表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
氷雪の涙  作者: 夜野とばり
3/18

二片

アルゲオ山脈の麓から村にかけて広がる森は広大で、山脈の万年雪からの豊富な雪解け水により大きな湖や川を多数抱えている。その水は透明度が高く深い青色を湛えており春には湖にサファイアを溶かしたような輝きを見せる。水源豊かで森に恩恵をもたらしており、豪雪地域の環境では珍しい数の動植物が存在していた。その内の一つに琳狼が生息している事も大きいだろう。琳狼は種族名ではなく、ある特徴を持つ生き物の総称だ。

琳狼石というものがある。その石は樹脂が地中で琥珀になるように、自然の力が生き物の中で凝縮し石となる。その石を宿した生き物の事を総称して琳狼と呼ぶ。琳狼石は不思議な力を有しており宿主に力を与える。その力については分かっていない事が多いが、琳狼が生息している土地や森は豊かで繁栄する。そんな伝説や話は幾千も存在しており、宿主が生きている間はその力で土地を守り、死んだ後は土に還りその土地に恩恵を返す。つまり琳狼は神木や森の主のような存在で人々からとても大事にされる。普通ならばその恩恵に預かる為に大事にするが、このアルゲオ山脈の麓に広がる北の森では違った。村の人々は森になるべく近づこうとせず、倒木などの手入れもせず放っておく事が常だ。むしろ少しでも早く森を出たがる。豪雪地帯で必要な薪を得るのも最低限で森を拓き畑を増やす事もしない。何故ならばその森の奥には奇妙な館が存在するからだった。


その館は孤児院らしいのだがその子供の殆どが異能を持つ者らしい。異能という人ならざる力。それが良いものにしろ、悪いものにしろ、唯の人にとって理解の及ばない異質な存在でしかない。自分達とは異なる存在、想像の及ばない存在は時に恐怖の対象になりやすい。ましてや辺境の小さな村では安寧を好み、生活に変化を齎しかねない存在は村人にとって恐怖そのものだろう。一人ならまだしも、その館には孤児院とはいえ異能者が多く居ると聞く。得体の知れない存在が多く居るとなれば恐怖は殊更だ。それ故に館のある森の奥には入ってはならない暗黙の了解が村にはあった。豪雪地帯の厳しい生活の中では少しでも琳狼の居る豊かな森の恩恵に預かりたい筈だが、北の森に入る事はせずに遠い森まで行く事の方が多い。異能者ばかりの孤児院というのが嘘か真実か定かではないが、噂が途絶えないという事はそれは本当に存在している事の証なのかもしれない。

何故その館を探そうと思ったのかは分からない。ただの好奇心か、現実からの逃避か。果ては自分と同じように異質な存在がある事を知り、忌み嫌われているのは自分だけではないと慰めにしたかっただけなのか。それとも…。


探すといっても場所など皆目見当も付かないうえに広大な森を子供一人で探すのには時間を要した。最初は歩きながら木に印を付けて森の方々を探したが見つけられなかった。子供の足で歩いていける距離など限られている上に、帰り道にはその日暮らしを凌ぐための薪や薬草を拾わなければならなかった。そして僅かな食料を手に家へと戻り、幼子が息をしているのを確認して僅かな安堵を得ては贖罪代わりに食料を枕元へと置いて寝床へ潜る。同年代の子供と比べ痩せ細っている身体は歩き回ると簡単に疲れ、寝床に就くと直ぐに意識は闇へと落ちた。しかし数時間もしないうちに寒さと空腹が意識を引き上げ、時には男によって蹴り上げられて無理やり起こされる。それでも日々を繰り返すうちに距離が伸び、森の中を走って行き来が出来るようになった。更に時間を費やしてかなりの距離を行き来出来るようになった頃。山の麓に雪の白さと一線を画するように佇む漆黒の鉄柵を見つけたのだった。




漆黒の鉄柵は細くその線は美しい文様を描いているが高く聳え立ち頑丈だ。試しに門扉に力を込めて開けてみたが動く気配すら無かった。それならばと試しに周りを歩いてみたが、広大な敷地を守るように何処までも続く鉄柵は綻びや歪み一つも見当たらない。人気を感じさせない森の奥で霜を纏い陽の光を受けて輝いている。鉄柵の漆黒に霜の白の対比が美しく、結晶があつらえた模様のようだった。手で霜を拭ってみると策には劣化や傷一つ無い。柵の向こう側にもこちら側と同じ木が生い茂り、同じ雪が降り積もっている。それなのに漂っている空気が違うかのように、まるで世界が止まって見えた。

