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氷雪の涙  作者: 夜野とばり
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五片

「身体はどうかしら?寒くはない?」


薪を沢山くべられた暖炉の前に無理矢理座らされ、少女はさらにホットミルクを押し付けた。行動は有無を言わせないが、言葉やこちらを覗き込む表情からは心配しているのが伝わって来る。けれど今は心配されたり優しくされるのが辛い。その視線から逃れるようにホットミルクに視線を落とす。マグカップからは熱が両手にじんわり伝わり、蜂蜜の香りがふわっと立ち昇ってくる。その暖かな香りを胸から吐き出し、掠れた声で大丈夫だと告げる。説得力の薄い声は少女の華やかな顔に曇りを浮かべさせた。だが直ぐに気持ちを切り替えたのか、駆け出して更に毛布を追加で持って来た。どうやら楚々とした見た目からは想像がつかない行動力を持っているらしい。




「この子も一緒に温めてあげましょう。」


幼子を抱えたまま玄関で座り込んで呆然としていた自分に少女はそう声を掛けた。血で濡れた手が凍って幼子に張り付いて取れなかった。浴室に案内されて凍った身体を溶かすように暖かなお湯が頭上から降り注ぐ。血で重くなった衣服がさらに重くなる。色を変えた水が座り込んだタイル床の上を滑って流れて行く。やっと剥がれた手で幼子の身体を洗う。赤い色は落ちてゆくが、青紫色は何度擦っても落ちない。枝のように細く白い身体のあちらこちらに大小様々な花をつけて、ずっと咲き続けていた。けれどもう新しい花をつける事は無いだろう。

少女が幼子を預かって先に出てゆき、浴室に一人きりになる。しっかり温まるように強く言われて、重くなった服を脱いで今度は自分の身体を洗う。夕方よりも酷くなった霜焼けで手の感覚がさらに鈍くなっている筈なのに、幼子の身体の冷たさやあまりにも軽い体重の感覚が残って消えない。いままで固く閉ざして開かなかった漆黒の鉄柵は憎い程に羽のように軽くて瞬く間に消えてしまったというのに。皮膚が爛れる程、強く何度も擦り熱い湯が沁みる。けれどその痛みが今は慰めになる。手がふやけるまで湯に浸かったのは初めてだった。




先程までの事を思い出しながら呆けていたのか、ホットミルクにはすっかり膜が張ってしまっていた。膜ごと流し込むとゴクリと少し大きな音を立てて喉元を通り過ぎてゆく。異物を飲み込んだような違和感が喉に残り、鼻から蜂蜜の甘い香りが抜けてゆく。喉の詰まるような感覚で丸一日、水さえも口にしていなかった事を思い出す。刺激された空腹感により久しぶりの甘い味覚を味わう事も忘れ一気に飲み干した。

ホットミルクを飲み切って多少空腹も満たされ、動きだした思考はやっと今居る部屋へと関心が向く。大きなテーブルやソファが向き合うように置かれているから客間なのだろう。客間があるような貴族のような館や、先程着替えとして渡された質の良い服に今更ながら場違いではと不安になる。慌てて少女を探すと彼女は窓枠に腰かけ外を眺めていた。豪雪地域では珍しく背の高い大きな窓が並び、星々が輝いて柔らかな光を室内に落としている。少女は天上の星を眺めているようだ。その静かな佇まいは距離を保ちつつも、こちらが声を掛けるまでいつまでも側で待ってくれているような勘違いを起こさせる。そんな空気を壊してしまうのが勿体無いような気がしたが、一心に見つめる先が何なのか気になり側へと向かう。けれど掛ける言葉が迷子のように見つけられず、何度も口を開けたり閉じたりする事しか出来なかった。いつもそうだ。臆病な自分は言葉を紡ぐのが怖い。言葉を交わすことで相手の気持ちを知ってしまうのが怖くて仕方が無いのだ。だから幼子と会話などしたくなかった。けれど言葉を尽くすのを諦め逃げ続けた結果がこれだ。逃げなければ何か変わったのだろうか。襲い掛かる後悔から逃げるようにさらに一歩を踏み出し窓辺へ近寄った。


無言のまま立ち尽くす自分に少女は視線を寄越して待ってくれたが、しばらくしても反応も言葉も示さないこちらに諦めたのか察したのか少女もまた何も言わずに窓の外に視線を戻した。暖炉の薪が燃える音を遠くで聞きながら静寂と共に二人で星を眺めた。少女が何も言わないのをいい事にそのまま窓辺で許される限りの時間持て余した。頭の片隅で朝になれば向き合わなければならない事が待っているのだと分かっていたから、この穏やかな時間に縋りついた。けれど無常にも東の空が白み始める。やがて濃紺の空に紫や赤のグラデーションが滲み始め、星の姿は彼方へ消えた。それを合図に少女は今までの時間を置き去りにするかのような軽やかな仕草で窓枠から飛び降りた。


