二章 平穏を求めて
「ああ、この速水真九郎、一生の不覚だ……!」
街は今までいた暗く静かな廃屋とは打って変わって明るく活気づいていた。聖夜が近いせいか道行く人々の歩みは忙しないながらもその表情はどこか晴れやかだ。暗く沈み、乱れに乱れていた真九郎の心も切符を買い、食事をとり、様々な準備を整えていくうちに落ち着きを取り戻していた。そうやって心が静まっていくうちに彼の内に湧き上がってきたのは激しい自責と羞恥の念だった。
自分はなんと情けない様を晒してしまったのだ。敵の前であのように心を乱すとはまだ精進が足りない。誇りは他人に踏みにじられるものではなく、己が踏みにじるものなのだとつくづく思い知らされる。肉体が支配されたからといって精神まで支配されたわけではないではないか。精神さえ屈さなければいつか支配を振り切り、必ずや奴を滅すことができるはずだ。自責は徐々に叱咤へと変わっていく。
ああそうだ、己の誇りのためにも、そして――――真九郎は街を歩く人々に目をやる。仲睦まじそうに笑う親子、いじらしく愛を語らう恋人たち、急いでいるのか小走りで道を行くサラリーマン、誰もが真九郎には輝いて見えた。彼が守りたいと思う日々の暮らしを懸命に営む人々――――彼らのためにも、二度とあのような無様な真似は晒さない。、真九郎は硬く決意して帰路についた。
「……帰ったぞ」
真九郎は行きとはうって変わって堂々とした態度で朽ちた山小屋の扉を開いた。その手には旅に必要な品が入った袋を持っている。
すでに日は落ち、小屋の中は外よりずっと暗く寒い。
「いないのか?」
返事がないことに真九郎は首を傾げる。次第に目が暗闇に慣れると小屋の奥にある椅子に昼間と同じ姿勢で座っているカーミラの姿が浮かび上がった。しかし彼女は小屋に入ってきた彼に全く反応を示さない。よくよく見るとその目は固く閉ざされている。
「眠っている……?」
わざと音を立てて近づいてみたがそれでも目を開ける気配はない。胸が小さく、しかし規則正しく上下しているので深く眠っているだけで大事があったわけではなさそうだ。
「……で……ないで……さま……!」
吸血鬼も夢を見るのだろうか、小さく寝言まで呟いている。何かに怯えるような苦しげな表情をしているので決して良い夢ではないようだが。
立ち向かうべきと決意した相手のかような姿に真九郎は少し拍子抜けした気分になった。目の前の少女の無防備な様子は自分と対峙した時の狡猾さやしたたかさとは程遠く、代わりに触れれば壊れてしまうガラス細工のような美しさと儚さを感じさせた。
――――死んだこともないあなたには分からない。ぼんやりとした言葉と映像が真九郎の脳裏をよぎる。
同時にふと彼の心に迷いが生じた。これは、本当に自分が滅すべきものなのだろうか? そしてその迷いにどこか既視感を感じる自分に戸惑いを覚える。
惑わされるな、か弱い姿をしていても目の前の少女は人を喰らう魔物だ、と別の自分が叫ぶ。今までにもこのように美しい少女の形をとり、人を惑わし害なす化け物を相手したことは何度もあった。それらはいずれも人に恐怖や苦痛を与えることを楽しみ、血肉を貪ることを好んでいた。カーミラもその類のもののはずだ。しかし、戦闘していたときも今も彼女からはそのような素振りは見いだせなかった。やはり人食いではあっても何か毛色が違うのでは……?