幻かと疑う気持ちが生まれる。けれど握り締めた鉄柵が、氷のようで指先にジンジンと軽い痛みを与えている。その痛みが確かに館は存在していたのだと実感をくれる。そしてふと気づく。自分は生まれて初めて何かをしたいと望み、その望みを叶えられたのだと。初めての達成感に寒さではない震えを覚えた。


それからは館へ向かう道すがらに薪を集めて近くの木の洞に隠し、館を探し回るのに使っていた時間を黒い鉄柵を眺めるのに使った。幾日通っても門扉が開いたような形跡は無く、誰も出入りする気配のない門扉に敷地の奥の館は朽ち果てて何も無いかもしれないと考えたが、それでも門扉の前へ通うのを止めようなどとは思わなかった。

通うと言っても何かする訳ではなく鉄柵の向こう側をただただ眺め続けた。ただ雪が降り積もった森が存在するだけなのに、日に照らされて溶けた雪の表面がキラキラと輝く様に全く違う世界の雪を眺めているような気分にさせられた。天気や時間によって姿を変える自然の美しさに飽きる事は無かった。来る日も来る日も門扉から一番近い木の根元を椅子代わりに座り、雪が身体に積もるに任せて魅せられたかのように眺め続けた。

森の中で冬の匂いを肺いっぱいに深く吸い込み、風で木々が騒めき鳥が囀る声を聴いていると家で耳にこびりついた不快な音を全部忘れられる。あの男の汚い罵声も、耐え忍んぶ幼子の擦れた呻き声も消えていく。そして此処では息ができる。深く吐き出した息は生きている証を示すかのように温もりを白い水蒸気に変えて空気に溶けていった。



そうだ、確かに息が出来ていた。それが嬉しかった筈なのに何故なのだろう。日を増すごと、時間を此処で過ごすごとに息がしづらくなっていった。不快な音も耳から離れなくなり、瞼の裏側に青紫色の花がこびり付いて消えない。それらは日毎に酷く強く感じる。つい先日、男が長年に渡り貴族からせびっていた金が完全に断たれ、男は益々荒れていた。それもそうだろう。確実に金と酒に溺れていく男の素行は傍目にも分かるほど酷く映る。村の外れに家があるとはいえ、大きな罵声と家具が壊れる程の物音。小さな村の静かな夜の中では嫌でも届くだろう。噂など一瞬で駆け巡る村で、貴族の耳にまで届くのはなんと容易い事か。そして遂に、貴族も行動に出たのだった。貴族にとってはなんて事は無いはした金だったとしても、流石に領地を治める者として外聞が悪くなったのだろう。男が大人しく引き下がった事は以外だったが何か事情が変わったのだろう。そして金の当てが無くなった焦りと怒りの矛先は当然こちらへ向かう。細く張り詰めた命綱が一本残っているだけのような生活だったが、それももういつ切れても可笑しくは無い程に張り詰めていた。


嫌な焦燥感が纏わりついてどうにかしなければという気持ちにさせられるが、何をどうすれば良いのか分からない。それが焦りを加速させる。家に居るとその焦燥感を一層強く感じ、森に居る時間が徐々に長くなった。森に居ても息苦しさは変わらないがどうしても家へと向かう足が遠のいてしまう。遂には家でほとんど過ごさなくなり、幼子の息を確認してただ寝るだけ。そんな男の態度が徐々に苛烈さを増しているのを察してか、村人とは以前よりも更に顔を合わせる機会が減り、避けられるようになっていた。避けられるのは別に構わない。見て見ぬふりをする人間などこちらも接したいとも思わない。しかし日に日に苛烈さを増しているのを体現するかのように咲き乱れる青紫色の花の異常さに自分の奥底で煮えたぎるような感情を村人相手に叫びたくなる時がある。けれど叫んだ瞬間に男によって全てが壊れてしまうのが分かっていた。唇を噛みしめて寝台に潜り込み、男の足音が近づいてこない事を祈りながら闇へと落ちる。夜中に男の気が変わり、そのまま一生目が覚まさない可能性も容易にあるだろう。それでも幼子の近くで寝息を聞くと僅かな安堵が訪れる。いまはもうただそれだけの為に家へ戻っていた。村人は全く姿を見せなくなった自分をもう死んでしまったのではと噂しているのまで聞いた。確かに自分は死んだも同然かもしれない。むしろ何故生きているのか分からない。




