8月24日 告白の罠
意を決した。「実家」の文字をタップする。
プルルルルル、プルルルルル、プルルルルル、プルルルルル、プルルルルル、プルルルルル・・・。
「もしもし?」
聞き慣れた声に、ホッと安堵した。早速、本題に入る。
「実は、展示会に参加出来る事になったんだ」
言った所で、受話器を置く音がした。
「美里が、展示会開くって」
受話器越しに、ママへと伝える大きな声が、聞こえて来る。それに続き、ドタバタと階段を下りて来る音がした。
「えっ、何―?」
「美里が、展示会開くって」
「ええっ。凄いじゃない」
そこで、また、受話器を取る音がした。
「おめでとう。良かったわね」
その言葉で、今まで、電話を躊躇っていた理由が、分からなくなった。喜びを分かち合える人がいる事は、大切だ。
「ありがとう」
しかし、喜んでいられたのも束の間、ママの話は、すぐに、脇道へ逸れた。
「そこは、ほら、衆議院議員の誰だったかしら・・」
窓の外を眺めたり、頭の中で、この後の予定を確認したりしながら、適当に相槌を打っていた。いつもこういう時に思う事を、今回も、頭の中で繰り返す。相手の反応を気にせずに、話し続ける人の気持ちが、分からない、と。
「体に気を付けないとね」
その言葉で、我に返った。
「ありがとう」
「感謝しなさいよ」
「分かっている」
「本当、良かったわね」
「ありがとう。じゃあね」
通話終了のボタンを押した。ホッと息を吐くと、胸に温かいものが広がっている事に気付いた。
2階建ての白い建物の横にある、鉄階段の下に自転車を止めた。建物の影を出た瞬間、強烈な太陽が、降り注いだ。
花屋「HUNAKI」の前を過ぎると、ロッジ風の建物が見えた。
「コンキリエ」という看板を確認すると、その下にある、木製の、分厚いドアを押す。
カラン、カラン、カラン。
冷気に、生き返った、少しの間、その場にいた後、店内を奥へ進む。
カウンターの定位置である、右端の席に着いた。セルフサービスで、銀のピッチャーからグラスに水を汲む。
口を付けた。喉を鳴らすと、乾涸びた細胞が、1つ1つ生き返っていく。最近、全てが順調なせいで、私の人生は、ずっと、こうだったのではないかと、錯覚してしまいそうだ。遂、この間までの生活が、ぼやけて来ている・・・。
「おはようございます」
声の方を見る。莉奈ちゃんが、客席から戻って来たのだ。
「おはよう」
言った所で、次の言葉を躊躇った。躊躇った所で、どうせいつも実行するのだ。その考えに思い至ると、口を開いた。
「水木さんって、覚えている?」
「えっと、家城先生の個展の時の・・・」
「連絡があって、展示会に参加しないかって」
「凄いじゃないですか!!」
「ありがとう!!」
言った所で、客席から戻ってく来る、マスターの姿を目の端に捉えた。それをきっかけに、グラスに水を汲む。
グラスを空けた。そこで、視線を感じた。顔を上げると、莉奈ちゃんと目が合った。思わず「クスッ」と笑い合う。
「お待たせ」
目の前のお皿からは、パンケーキの良い匂いがしている。緑のソースは、抹茶だろうか。堪え切れずにフォークを手に取った。
「頂きます」
サラダを飲み込むと、胃が刺激された。さらに、空腹になる。
夏ミカンを手に取った時だ。「ハァ」という溜息が聞こえた。顔を上げる。すると、莉奈ちゃんは、俯き加減に洗い物をしていた。
「どうかした?」
莉奈ちゃんは、もう1度、溜息を吐いた後、話し始めた。
「彼氏の束縛が、厳しくて・・・」
莉奈ちゃんの彼氏の情報を、頭の中で確認する。確か、同じ学科生、同学年だが、1歳上だった。
「大変だね」
言った所で、彼女の瞳が、輝いた。
「もう、聞いて下さいよ・・・」
途中から、半分上の空で、莉奈ちゃんの話を聞いていた。幸せという膜に包まれているせいで、他人に同情する、余裕がない。思わず笑みが零れそうになった。それを隠そうとすると、その言葉が口を吐いて出た。
「今日、飲みに行かない?」
言った所で、緊張が走った。莉奈ちゃんの様子に目を見張る。唇が、ゆっくり横へ広がっていった。すると、それは、満面の笑みになった。
「良いですね」
その言葉に、ホッと安堵した。アイスコーヒーの続きを飲む。
「もう、夢が叶うなんて」
その言葉で、スッと冷静になった。ずっと、高ぶっていた神経が、漸く落ち着いた気がした。
自転車を押して、「コンキリエ」の前まで戻った。
「お待たせー」
莉奈ちゃんが、スマホから顔を上げた。「あぁ」と言って、笑う。
「預かるよ」
莉奈ちゃんが、こちらを見つめている。その事に気付くと、思わず見返してしまう。不意に、莉奈ちゃんが、「フッ」と笑みを零した。
「ありがとうございます」