「そろそろ行きましょう。あの子をきちんと眠らせてあげないと。」

「…ああ。」


少女とは一転、重い足を地面から引き剥がすように動かし窓辺を後にした。館を出て振り返ると昨晩は気付かなかったが改めて館の大きさに気付く。玄関から右手に進むとガラス張りの温室のような建物の隣に畑まで広がっている。広大な敷地をさらに進み、森の手前まで歩く。昨夜よりも硬さを増した幼子の冷たい身体は持ちにくく、途中何度も抱え直す。その度に服から覗く青紫色の花々が視線に入る。綺麗な白い服の下に隠れている筈の刺し傷まで脳裏に浮かんできて、まるで自分の胸にも同じ傷が在るようだ。じくじくとした痛みさえも本物のようで足が止まりかける。それでも無心で動かし続けた足を止めさせたのは幼子でも少女でもなく、眼前に広がる景色だった。


「此処は私達の、館のみんなのお墓なの。この白い花は何故か人が埋葬されている場所に咲くの。雪の残るこの時期に咲くのも、まるでお墓が分からなくならないようにしてくれているように感じるの。死を連想させる花だけれど私はこの花が好きだわ。」


一面に広がる、雪よりも白い花畑。葉や茎の緑で、より際立つ白い花弁が綺麗な花だった。少女の言うように雪原に墓の在りかを知らせるかのように所々密集して咲いている。墓に咲いているからか雫のような花弁はまるで涙の形のようだ。朝露で濡れた花弁は朝日を浴びて美しかった。墓という陰湿な印象を一掃させる景色に、逆に天国とはこのような場所ではないのかと思わせる程だ。花に囲まれて僅かに覗く白い石の墓標は景色に溶け込んでいて、それを見留めてやはり墓だと思い改める。死んだらただ世界から存在が消えて無くなるだけだと思っていた。けれど此の場所での死は、地中の養分となりやがて美しい景色へと昇華されている。死んでもなお、意味のある存在になれる事に強い衝撃を受けた。


「此処にこいつも?」

「ええ。ファーザーから許しは貰っているわ。此処ならきっと寂しくないだろうからって。」


膝を伸ばして横たえても墓穴はとても小さい。最後の別れをさせようと思っているのか、少女は穴を埋めずに自分の何かしらの行動を待っている。けれど眠る幼子の顔さえまともに見れず白い服に視線を落とすばかりで、言葉を探してみるが何を言えば良いのだろう。何かを思い出そうとしてもあの男の怒鳴り声に揺さぶられ邪魔をされる。ああ、でも何時だったか一緒に家を抜け出して僅かな食料を外で分け合った事があった気がする。その時の幼子はどんな顔をしていただろうか。あの時食べた物は…、味は…。


「最後に何かいいの?大丈夫?」

「…何一つ、無いんだ。こいつとは思い出どころか、一緒に居た時間さえほとんど無い。嫌いだったんだ。あの男と血が繋がっているってだけで疎ましくて…。顔すらまともに見なかった。否定したかったから一度も…、一度も、弟だなんて…。名前すら!…アニマって呼ばなかった。それなのにいまさら何を言えば良い!」


たった一言、気に掛けるような言葉すらかけた事も無い。話さないよう、触れないよう、視界に入れないよう、ずっとそうしてきた。そうでなければ情が芽生えて相手を嫌いになれない気がした。それなのにどうしてだろう。いつの間にか存在していた其れに、ずっと罪悪感に押し潰されそうだった。存在を認められない事や、男の元に置き去りにして逃げていた事に目を逸らし続け、自分ばかりを護っていた。もっと早くに弟と一緒に遠くへ、この館の扉が開く開かないに構わず何処かへ逃げていたら何か違ったのだろうか。そしたら死なせずに済んだのだろうか。止まらない後悔が胸を抉る。


「…私は貴方よりも多く、それこそ何度も死に直面してきたわ。何度努力しても後悔する事を止められないの。どうして後悔は無くならないのかしらね…。悔いのないように過ごしていても、運命に悪戯されるみたいに簡単に後悔の波に飲み込まれる。もしかしたら私達は後悔せずにはいられない生き物なのかもしれないとも思うわ。でも、だからこそ、今をこんなにも一生懸命生きられるんだと思うの。…この子はきっと人一倍頑張ったんだわ。だから他の人よりも迎えが早く来てしまったんじゃないかしら。もし、別れの言葉が分からないのならば、頑張ったね。って一言、言ってあげて。きっとたくさん頑張っただろうから。」

「————っ。」


太陽が東の空から顔を出して一面を黄金色に染め上げる。早朝の澄んだ風が森を駆け抜けて梢を揺らした。その音に掻き消えるようにして小さな言葉が落ちたが、その言葉を拾えたのは傍らで眠る幼子だけだった。

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