今日も男が起きてくる前に幼子の枕元へなけなしの食料を置き、家を抜け出した。柵向こうの雪を呆然と眺めながらあと何回この雪を眺められるのだろうと考える。もしかしたら今日か明日が最後かもしれない。けれどあの男に殺されるなど御免だ。それならばいっそ。


「…誰でもいい、殺してくれ。」


ギュッ。

まるで自分の願いに返事を返すように遠くから雪を踏む音がした。その音を探すように辺りを見回すが林の中では木々に視界を遮られてよく分からない。もう一度音を探して耳をそばだてた。するとそれに答えるかのようにギュギュと鳴らしながら重く踏みしめる音が近づいてくる。その音を聞きながらそれは二本足の人間ではなく四本足の獣のそれと気づく。

普通この時期の獣は冬の眠りに就く。しかし空腹で目を覚ました獣が巣穴から出て来る事もある。そんな飢えて獰猛さを増した獣が近くにいる恐怖に咄嗟に身が固まる。自然と恐怖で木の上や洞を探して隠れる事を考えた。けれど脳裏にある考えが浮かんでしまった。もしかしたらその足音は先程の自分の願いである死を与えてくれるのではないか、と。愚かなその考えに一度至っててしまえば隠れる事など逆に愚かな行為に思えしまう。その足音の主はきっとあの男が齎すものよりも何倍も苦痛の少ない終わりをくれるだろう。近づくにつれて自分の足音よりも遥かに重みのある足音に、大きさが想像出来てしまい足が竦みそうになる。けれどこの機を逃したらもう誰もこの状況から救ってくれる者など居ないような気がして、必死に足を留めて木々の間に動く影を必死に探した。


そして足音の主が目の前に現れた瞬間に思わず息を呑んだのは、恐怖に対してではなかった。余りにも美しい生き物だったからだ。雪に濡れて光沢を増した黒い毛並みは歩みに合わせて滑らかな波を打ち、よく見ると銀色が混じっているのだろうか磨かれた鋼のような輝きを放っていた。瞳は湖の水を溶かし込んだような深い青。普通の狼よりも二回り程大きい体躯を持つその獣は、琳琅だった。

首元に輝く石。身体に宿る瞳の色と同じその石が、その獣を琳狼だと示している。琳琅が人前に姿を見ぜるのは珍しい。近年、琳狼の数自体が減っている事もあるが、そもそも森の主の獣は警戒心が強く人前に現れない。此処は森の奥だが、目の前には孤児院かもしれない館の前だ。様々な疑問が頭の中を飛び交うが、その獣の神秘的な美しさに全ての思考は霧散してしまう。目の前の存在にただただ魅せられ圧倒される。その美しい琳琅は息を呑んだまま動けずにいるこちらをじっと見つめている。ひたと見据える姿は自然体で、こちらを襲ってくる素振りなど欠片も感じ無い。たった一掻きで死に絶えてしまいそうな鋭い鉤爪や牙を備えているというのにその危うさでさえ美しく、逆に近寄ってみたいという思いに拍車を駆ける。喰われても良い。むしろ琳琅の糧となれるのならば、この無意味な生にも意味があったのではないか、とそう感じられる。自然と強張っていた足が進んだ。

人間が近づいても動じない姿勢に、こちらの願いが届いているのではないかと錯覚をさせられる。一歩近づくごとにはっきりと聞こえてくる息遣いに、目の前の幻のような美しい生き物が存在しているのだと実感する。手を伸ばせば届くような距離で足が止まった。そこで改めて視線を奪われる。漆黒の毛並みに雪の欠片が星のように散りばめられきらきらと光っている。その眩い星を掃い、毛並みを確かめたらどんな手触りがするのだろうか。それとも触れた瞬間、怒りで食べられてしまうのだろうか。

顔色を伺うように瞳を覗き込む。獣特有の鋭い形の瞳の中は、湖に星を映したような優しい光が宿っている。まるで愚かな行為に走る子供をなだめる様な眼差しでこちらを見つめている。その優しい光に死という選択を奪われそうになる。けれどそれ以外にどんな道があるというのだろうか。例え間違った選択だとしても自分一人では何も出来ない。幼子を救う事も、あの男を殺す事も、自らの命を投げ出す事も出来ない自分はどうしたら良いのだろうか?


