一章 最悪の目覚め
「ここは、どこだ……?」
目を覚ました真九郎は、自分が見覚えのない廃屋に横たわっていることに気づいた。
自分は工業団地跡で吸血鬼と戦っていたはずだ。そこは鉄筋コンクリートで、今横たわってるのは朽ちた木造。全く記憶に合わない。
(記憶……)
そういえば吸血鬼と戦った後どうなった?戦闘を開始してしばらくのことは覚えているが、途中からの記憶が全くない。少なくない傷を負ったはずだが、今の自分は全くの無傷。
奇妙だ。訳がわからない。
真九郎は全く理解が追いつかない状況に困惑する。
「あら、やっと目覚めましたか」
すぐそばの暗闇から少女の冷ややかな声がかけられた。その声は真九郎にこの奇妙な状況を理解させるに足りた。しかし、それは彼の望むものでは決してなく、考えつく答えの中で最悪のものだった。
真九郎は上半身を起こし、声のした方に目を向ける。そこにはゴシックロリータのドレスを身を包んだ少女が周囲の雰囲気にそぐわぬゴシック調の椅子に座り、不機嫌そうなしかめ面で彼を見つめていた。その瞳は深い海の底のように暗く、冷たい。
「貴様はカーミラ……!」
真九郎の予想は的中したに等しい。彼女こそが彼と戦闘を行った吸血鬼、カーミラ嬢だからである。そこから導かれる解答は一つ。
「やはり、拙者は敗北したのか……!」
勝利しているのならば自分が彼女を生かしておくはずがない。
「えっ?……ん、まぁあなたがそこに倒れ、私が生きてここにいるのだからあなたの敗北と言っても良いかもしれませんね」
問いに頷き、彼を絶望の淵に追いやるであろう彼女はしかし、あごに手を当て小首を傾げながらはっきりしない答えを返しただけだった。
「どういうことだ?」
カーミラの歯切れの悪い態度に真九郎は眉をひそめる。
「どういうと言われましても、あの戦いは……シンクロー、あなたまさか覚えていないんですか?」
カーミラは戸惑うように目を伏せたが、やがてはっと目を見開き彼に問い返した。。
「貴様と戦っていたことは覚えている。だがその先、結末については全く記憶がない」
「そう、ですか……これでは待ったかいがない……」
カーミラはその言葉に肩を落とし、小さな声で呟く。しかし、すぐに気を取り直して渋々ながらも言葉を続けた。
「ならば仕方ありません、私が説明してさしあげましょう。まず始めに私たちは戦いの末相討ちになりました。再生能力の限界を迎えた私と虫の息のあなたは残った力を振り絞ってお互いの胴を貫き、ほぼ同時に倒れたんです。しかし、私は死の際に意識を取り戻し、死にかけのあなたの血を吸うことで再生することができました。それからは意識を失ったままにあなたを担いで予め見繕っておいたここに辿り着いたわけです」
相手の言葉で事態を実感として飲み込めた真九郎は先程の彼女と同じように肩を落とす。吸血されていた。その事実が真九郎の心を暗く閉ざした。
吸血鬼の呪いは感染する。吸血鬼に血を吸われた者は死後吸血鬼かゾンビになって復活する。そして吸血鬼は弱点を突かれなければどんな傷を受けようとたちどころに再生してしまう。そう、致命傷を受けていながら今全くの無傷でここにいる彼の様に。速水真九郎は敗北しただけでなく、自らも人食いの化け物にその身を堕としたのだ。
「――――ならば」
死ぬしかあるまい、小さく呟くと彼は手刀を己の首に振り下ろした。首を落とせば吸血鬼は死ぬ。力を集中させればこの程度でも首を切断するには十分だ。人を殺して生き永らえる怪物になり果ててしまうくらいなら死を選ぶ、彼はその選択に全く迷いを覚えなかった。
「おやめなさい!」
しかしその行為はすんでのところでカーミラの一喝によって静止させられた。吸血鬼に血を吸われた者は血を吸った主の命令に逆らうことはできない。
「早まってはいけません」
呆れに少し怒りが混じった目つきで静止した真九郎を睨む。声も先程よりとげとげしい。
「せっかく生かしたのに勘違いで死なれては困ります。シンクロ―、あなたはまだ人間です。自死など無駄死にでしかない」
「なら!」
真九郎も負けじと鬼気迫る表情で彼女を睨みつける。
「何故拙者は無傷でここにいる! 何故貴様の命に従う!」
「それを説明する前に死のうとしたんでしょうが。話を最後まで聞かなかったのはあなたです」
激昂する彼にカーミラは肩をすくめて嘆息する。
「あなたが無傷なのは私が血を吸ったと同時に私の血を送り込んだからです。吸血鬼の血は適量であれば傷を治す効果がある。そして、あなたのお仲間のあの子の様に生きていても血を吸えば支配はできます。だから、あなたは私の同類になどなっていません」
理解できましたか?とカーミラは首を傾げた。
「拙者が吸血鬼になっていないことは分かった。だがまだ分からぬことがある。何故拙者を生かした? 血を全て吸ってしまった方が力が戻るのも早かろうに」