「揺らぐな! 先程誓ったばかりだろう!?」
首を横に振り、声に出してこの期に及んで惑う自分を戒める。おこそう。こんな陰気な場所で一人で考え込むから妙な考えが浮かぶのだ。それに姿だけとはいえ魘されている少女の寝顔をじっと見ているというのはあまりいい趣味の良い行為とは言えない。
「おい、命じられたことは果たしたぞ。起きろ」
起こすために強い語調で呼びかけ、身体を揺さぶろうと彼女の肩に手をかけた。
「ッ!」
とたんにカーミラは目を覚まし、肩に触れた腕を強くつかんだ。眠っているときに触れられたのは彼女にとって全くの不覚だったのか、目は大きく見開かれ表情は引きつっており、こちらを見据える瞳には激しい敵意と驚愕、そして恐怖が宿っていた。
「落ち着け、拙者だ。敵ではない」
下手な動きをすれば容赦なく潰すと言わんばかりの力強さでつかまれた腕の痛みに顔をしかめながらも真九郎は落ち着いた態度で呼びかける。
「シンクロ―……?」
確かめるようにか細い声で呟くとやがて平静を取り戻したのかカーミラはつかんでいた腕をおもむろに放した。
「何ですか?」
そしていつものしかめ面に戻ると何事もなかったかのような態度で真九郎に尋ねる。
「用を済ませたので帰ってきたら貴様が眠っていたので起こした、それだけだ。しかし眠るのはよしとしても触られるまで起きないのは無警戒に過ぎはしないか? 拙者が敵だったならすでに殺しているぞ」
「……普段なら誰かが部屋に入った時点で起きるんですよ」
真九郎の忠告にカーミラは眉をひそめる。
「それができないほど今の私は消耗しているのかそれとも――――」
「何だ?」
「何でもありません」
あなたが私に敵意を持って近づかなかったのか、と言いそうになったのを飲み込み、そっぽを向く。そんなことあるはずがない。彼は自分に明確な敵意を持っている。たったの数時間でそれが変わるとは思えない。しかし眠っているときの自分の感知能力は害意や殺意には特に敏感で、かなり消耗している現状であってもそれは機能しているはずだ。つまりこの男は無防備な自分に対して全く他意なくただ起こすために触れたということ。
(おかしな男ですね)
三日前の件といい、さっきのことといい速水真九郎の行動原理は自分には理解しがたいものであるようだ。もっとも毎度毎度寝首をかきにこられても困るので好都合といえば好都合だが。
「そんなことより、ちゃんと用は済ませたんでしょうね? 見落としはありませんか? 行く前の心の乱れ様から言って命令を完遂できるのか不安だったのですがね」
そっぽを向いたまま話題を変えるべくわざと嫌味っぽい口調で言った。
「おかげさまで頭は冷えた。あのような醜態は二度とさらさん。貴様さえよければいつでも出立できるぞ。今から山を下ればすぐに京都へ向かう列車に乗れるだろう」
真九郎は少し前の自分を思い出し、苦々しく顔をゆがめながら答える。
「なら長居は無用ですね」
カーミラは小さく頷くと座っていた椅子を自らの影にしまい込み、代わりに小さなスーツケースを取り出した。
「では行きましょう。ついてきなさい従僕」
そして廃屋の扉を開きふもとの街へ向けて歩き出した。真九郎もまた渋々と、しかし迷いない足取りで後に従った。
「さぁ、そろそろこの旅の目的を話してもらおうか」
京都に向かう電車に乗り込んでしばらく、落ち着いたところで真九郎は話を切り出した。
「ふむ、まぁいい頃合いかもしれませんね」
それに答えて向かいの席で駅で購入した弁当を食べるのに悪戦苦闘していたカーミラは箸を置き、口を開いた。二人は有事にも対応できるように、そして近づきすぎないように互いに向き合う形で座っていた。
「この旅の目的を端的に言うと、人探しです」
「人探し?」
すわどんなろくでもない目的を明かすだろうかと身構えていた真九郎は意表をつかれた気分で怪訝そうな顔をする。
