70:膝に乗る芋くさ夫人
砦のメンバーでガヤガヤと賑わう宿の食堂、その一角にあるテーブルでナゼル様は私を待っていた。
「ナゼル様、お待たせしました! リリアンヌ様のお話を聞けましたよ。彼女は今、部屋で休んでいます。ケリー曰く、私たちに害意は全く抱いていないとのことです」
「アニエス、大丈夫だよ。俺も他の仕事に追われていたんだ」
自分の膝に私を座らせたナゼル様は、にこにこと嬉しそうな表情になる。
トッレはテーブルを挟んで向かい側に腰掛けた。
「そうだ、お腹は減っていない? この町に食料はないけれど、屋敷でメイーザが作ってくれた焼き菓子があるよ」
「食べます。ケリーにも持っていってあげていいですか」
「もちろんだよ。トニーが暇そうだから、彼に運んでもらおう」
カッテーナの惨状を前に、さっそく魔獣駆除係が呼ばれたみたいだ。トニーが食堂の隅で居眠りしている。
魔獣は夜行性のものが多いので日が落ちるまでは暇らしい。
袋から焼き菓子を取り出したナゼル様は、私の口元に菓子を持ってくる。私の大好きなヴィオラベリーフィナンシェだ。
「アニエス、あーんして?」
「あーん」
「ふふっ、可愛いなアニエスは。ジュースも用意してあげようね」
「ありがとうございます……じゃなくて! 報告の続きがあるんでした」
私はそこでリリアンヌがロビンに唆されていたことや、彼女の境遇を伝えた。
「そういうわけで、裏にロビン様がいるらしいです。彼とキギョンヌ男爵、アポー伯爵には繋がりがあるのだとか」
「なるほど。男爵家にいたけれど、令嬢は俺を狙っただけで魔獣被害の件とは無関係か。それにしても、ロビン殿は何を考えているんだ? 俺は王女の婚約者ではなくなったのに、わざわざ辺境に刺客を送ってくるなんて」
「まったくです!」
「厳しい王配教育もあるはずだけれど。スートレナにちょっかいをかけるほどの時間があるのか?」
ナゼル様は心底不思議そうな顔をしている。
実際、我がデズニム国の王妃・王配教育はかなりブラックらしいのだ。
丸一日部屋に閉じ込められることなんてザラで、騎士と同じ訓練を受け、各領地を回り……時には外国に足を運ぶほどだという。
王や女王が賢くなくても大丈夫なように、結婚相手には過酷な訓練が課されるのだとか。
話を聞いたときには、ナゼル様が可哀想で仕方がなかった。
「それで、リリアンヌ様の処遇なのですが」
「ちょうど考えていたところだった。俺は生きているわけだし、ケリーの見立てでは害意はないんだね。だったら、処刑じゃなくていいと思う」
「本当ですか!」
大きな声で叫んだのは私ではなく、テーブルの向こうに座っていたトッレだ。
「ああ、情状酌量の余地がある。今回の事件の大事な証人だから協力も取り付けたい。とはいえ、何もお咎めなしというわけにもいかないかな」
たしかにスートレナの人々の目もあるし、全くの無罪というのは難しいだろう。
結果的に無傷だったとはいえ、ナゼル様を襲ったのは許されないことだ。
「そこで、新しい制度を適用しようと思うんだけど」
「決められた期間の労働でしたっけ?」
「そうそう」
ナゼル様たちが考えたのは、果実の栽培や騎獣の世話、縫い物や家具製作などの労働だった。辺境スートレナは常に人手不足なのだ。
罪を犯した者をただ牢屋に閉じ込めておくだけではなく、働く意志のある者は社会復帰しやすいよう支える。そんな試みらしい。
お金は少ないが出るし、衣食住は質素ながらも保証される。
品行方正なら外でも監視付きで働けるようになり、釈放される時期も早まるのだとか。
「もともと軽犯罪者が対象だけれど、害意がないなら彼女を入れても問題ないかなって。貴族扱いはできないけれど」
「ナゼル様……」
正直、領主の殺人未遂という罪に対して破格の待遇である。
それに同じ仕事に就く軽犯罪者というのも前領主の時代、食うに困って食料を盗んだ者が中心だ。
話を聞いていたトッレが立ち上がって叫ぶ。
「ありがとうございます! ナゼルバート様!!」
彼の大声は離れた部屋だけでなく、宿の外にまで響き渡ったのだった。