言って、鞄を籠の中に入れた。
莉奈ちゃんと一緒に繁華街へ向かう。大通りを挟んだ店並は、どこも、閉店しているか、その準備中だ。皆が、仕事を終える頃、何かを始めると思うと、胸が高鳴った。
繁華街は、カラオケ店や居酒屋の電飾が、存在を濃くしていた。その中を1本の細い道に入る。道に笑い声を響かせた。すると、暫くして「Benthos」という、青い電飾が見えた。その横に設置された、地下へと続く、階段を下りる。
ノックの着いた、木製のドアを押した。その瞬間、緑と青の光に包まれた。
テーブル席にある、藻の形をした、透明の置物の間を抜けた。すると、カウンターで、店員の一真君が、グラスを拭いていた。「いらっしゃいませ。こんばんは」と言い、左頬をグッと上げた。身長160センチほど。茶色い髪を立たせている。白い肌は、照明のせいで、青白い。莉奈ちゃんの1つ下の20歳だ。「こんばんは」と言うと、席に着いた。
「ねぇ。聞いて。美里さん、展示会、開くんだって」
突然の告白に、驚いた。思わず莉奈ちゃんを見つめる。そこで、視線を感じた。仕方なく説明する。
「誘われたの。合同でだけどね」
「へぇー」
「隣駅ですよね?」
「うん」
莉奈ちゃんの質問に、必要最低限に答えていた。一真君は、絵画など、興味ないだろうから。
「時間があったら、観に行こうかな」
意外な発言に、驚いた。不意に、一真君と見つめ合っている事に気付いた。「是非」と言い、取り繕う様に微笑みを浮かべる。
「乾杯」と言い、莉奈ちゃんとグラスを合わせた。
1口、飲む。すると、胃の中が、カッと熱くなった後、アルコールが血流に乗り、全身へ巡っていく。すると、体が、弛緩した。
「そう言えば、今度、多田君の『送り出し会』開くんだ」
その声で、我に返った。
「へぇー、良いですね」
2人の話を、ぼんやり聞いていた。瑞恵さんにしろ、一真君にしろ、周りへの関心が薄そうだったため、乗り気なのが、意外だ。一真君は、孤高を愛し、群れたがらない,ロッカーだと思い込んでいたのに。
「お待たせしました」
目の前に、透明の液体の入った、グラスが用意された。
「ありがとう」
グラスの縁にあった、レモンを手に取った。
「良いなー、美里さんは」
その声で、隣の席を見る。すると、莉奈ちゃんは、グラスを見る様にしていた。そこで、改めて考えてみる。ずっと、彼女の青春が羨ましかった、と。1歳上だが、同学年だという,ややこしい彼氏との関係や、課題に追われて大変だという毎日。私が拒絶して来たものは、莉奈ちゃんの生活の中で、輝いていた。
「多田君も、観に来るんだろうし」
その言葉が、何かを含んでいる気がした。しかし、それが、何なのか、分からない。全てを曖昧にしてしまおうと、グラスの残りを飲み干した。
いつもの別れ道になると、スピードを落とした。莉奈ちゃんに向き直った。
「今日は、ありがとうね」
「こちらこそ、ありがとうございました」
「あぁ」
その大きな声に、驚いた。
「ありがとうございました」
莉奈ちゃんが、籠の中に手を伸ばしたのだ。
「じゃあ、気を付けてねー」と言い、手を振った。
「美里さんも」
思わず笑みが零れた。私も、大きく手を振り返す。
押していた、自転車に跨がった。
大通りを挟んだ店並は、その殆どがシャッターを下ろしていた。道路の傍らに自転車を止めた。次、会った時、直接、言おうと思っていた。鞄の中からスマホを取り出す。しかし、その名前を聞いてから、ずっと、頭の片隅に引っ掛かっていたのだ。電話帳の「多田稔」の文字をタップする。
プルルルルル、プルルルルル、プルルルルル、プルルルルル、プルルルルル、プルルルルル、プルルルルル、プルルルルル、プルルルルル、プルルルルル、プルルルルル、プルルルルル・・・
「もしもし?」
その声を聞いた瞬間、後悔した。微妙に上擦っていたため、徹夜明けだと分かったからだ。気を取り直すと、早速、本題に入る。
「私、美里です。実は、今度、展示会に参加出来る事になって・・・」
どういう反応が返って来るか、不安だった。ずっと、この瞬間を恐れていたのだ。
「凄いじゃん。今、外?」
「『ベントス』からの帰り」
「僕も、近くにいるんだ。良かったら、ファミレスかどこかで、落ち合わない?」
「良いよ」
「フフフフ」
その笑い方で、心から喜んでくれているのだと分かる。すると、私まで、嬉しくなって来た。
「フフフ。じゃあ、ファミレスでね」
「じゃあね」
通話終了のボタンを押した。すると、心に爽やかな風を感じた。気温の下がった、夜風が、酔いを醒ましていく。
店へ近づくに連れ、足取りが、重くなった。
1度、深呼吸した。緑の縁のドアを押す。
カラン、カラン、カラン。