「どんな想像をしていたんですか……? 私が最も望んでいるのは何物にも脅かされることのない平穏な生活、人を食うことはあっても世を騒がせる気は全くありません。今回もそれを達成するための重要な要素の一つ、『太陽の克服』の手がかりを握る人物を探して日本まで来たんです」
それを語る彼女の表情は常と変わらない。しかしその暗い瞳の底に強い意志の光が瞬いていて、彼女が語るその目的は嘘偽りない本物だということを示している。
「……できるのか?」
彼女の並々ならぬ意志の一端を垣間見た真九郎は態度を居直し、尋ねた。妖怪、妖精、その他諸々の化け物たちはそれぞれの事情があれど、基本的に想念と信仰によって存在を形作られている。故に自然の理を超えた特質を持ち、力を振るえる。しかしその反面こう、と定められた弱点もまた絶対だ。吸血鬼は修練を積めば弱点を克服できるという。現に彼女は心臓と頭部のの弱点を克服している。しかし一瞬でも照らされれば消滅してしまう太陽の克服など到底不可能に思えた。
「前例があるのです。唯一人、そこに到達できた者が。その名は、屍の姫君――――」
カーミラはそう答え、『屍の姫君』について語りだす。
「千年ほど前、キョートがヘイアンキョウと呼ばれたころ、その鬼は現れたと言われています。鬼は他の化け物が忌み嫌う日の光すら意に介さず、死者を率いて何度も都を襲い、人、妖怪問わず殺して回ったそうです。人の血を啜り、屍を操る真白き髪と血の眼を持つ女の姿をした鬼。その様から彼女は人と妖怪双方から『屍の姫君』と呼び恐れられた、と――――ここまで言えば分かりますね? 今まで挙げた特徴は全て吸血鬼のもの合致します。日の光を意に介さないという一点を除けば」
語り終えたカーミラは、真九郎の意見を待つように彼をまっすぐ見据える。
「つまりそれが探し人というわけか…… しかしそれは千年も前の伝承だろう? そのような危険な存在が現存していたならこの国は今の平穏を保ってはいまい、とうの昔に倒されているはずだ」
真九郎は彼女の語る伝説を既に錆びついたもの、滅びた幻想だと率直な考えを述べた。世界に伝わる神話や伝説には余人が考える以上に多くの真実が隠されているものだが、それらのほとんどは既に滅ぼされているか封じられ、過去のものとなっている。不思議は暴かれ古きものは朽ちていくのが現代の常である。
「ええ、私もこの伝説だけならあなたと同じことを思ったでしょう。しかし、ここ数年化け物たちの間でこんな噂が流れているのです。曰く屍の姫君はキョート付近の山村に封じられていた。それが今になって封を解かれ目覚めた、と。そして、その噂は海を越え私の耳に入ったのです。火のない所に煙は立たぬ、このような大事になっているのだから何かしらの真実は含まれているはずです」
カーミラもまた彼女がこの噂を信じる理由を口にする。
「むぅ、化け物の間の噂、か…… 拙者にはまだ眉唾物のように思える。そのような大事なら化け物たちだけでなく拙者のような生業のものの耳にも届くのではないか?」
化け物には化け物なりの繋がりがあり、不思議を知る人間たちの間でも知り得ない情報が転がっているとは真九郎も聞いたことがある。しかし、それでも海を越えるような噂が本物なら人の間でも騒ぎが起こらないのはおかしいと思えた。
「ヴラド公の様に性質が変化したのかもしれません。彼もまた甦る前はあんなふざけた格好と性格ではなく、伝承通りの凶暴な吸血鬼でした。そしてこの国は少しでも騒ぎを起こせばあの死神が職権逸脱気味に殺しに来ますが、静かに暮らす分には驚くほど寛容です。まぁ、先日の我々は少し数が多すぎたので目を付けられましたけど…… 屍の姫君も触らぬ神にたたりなしと放置されているのかも。それに」
そこで彼女は言葉を切った。
「数百年彷徨ってやっと見つけた手がかり。それを眉唾だからと逃せるものですか。その力の一端だけでも掴んでみせますとも!」
そして平素と全く違う激情をはらんだ表情で力強く言い放つ。その拳は叩きつければ備え付けの椅子を容易に砕いてしまいそうなほど固く握られている。
