プロローグ
ああ、雪の音が聞きたい―。
雪がさらさらと舞い落ちる音。降り積もった新雪が足元で鳴らす音。風に乗って窓を叩く音。高い塔の上に閉じ込められている状況ではいつも聞いている音を聞くことが出来ない。それだけで胸の内に空白が出来たかのような寂しさを感じる。
豪雪のこの地域には珍しく雲一つなく、冴え冴えとした夜空に星が帯を作り、月が煌々と輝いていた。普通ならば上空の素晴らしい景色へ視線が行くのだろうが、自分の視線は地上を覆いつくす見慣れた雪へと向かってしまう。
月の光を受け白銀に輝くその姿はいくら見続けても飽きる事はなく視線を奪われ続ける。手入れが行き届いていれば雪国の二重窓であっても白銀の姿を鮮明に捉える事が出来ただろう。けれども牢獄の塔ではそれを望める筈も無く、汚れるに任せたこの窓ではそれは難しい。それでも滞った冷気と共に窓枠に腰掛け、目を凝らして雪が輝く様を脳裏に焼き付けるように眺め続けた。
雪が降らない夜は斬り付ける様な寒さを抱えた風が何処までも壁の隙間を縫って駆けて行く。自分が居る高い塔の一番上までも難なく届き容赦なく身体に突き刺さるようだ。その度に身体に作られた傷がジンジンと痛み、傷口に滲む血は凍りそうだった。それでもおざなりに備え付けられた寝台の上の薄い掛け布に包まれば多少は暖かさも違うが窓辺から離れる事が出来ないでいる。指先の感覚が無くなってしまったのはもうだいぶ前の事だったがそれでも此処から動こうとは思わなかった。むしろこの寒さを感じて、雪をずっと眺めて居たいとさえ思っていた。ここに居れば寒さと痛みによって彼女に会うために残された生がある事を実感出来る。
それが確かに此処に在る事を。
彼女はまさに氷雪。雪の結晶のような様々な表情を見せ、触れれば溶けそうな雪かと思えば氷の硬さと鋭さで相手の動きを止める。彼女の纏う空気はまるで真冬の朝の様で、大きく息を吸い込むと澄み切った空気に身を締め付けられるような厳しさを味わうが、その度に自分の中の汚れた部分が昇華されていくかのようだった。
そして彼女の隣は新雪の降りしきった雪原のようだった。歩く度に綺麗な足跡が残っていくのが足元から振動で身体に伝わるかのような鮮明さを持っていて、踏みしめる度に一歩、また一歩と歩みを進めたくなる。
彼女の隣で味わうそれらの感覚が心地良く、ここまで道を共にしてきた。彼女に出会う前までは生きる事から逃げ続けてきた。それが今や彼女だけでなく仲間や場所にまで離れ難さを感じるようにまでなってしまっていた。彼女は雪が景色一面を覆い尽くして変えるように自分の常識を塗り替えて行った。
切っ掛けはあの約束。思い出したくもない事ばかりだったあの頃の中で、その瞬間は鮮明に覚えている。自分はその約束を叶えるためだけに生きていたと言っても過言ではない。そしてその約束はきっと明日を上手くやり遂げれば叶えたも同然になるだろう。決してこの機会を逃しはしない、邪魔もさせない。この身の全てを賭けて成し遂げる。
「やっと…、やっとだ。」
明日を迎える事など一眠りをしてしまえば直ぐに訪れる程の時間だが、視線を外す事が出来ずにずっと雪を眺めてしまう。早く来てほしいような、まだこの瞬間を味わいたいような二つの考えが何度も巡っては結局は窓際から動けずにいる。しかしその間にも確実に明日が近づいている。その事への喜びからなのか、寒さからなのか、どちらからともつかない自分の身体の震えに思わず口角が上がった。