慎重で狡猾なこの吸血鬼が何の理由もなく自分を生かすとは考え難い。わざわざ生かしたまま自分に従うようにしたところから何か思惑があるはずだ。少し冷静さを取り戻した真九郎は未だ残る疑問を尋ねる。
「……」
カーミラは無言のまま眉間にしわを寄せ、考え込むように目を泳がせた。しかし、やがてそんなことも分からないのか、というように彼を鼻で笑った。
「ねぇシンクロ―、あなたは中途半端に戻った力でいつ襲ってくるか分からない敵に怯えて昼も眠れない逃亡生活を送るのと、昼も夜も腕の立つ従僕が守ってくれて安全に力を戻せる生活を送るのであればどちらを選びます?」
「拙者に用心棒をやれと?」
口を開くまでの少しの間が気になったが、とりあえず彼女の言葉から導き出せる答えに露骨に顔をしかめる。
「あなたに選択する権利はありませんよ? すでにあなたは私の従僕なんですから」
カーミラは意地悪く微笑む。
「しょうかたなし、か……」
化け物から人々を護るため磨いてきた技を、人食いの化け物を守るために使うのは真九郎にとって耐えがたい屈辱だった。しかし、カーミラの言う通り支配を受けている彼にはそれを拒む権利はなく、できるのはこみ上げる敗北感と自責の念を押し殺して受け入れることのみだった。
「まずキョートへ向かいます」
まだショックから立ち直れずにいる真九郎に構わず、カーミラはどこからか取り出した地図を広げて言った。
「何が目的だ?」
覇気のない声で真九郎は尋ねた。
「今の覇気のないあなたに話してもあまり意味がありません。詳しいことは今後も含めてもう少し時間を置いて話します」
「ではさっさと出発すればよかろう、拙者はそれに従うのみ」
「だから話は最後まで聞けと言ってるでしょう?そもそもここからは分かりませんが今は昼で私は出歩けません。だからあなたにはこうして私が行き先や方針を決めている間に、外で諸々の準備を整えるよう言い渡すところだったんです」
投げやり気味な真九郎の返事に、彼女はうんざりしたように顔を上げ、ため息をつく。そして再びどこからかそれ自体がかなり値が張ってそうな財布を取り出し、彼に投げ渡した。
「これで今晩中にキョートに辿り着ける切符を買ってきてください。あと余ったお金でそのぼろぼろな服の代わりと何か栄養のあるものを食べておくように。あなたは三日も寝ていて、体力も消耗しているでしょうから」
栄養失調で倒れられても困りますからね、と少し嫌味っぽく付け足す。
「……承知した」
投げ渡された財布を受け取ると、それ以上は何も言わず立ち上がる。
確かにカーミラの言うことは的確だ、今の自分はとてもではないが平気で外を歩ける服装ではなくなっているし、立ち上がっただけでめまいを覚えるほどに体力を消耗してしまっている。そしてこの乱れきった精神状態で何を聞いてもさらに心を乱してしまうだけだ。態度は渋々ながらなんら抵抗は示さず、彼は廃屋を後にした。
「やれやれ、行ったようですね……」
真九郎が完全に立ち去ったことを認めたカーミラは、深いため息をついて開いていた地図をしまった。行き先や方針などとうに決まっている。切符などその場で買えばいい。先程の言葉は彼を外出させる方便に過ぎない。
「これでやっと眠れます」
カーミラは真九郎が目覚めるまでの三日間、ずっと眠っていなかった。彼が心配だから眠れなかった、というわけではなく、無防備な姿を晒したくなかったし、危険だからだ。
吸血鬼は昼眠り、夜活動する。眠らなくても死ぬことはないがその睡眠衝動は強く、逆らうことはとても難しい。彼女は元々眠るのが嫌いなので、睡眠衝動に耐えるのは慣れているのだが、三日間起き続けているのは流石に初めてのことで大分限界に近かった。真九郎が目覚めるのがもう少し遅ければ耐えきれず眠っていたかもしれない。結果的にそうならず、一人になれる時間を作れてよかったと胸をなでおろす。
「しかし、彼があんな様になるとは全くの想定外でしたね」
眠りに堕ちる前に目覚めた後の真九郎の行動を思い出す。あの取り乱しようは三日前どれだけ傷ついても立ち上がり、向かってきた人物と同一とはとても思えない。人の話をろくに聞かず、挙げ句の果てには自害しようとまでしたのだ。止めなければ本当に死んでいただろう。
「せっかく生かしてあげたのに、腹立たしいところだけは一緒です」
心底不愉快そうに鼻を鳴らす。
あるいは固い信念とやらを打ち砕かれた者はみなああなってしまうのだろうか。同類にはそういう様に愉悦を感じる輩もいるが、彼女にはただただ不快だった。
何というか欲しかった品を手に入れたのに、実際はてんで期待外れだったというような……
「は、馬鹿馬鹿しい!あの男は私が最も嫌悪する人種じゃないですか。これはただ彼の死にたがりが気にいらないだけ」
妙な答えを出そうとする思考を打ち切って目を閉じる。自分も少々疲れているようだ
「帰ってくるころには彼も少しは落ち着いているといいのですが……」
最後にそれだけ呟くとカーミラは目を閉じた。
……眠りに落ちる寸前、彼女の足は少し震えていた