「そう、か…… 貴様の覚悟は分かった。よく知らぬ身で疑ったこちらが悪い、謝罪する」
その言葉と表情にカーミラの確かな覚悟を感じ取り、真九郎はしつこく訝しんだ自分を恥じる。
ああ、だが自分はこの激情を、悲壮な覚悟を知っている。いつ知ったかまでは思い出せない。しかしだからこそ、その覚悟が薄氷の上に乗っているのではないか、と――――
真九郎の胸にまた彼ではない彼の想いが去来する。何故そのようなことを悩む? これの目的がどうあれ、人に害を及ぼすものでなければ従う、害を及ぼすなら支配を振り切ってでも倒す、それでよいではないか。
内心に激しい葛藤を抱えて真九郎は黙りこみ、腕を組んで唸る。
「あら殊勝ですね。そういう素直なところは嫌いではないですよ?」
命令も通りやすいですし、と真九郎が本気で自分に悪いと感じているのだと受け止め、先程の悲壮さはどこへやら目をぱちくり小首を傾げる。そして、それ以上は何も触れずに箸を取り、また弁当に悪戦苦闘し始めた。
また少し時間が経った。カーミラは未だに苦戦していて弁当箱の中身はあまり減っていない(それもそのはず、箸の持ち方が根本的に間違っている)。真九郎もまた腕を組んだまま考え込んでいて変わりがない。いや、真九郎の方は時折カーミラの手元に視線を向けている点で先程とは少し違っていた。真面目な彼は悩んでいてもそうしたところが気になるらしい。
「……箸はこう持つのだ」
とうとうしびれを切らした真九郎がカーミラの手を取り、正しい持ち方を教授し始めた。彼女の方もいきなり手を取られたことに少し驚いたが、困っていたのも確かなので素直に彼の教えを受け入れる。そしてついに零すことなく食べ物を口に運ぶことに成功した。
「……まずい」
やっとまともに口に入れられた食べ物を咀嚼し終えて飲み込むと微妙な顔をして呟いた。
「まずいなら食わなければいい。飯を食わねば困る身体でもあるまい?」
彼女のあんまりな言い草に彼は呆れて口を出す。こう人らしい仕草をされると毒気が抜かれてしまう。
「何も分かってませんね。私は人に擬態する化け物です。怪しまれないように人の世に溶け込むためには人の生活を完璧に真似なければいけません。食事はその重要な要素の一つ。甘く見た結果人の暮らしを忘れ人食いの獣に堕ちた同類は皆狩られてしまいました。それに食は日々変わるもの、『私は』、違いますが長い年月を過ごす楽しみの一つとしている同類もいます」
カーミラはすまし顔で返し、弁当を口に入れては微妙な顔をする作業を続ける。
「ふむ、そういうものか?」
半ば感心、半ば疑いをこめてそれはそれで楽しんでいそうな彼女を見つめる。
「ええ、そういうもので……」
――――ジ、ジジジジ――――ジ――――
突然、小さいがとても不快感を感じる音が耳に入る。
「何か聞こえませんでしたか?」
怪訝そうな顔でこちらを見る真九郎に尋ねる。
「何も聞こえなかったが? ……もしや敵か!?」
一歩遅れて真九郎の声にも警戒が混じる。吸血鬼の聴覚が何かを捉えたのだと気づいたからだ。
「いえ、今のところは無害なようです。しかし、気だけは張っておくように」
比較的和やかだった二人の雰囲気は一転して、三日前互いを殺し合った戦場のような鋭さへと回帰した。
(やれやれ、もう来ましたか……やはり平穏には程遠い)
人には聞こえない自然のものでない音、今のところそれは微かに聞こえただけで害はない。しかし、彼女にとって警戒態勢をとるには十分だった。
もう少し時間を空けてくるものかと思ったが、どうやら既に自分が弱っているという情報は広まっているらしい。
うんざりしながらカーミラは強さと誠実さだけは信頼できる従僕ができたことで無意識に緩んでいた心を引き締め、冷ややかなものへと変えていく。
そう、会話も食事も、人の真似事。我が本質は生存のためなら誰であろうと容赦なく始末する吸血鬼。彼を生かしたのだって、きっとそのためなのだ。