるなぁ?」
「な、清水、ちっげえよ。そんなんじゃねえよ」
「もう、由利も変なこと言わないの。ほら、早く行かないと祭りが始まるでしょ」
濃紺の生地に赤い鬼灯をあしらった浴衣。短い髪に結われた控え目な簪。何より、薄黄地の帯の上にふわりと実る、女性らしいふんわりとした膨らみ。
「そういえばさっき、数式がどうとか言ってたけど、二人で勉強でもしてたの?」
「いいいいいや星野なんでもな」
「そうなんだ、新しい数式を検証しててさ。星野さんなら130くらいかなって」
「あ、田代バカかおまえ!!」
「130? どういうこと?」
「いや違うんだそうじゃな」
「星野さんのバストをピッチャーの球速に見立てたら、ちょうど130kmくらいかなって。ほら、プロには到底なれないけれど、キレがあれば何とか……」
刹那、星野の瞳が空手家へと変貌を遂げた。
女性のバストをプロ野球に照らし合わせる。それも身近な同級生を対象に。それは確かに品性がなく、罰を受けるのは致し方ないのかも知れない。
こう、具体的には、比喩ではなく友人が吹っ飛んだ。と思ったらあっ水月がとても痛い。倒れた友人を心配する間もなく自分は崩れ落ちた。立て続けに顔面が痛んで意識が飛んだ。
◇
スイカ割りされたが如き顔面を下げ、氷で各部位を冷やしながら、俺たちは神社へと歩いて向かった。
前方では清水と星野がキャッキャと騒いでいる。リンゴ飴に金魚すくい、その他諸々の屋台遊び。理不尽な理由により、その支払いは全て俺と田代の二人で持つことになった。
「なぁ、たひろ」
「どうしはんだい?」
「俺、緩急に弱いのかも」
「緩急?」
かつて130kmという超低速なボールでありながら、球界を代表する選手となった星野投手。彼には球速を補う武器……『キレ』そして『緩急』があった。
超スローカーブを織り交ぜた投球術。彼の放つ遅いストレートは、打者にとって150kmものスピードに感じられたのだという。
「だから、あの浴衣……反則だなって」
「なるほど、そういうことか」
「なぁ、お前はどうなんだよ」
「ん?」
「緩急っていうか、その、なんていうか……」
「僕はやっぱり剛速球が好きかなぁ。夢の160km、追いかけたいじゃん」
「……そっか」
「ちょっと、木崎と田代! もうすぐ花火始まるよ!!」
男同士のコソコソ話を遮るように、星野が声を掛けてきた。
あぁ悪い、なんて言いながら追いかけると、その頭上に大輪が広がる。
ドン、ドドンと身体に響く音色。
明滅する夜空のうろこ雲が、夏の終わりを告げるように輝いていた。