六片
焼け落ちた一軒家の前に一人の男が立っている。その男は朱殷色のようなくすんだ赤い髪を自由気ままに跳ねさせ、髭も適当に揃えただけで身なりを気にかけている様子は無い。けれどその様さえ魅力的に感じさせるような貫禄を持っていた。
周囲に立ち込める嫌な臭いは家の木材や家財だけでなく,明らかに人が焼けた事を示していた。その臭いに構わず男はまだ炎が燻っている家の中へと歩みを進めた。ざりっ。焼け落ちて炭になった木材が踏まれて灰へと変わる音が足元から伝わってくる。小さな家の中心まで男の足でたった数歩で辿り着いた。家具が極端に少ない上に割れた数々の酒瓶が炎の勢いを強め、一瞬で燃え落ちただろう事が予想出来た。己が手を下した男は見た目は黒ずみ変わっているが、元ある場所に転がっている。ただ小さい子供が見当たらない。崩れた家屋の下敷きになっているのだろうか。そもそもこの家を燃やしたのは誰なのだろうか。そう思案していると後ろから声を掛けられた。
「お頭。村を回って来たけど、それらしい奴どころか村人一人居ないっすよ。みんな家ん中に閉じ籠っちまってるみたいっす。あんだけの火が上がってたのに誰も来ないなんて、この家の住人がどんな奴だったか簡単に想像が付いちまいますね。まあ実際ひでえ飲んだくれだったって話だけど。じゃなきゃこんな依頼は来ないしな。」
「その飲んだくれのお陰で楽な仕事が出来ただろう?」
「まあそっすね。お頭の見事な一撃でおっさんは即死。あの小さいガキんちょも泣き叫んだり抵抗もしねえからあっという間に終わっちまいましたしね。こんなに人数要らなかったんじゃないっすか?」
「ああ、そうだな。この火事を誰かが起こさなければ、な。」
「引き続きそいつを捜しますか?」
「…いや、もういい。帰るぞ。他の奴らを呼び戻して来い。」
「りょーかい。」
そう言って若い男はあっという間に姿を消して見えなくなった。確かに簡単な仕事だった。飲んだくれと子供を殺すのは簡単で、家財は少なく盗む物も碌に無く、直ぐに仕事は終わった。もう一人子供が居ると聞いたが事前調査でもここ数日姿が見えず、村でも死んだのだろうという噂があった。仮に生きていたとして、虐待されている小さな子供を残して消える様な奴だ。犯人を捜そうなどとは思わないだろうし、何も知らなければ探す事も出来ないだろう。
殺す時は鼠一匹も見逃さないよう気配を探り仕事をしている。その為顔を見られている事は決してない。何度思い返してもそれは確かだ。けれど村を離れて暫くして今日の仕事場から火が上がっているのに気が付いた。その時は一瞬嫌な予感がした。急いで戻ると既に炎の勢いは増していて中の状態は確認出来なかったが、首を落とされた人間が生きている筈も無く人の焼けている臭いもした。
では誰が一体何の目的で火を放ったのか。既に確実にある死を更に存在ごと消し去るかのような行為。一瞬姿を消している子供を思い浮かべるが、それらしい人物は探しても村には居なかった。他へ逃げていたとしても周りを広大な森に囲まれている為捜しようもない。折角時間をかけて念入りに行った準備や、悲鳴一つ零させずに息の根を止めたのは村人に発見を遅らせる為だというのに。その手間を炎によって一瞬で無へと還されてしまった。念のため空が明るくなるまで様子を見たが問題を荒立てる様な気配は無かった。それどころか何事も起きていないように動き出す日常に都合が良過ぎて笑みが零れてしまいそうになる程だった。だが流石にこれ以上滞在しては村人に顔を覚えられてしまう可能性がある。最後にもう一度ゆっくりと家を見渡して男はその場を後にした。もし姿の見えなかった少年が家を燃やしたのだとしたら…。
「ああ、困ったな。これからもっと楽しくなりそうだ。」
「初めまして。そしてようこそ、白亜の館へ。私はアロという。みんなは私の事をファーザーと呼んでくれているが、聖職者ではないから好きに呼んでくれて構わないよ。」
