一片
十にも満たない小さな頃から雪を眺めるのが好きだった。
雪国の大半の者は色鮮やかな花々や果物などの恵みをもたらす春や夏を好む、けれど自分はそれらが好きでは無かった。冬の厳しい土地で生まれ育った自分にとっても皆と同様に雪は一年の大半で目にするありふれた存在に変わりはない。だが人々が好む春や夏の時期に自分が外で目にするのは遠慮の無い哀れみの視線や冷たい態度。そして耳からは陰で囁く耳障りな言葉が纏わりつく陰鬱な日々に感じた。例え幼くても視線や言葉の意味や心地の悪さは存分に伝わる。それが長年続けば嫌でもその意味を理解するというものだ。そしていつしか色鮮やかな季節は嫌いになり、村を純白に染め上げて人々を家に押し留める雪の季節が好きになった。
周囲とは明らかに雰囲気を異なっていた美しい母は、雪国の小さな村という閉鎖的な世界では疎まれる存在だった。変わり映えの少ない村では母は恰好の暇潰しの的であったのだ。村で耳にする話から実の父親となる男の所為で母はまともな結婚は出来なかったらしい。その父親が誰かなど自分は知らないのに何故か村では周知のようだった。それが誰なのか、その理由が何故なのか理解出来るような年齢になった頃、今度は影で囁くのでは無く、さも心配や同情をしているかのように親切丁寧に自分に教えてくれるようになった。村の連中が言うには自分はある貴族の遊びで出来た落とし子というやつで、その貴族は会いに来ないどころか存在さえも否定しているらしい。こちらが頼みもしないのに何度もその話を繰り返し、こちらの反応を期待して伺う連中が嫌いだった。だが無言で突き放せば、逆上はするが何処かへ去って行ってくれる連中はまだましだと言えただろう。あの男よりは。
いつからか自分と母を可哀想だと家に訪ねて来るようになった男が居た。その男は自分達の存在を忘れさせない為にその貴族の屋敷に訪れて近況を伝えに行ってあげようと言い出した。しかしその本当の目的は、自分と母を使い相手を脅して金の無心に行っていたのだった。しばらくして徐々に家に居つくようになり、働いて稼いだと言って渡されていた金も全てはその貴族を脅迫して手に入れた金の一部だった。母は村の連中に疎まれていてまともな仕事に就く事が出来ず、男が持ってきた金が微々たる金額だとしてもあると無いでは生活は大きく変わる。例えそれが大金の内の極一部で、その殆どを男が懐に仕舞い込んでいたとしても生活が楽になっていた事には変わりなかったのだった。
だが簡単に手に入る大金に男は気を良くしたのか、徐々に金の使い方が荒くなった。そして母がその金が無心によって貴族から得たという事に気付き問い詰めると、男は急に態度を変えた。男が無心した金によって生活出来ているのだと態度を大きくし、昼間から酒に浸るようになったのだった。その男を追い出したくともその金によって生活出来ているのは事実で、母の中には新たな命が宿っており大きくなり始めていた。その命の為に母は強く出れず、自分には年齢という歴然とした力の差が存在した。始めは知らなかったとはいえ何故あのような男の子供をまだ宿しているのか、ましてや二人でさえ生きていくのが厳しい生活なのにどうしてこれ以上食い扶持を増やすような事をするのかと。理解出来ない気持ちが母の腹が膨らむに連れて大きくなり、感情を侵食していくようだった。母に向かって恨み言のような言葉が飛び出しそうになるのを幾度も必死に飲み込んだ。その時に視線が合うと母は寂しそうな悲しそうな微笑みを自分に返す。そしてその微笑みがより一層、自分の中の感情を黒く染めてゆくのだった。
やがて赤子が産まれ、その生活は悲惨となった。乳児の仕事である泣くという行為は男の機嫌を簡単に損ねた。男にとって思い通りにならない生き物に苛立ちは増し、泣き声は起爆剤でしかなかった。苛立ちで酒の消える速度がさらに上がり、男がくれる唯でさえ少ない金はやがて手元にくる事が無くなった。それを補おうとする母親はやつれ腕は木の枝のように細くなった。そしていつしかその細い枝に青紫色の花が咲くようになっていた。
その花が咲き続け、消える事は無かった。乳児の泣き声、母が働きに出る度、自分と視線が合う度、果ては全てに。男は酒では解消しきれない苛立ちを青紫色の花に変える。ここまで来てしまった事態をどうにも出来ず、山を転がる石のように底まで落ちるだけだった。