「…どうしたら良いんだよ。…頼むから、もう、全部終わりにしてくれ。」

「―――本当に終わらせたいの?」


水滴が水面に落ちたような透明感のある声が響いた。その響きを辿って振り返ると同い年ぐらいの少女が居た。雪を溶かしたような白い肌と、それを際立たせるかのような黒髪が印象的だった。意思の強そうな瞳には琳琅の青とは違うアイスブルーの輝きが宿っている。この村では珍しい端切れなどで繕いの無い、綺麗な服を着ている。貴族のような育ちの良さを感じさせる少女が、寒空の中で白いワンピース一枚という軽装でこんな森の奥に一人で居るのはとても異様に映った。


「誰だ。」

「その子の友達よ。聡い彼等は無駄な殺生はしないわ。その子は特に優しいから自殺の手助けなんてそんな事は絶対にしない。」


真っ直ぐにこちらを見つめて言う少女の言葉に瞳と同じ強い意志を感じる。少女の言葉を証明するかのように琳琅はゆったりとした足並みで自分を通り過ぎ、少女の側に寄り添うかのように落ち着いた。琳琅を畏怖したり尊ぶでもなく「その子」と友達扱いをする。美しい獣と不思議な魅力を持つ少女が揃って立つ姿は物語に出てきそうな程に絵になっていた。だからか琳狼と友達と言われても不思議と納得してしまう。けれどそんな奇特な人間は村には居ない。その考えに至ると少女の後ろの漆黒の門扉が目に入る。


「…あんた、館の人間か?」

「そうよ。」

「なら…、館の人間なら扉を開けてくれ!…もう、もうこんな人生はうんざりだ。」

「…悪いけどそれは無理よ。あの扉は特別なの。貴方にあの扉が開かないのには理由がある。」


少女は少し悲しそうな表情をしたが、少し視線を下げて再びこちらを真っ直ぐに見つめ直し言った。扉が開かない理由?そんな事があるのか?人生を終わらせたい程に苦しいのに、あんな男から、村からこれ程までに逃げ出したいというのに。


「俺には死ぬ事も、逃げる事も許されないのか?」

「貴方が本当に逃げたいなら館の扉はとうに開いているわ。」

「…どういう、意味だ。俺は本当に…。」

「それは貴方が自覚していないだけで本心は全く違うか、何か心残りや大事な物がそちら側にまだあるのねきっと。心残りがある限り扉を開けるのは無理よ。この館に来るにはそれだけの覚悟か理由が必要なの。」

「…足りない?一体何が足りないって言うんだ!この身以外何も持ってやしないのに!散々奪われたっていうのに!何が在るって言うんだ!」

「あるわ、絶対に。それは貴方にとってとても大切な物の筈。あの門はそれを教えてくれているのよ。それを残したままこちら側へ来たらきっと貴方は後悔をするわ。館の皆も貴方に後悔はして欲しくないの。だから今は連れて行けないわ。それに気付けたならその時はいつでも歓迎するわ、雪まみれさん。」


そう言って踵を返した少女は琳琅と共にあの漆黒の門扉の向こう側へと歩みを進める。その後ろ姿を呼び止める声をかけたかったが言葉が見つからず、ただ見ている事しか出来なかった。琳琅が一瞬振り返り立ち止まったが、少女が扉の向こうで待っているのに気付くと諦めるように後を追っていった。少女と琳琅の姿が見えなくなり、しばらくして鈍い音を立てて扉が閉まった音がした。その音をどこか遠くに感じながら先程の言葉の意味を必死に探す。こんな生活から逃げ出したいのは本心だ。嫌で仕方が無い。これだけは間違いない筈だ。心残り?大事な物?そんな物など自分にあっただろうか。幼子の顔が一瞬浮かんだが、あの悲痛な姿を見ていたくないから此処まで来たというのに。いくら考えても答えが見つからず、ただひたすら雪にまみれて立ち尽くす事しか出来なかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