落ち着いた声と穏やかな笑顔に迎えられ、初めて受ける丁寧な挨拶にむず痒いような気持ちを覚える。弟の埋葬後に有無も言わさず連れて来られた一室に入ると、人柄の良さそうな紳士然とした白髪交じりの男性が居た。ノックをして返事も待たずに扉を開けた少女に驚いたのか、知らない子供が居る事に驚いたのか、そのどちらもであろうか。一瞬驚いた顔をしたがすぐに察した彼は目元の皺を更に深くさせて優しく微笑んだ。けれど人付き合いを避けてきた自分にまともな挨拶など交わした経験など無く、状況もよく分かっていないのも相俟って碌な言葉が出てこない。
「…どうも。」
「そいうえば私も自己紹介がまだだったわ。遅くなってごめんなさい、私はクレアよ。改めてよろしくね。貴方の名前を聞いても?」
「俺はク…。いや…、ゼノ。ゼノだ、よろしく。」
「却下。」
「………はあ?」
「だから却下と言ったのよ。」
クレアと名乗った少女は話の助け舟を出してくれたかと思いきや、人の名前を却下などと言って切って捨てた。まさかそんな言葉を言われるとは思っていなかった為、一瞬理解が及ばず思わず素っ頓狂な言葉が漏れてしまう。そんな自分を意に介さずクレアは再び却下と言い直した。その不遜とも取れるような態度に更に二の句が継げられなくなる。代わりにアロがクレアを嗜めた。
「こら、クレア。却下だなんて失礼だよ。人の名前に対して何て事を言うんだい?素直は美点でもあるが、だからと言って何を言っても良い訳ではないんだよ。少し言葉を慎む事を覚えなさい。」
「だって明らかに今名前を考えたもの。しかも異端だなんてそんな名前は全然素敵じゃないわ。だから却下と言ったの。」
間違えていないと胸を張るように言い張ったクレアにアロは苦笑いを浮かべ申し訳なさそうにこちらを見た。けれど確かにクレアの言葉は間違っていない。親に付けられた名前は自分に似合わない気がして嫌いだった。名前を捨てればいままでの人生も一緒に捨てられるような気がして違う名前を告げてみたが、この心の内を見事に言い当てられてしまった。その事でまた逃げ出してしまった事を悟られたのが分かり、罪悪感ではなく羞恥心で顔が下へと向く。また更なる後悔に沈みそうになる視線を明るい声が留めた。
「そうね…、ニックス。雪が良いわ!雪の後には春が来るでしょう?つまり春を連れて来るという意味の名前よ。門の前で何時間も雪を眺めているくらいだから雪も嫌いではないでしょう?それに貴方にとても似合うわ。ねえ、どう?」
きらきらと輝きを増すアイスブルーの瞳に、ひたすら眺めた雪景色が思い起こされる。世界を白く輝くように染め上げるような雪。その影響力の強さとは逆に、触れれば淡く消えていくような在り方も好きだった。春を連れてくるなどとそんな大層な存在には決してなれないが、元々好きな雪を冠する名前に少し憧れてしまう。その逡巡を掬い上げるようにアロの落ち着いた声が優しく背中を押してくれる。
「私も似合うと思うよ。名前を変えても人生は簡単に切って捨てられるものではないけれど、こう在りたいと願う事は悪い事ではないよ。むしろその願いはこの先の君を支えてくれるだろう。」
「…はい。」
「うん。よろしく、ニックス君。」
握手を望んで差し出されたアロの手を躊躇しながらも握り返すと、その手から伝わる暖かさが彼の人柄を語っているようだった。目を細めて微笑む姿にファーザーと呼ばれている意味に改めて得心がいく。こんな風に誰かに手を握られた事など無かった。此処に来てからというもの今までに経験したことの無い事ばかりで尻込みしてしまいそうになるが、彼等が当たり前のように与えてくれるものを素直に受け取ってみたい気持ちもある。自分が望んだ死、弟が望んだ普通の生活。自分にある可能性と弟の奪われた可能性を実感して、後悔と罪悪感が同時に襲い掛かる。この先、この後悔と罪悪感が消える事はあるのだろうか。そして何時か少しでもまともな存在になれるのだろうか。
「大丈夫よ。貴方はきっと春を連れて来るような存在になれるわ、ニックス。」
自分の考えている事など知りようも無い筈なのに、まるでその答えをくれたような言葉に瞳の奥が熱くなる。どうしてこの少女は自分の欲しい言葉が分かるのだろうか。溢れ出そうなぐちゃぐちゃな感情を歯を食いしばり留めた。返事の出来ない代わりに少女のアイスブルーの瞳を見つめ返す。異端と名付けて卑屈になる事も、後悔に浸り暗闇に沈む事も許さない少女の強い瞳を、きっと今後名前を呼ばれる度に思い出すのだろうとそう思った。