そして季節が巡っても咲き続けるその青紫色の花は、栄養を吸い取るかのようにどんどん母親を衰えさせ幼子と自分を残して一人逝ってしまった。そしてそれを境に母親の細い枝のような身体のあちらこちらに咲いていた青紫色の花は次第に幼子の白い身体にも咲いていくようになっていった。
母が死んでから自分は男にとって唯一の取引道具として最低限の扱いを受けていた。逆に何の利益も持たない上に思い通りにいかない幼子の存在は男にとって恰好の憂さ晴らしの的になってしまった。
だがいくら幼子でも知性はある。殴りつけてくる男よりも、力もない子供で幼子に無関心でも危害を加えない者の側に居たがるのは必然だ。けれど幾ら何も罪もない幼子だといえども、あの男の子供だと思うとどうしても受け入れられない。身体のあちらこちらに咲く花に何とも言えない感情が沸き上がるが、食事を分け与えるだけでそれ以外はなるべく接しないようにしていた。それでも幼子は後を付いて離れなかった。態と走って逃げた事もあったが自分を見つけると安心したような表情を見せ駆け寄ってくる。雛鳥のようにあげた餌に愛情があると勘違いしているに違いない。
何日も何日も逃げ続けても後を追ってくる幼子に、いつしかこちらが根負けをしてしまった。それでも一緒に居るのは癪なのだと威嚇のように態度を露わにしていると、苛烈な男の機嫌を常日頃から見ているからか人の機微に聡のか、幼子は察したように決して話しかけず、ただ静かに距離を保ちながら近くに居るようになった。
冬国の短い夏はそうして逃げ続けた日々のようにあっという間に駆けて行った。その頃には男の目を盗んで家を抜け出し、森で拾った薪をパン屋へ売り昨日の売れ残りのパンと交換してもらい一人で生きる方法を見つけ出していた。後を付いてそれを眺めていた幼子はいつからか自分に倣うように小さな手足で枝を拾うようになった。色が移り変わる森の中で離れて薪を拾う。背後から小さな足が枯れ葉を踏みしめる音や、何度も取り溢しては枝を拾いなおす音が聞こえる。未だに視線は最低限しか合わせないようにしていた為か、音だけで幼子が何をしているか分かるようになってしまった。
晴れた日は貰ったパンを男に見つからないよう、村から離れた所にある木の下で食べるようにしていた。最近では木を挟んで背中合わせに座って硬いパンに噛り付く。会話もなく分け合った物をただ食べるだけ。それなのに何故かあの時の木漏れ日の眩しさや、硬いパンの触感や味はいまでも鮮明に思い出すことが出来る。だがその僅かな時間もすぐに消えていく。転がり落ちる石はまだ奈落へと到達していなかったのだ。
酒に溺れる男の様は傍からから見ても明らかだった。長年に渡り金の無心を続け、さらにはその回数を増やし続ける男に流石に貴族も見切りをつけたのだろう。金が手に入らなくなった男は以前よりも荒れるようになった。そして取引道具として価値が下がった自分にも男は容赦無く憂さ晴らしをするようになった。
明らかな力の差が存在する以上、反抗してもより酷い仕打ちが待っているのが簡単に想像出来た。だから感情や痛覚を押し殺してただひたすらに耐えた。だがそれを見て何を思ったのか幼子は次第に自分の後ろから離れるようになった。自分を男の標的にしていれば自分は傷つかずに済むというのに、聡いと思っていた幼子はそれが分からないのだろうか。それを示そうと側に近づこうとしても頑なに離れようとする。そしていつしか外へ出なくなり家の隅で縮こまるばかりになった。だがお互いに家にいては食べ物など手に入らない。居心地の悪さを覚えつつも仕方なく幼子を置いたまま家を空けるしかなかった。
そして再び幼子の小さく白い身体に青紫色の花が咲き乱れるようになった。それでも頑なに自分の元を離れ続けようとするその幼子の行動が理解出来なかった。今思えば、幼子が自分と一緒に居る事が増え、それが原因で標的が変わってしまったのだと勘違いをしたのかもしれなかった。幼子なりに守ろうとしてくれた行動がその時は理解出来ず、逆に恐怖すら感じた。やがて異様な数のその花を見る度に言いようのない感情が襲ってくるようになり、幼子と対面するのが怖く思えて仕方が無かった。その恐怖感の意味を理解したくなくて今度は自分の方が幼子から逃げるようになってしまった。全てを拒絶するかのように村からも遠く離れた真冬の誰も寄り付かない森へと逃げるようになったのだった。