「いらっしゃいませ。1名様ですか?」
店員の顔に張り付いた、満面の笑みが、怖い。
「待ち合わせをしていて」
「では、中へどうぞ」
軽く会釈した後、腕全体で差し示された方へ、進む。
暫くした所で、立ち止まった。辺りを見回してみる。すると、黒髪で、白のシャツ姿の男性が、俯き加減にしていた。
意を決した。「お待たせ」と言い、彼の前の席に座る。すると、稔さんが、顔を上げた。
「やぁ」
言って、笑みを浮かべた。
その瞬間、今までの憂鬱が、パッと消えたのだった。
「すみません」
稔さんが、店員を呼び止めてくれた。
「畏まりました」
「奢るよ。アイスコーヒーだけど」
「ありがとう」
「・・・今、大学からの帰りなんだ」
「そうなんだ」
「・・・本当に、おめでとう」
「ありがとう」
「いつから?」
「○月○日」
「そっか」
「美里ちゃんの絵が、たくさんの人に観て貰えるなんて、僕も、嬉しいよ」
「へへへへ」
「フフフフ」
「お待たせしました」
「では、改めて」
「乾杯」と言うと、グラスを合わせる。
グイッと飲んだ。冷たい液体に、酔いが醒めていく。
「あぁ」
その大声に、驚いた。
「そう言えば、野菜、届いたよ」
思い掛けない展開に、今まで忘れていた、苛立ちを覚える。
「へぇー」
落ち着こうと、アイスコーヒーに口を付ける。
「良かったら、食べに来ない? お祝いも兼ねて」
なぜ、私が食べに行くのか! 怒りを押さえ込んだ。「良いよ」と言って、笑みを浮かべる。すると、稔さんが、ムッとした。
「何で、稔さんが、怒るの?」
「親切心で言っているのに」
「だから、いらないって」
「美里ちゃんって、本当、恵まれているよね」
それは、蔑む様な目だった。その目を見ていると、不意に、カッと怒りが込み上げた。すると、その言葉が口を吐いて出た。
「音楽で上手くいかなかったからって、嫉妬しないでよ」
稔さんは、一瞬、その場で硬直した後、口を開こうとした。しかし、すぐに、諦めた様だった。机の下で、何やらごそごそしている。
「有り得ないよ」
その言葉で、自分の発言を後悔した。稔さんが、勢い良く席を立った。
目の前を手が過ぎった。伝票を取ったのだ。
私とは、もう、無関係だという様に、足早にこの場を立ち去っていく。私は、ただ、その様子を見ていた。
アイスコーヒーを全部、飲み干した。1度、深呼吸すると、席を立つ。
カラン、カラン、カラン。
一気に、奈落の底へ突き落とされた様な気分だった。先程までの高揚感が、嘘だったかの様に、足取りが,重い。駐輪場に止めていた、自転車の鍵を外す。この作業すら、億劫だ。スタンドを蹴る。
乗れる所まで押す。サドルに跨がった。。ペダルを踏み込む。
憂鬱は、時間が経つに連れ、大きくのし掛かって来た。先程のやり取りが、頭の中で再現される。しかし、肝心な部分には、いつも靄が掛かっているのだった。何度も繰り返しているうちに、どんどん記憶が、ぼやけていく。
いつもの倍ほど、掛かったのではないか。駐輪場に自転車を止める。
1歩、歩く度に、足を半歩、引き摺られている様な気分だった。自動ドアを通る。
習慣で、ポストの中から手紙を取り出した。その瞬間、周りの景色が、鮮明になって目に飛び込んで来た。カッと怒りが込み上げる。なんて、酷い奴だ! 何もかも、自業自得ではないか! そう思った所で、また、怒りの波が、スッと引いていった。
チン。
エレベータに乗り込んだ。4階のボタンを押した。側壁に凭れ掛かる。
ゴン。
頭を打ち付けた瞬間だけ、現実から解放される気がした。夢中になって側壁に打ち付ける。
ゴン、ゴン。
チン。
その到着音で、頭突きを止めた。すると、また、憂鬱が、戻って来たのだった。
部屋の鍵を開けた。
電気を点ける。鞄を足下に置くと、冷蔵庫の中からウォッカの瓶を取り出した。蓋を開けると、直接、口を付けた。
数口、飲んだ所で、吐き気がした。急いでトイレへ駆け込む。
便座を上げた瞬間、今、飲んだウォッカが、逆流する。それに続き、今日、食べた物が出て来た。
漸く吐き気が止んだ。そこで、便器の中の茶色い塊に気付いた。先程のアイスコーヒーだ。それが、分かると、また、吐き気が襲った。
思考が停止し、何も考えられない。その場にへたり込んでいると、不意に、心地良い風を感じた。これが、解放というものか。
体に鉛がついているかの様に、全身が重く、何をするのも、億劫で仕方ない。それでも、無理矢理に習慣を繰り返した。シャワーの蛇口を捻る。
熱湯が、顔を叩く。私の後悔、自己嫌悪や怒りなど、余計な感情全てを連れ去ってくれる気がした。
浴室を出た瞬間、空間の歪みを感じた。憂鬱が、戻って来たのだ。
いつもよりも時間を掛けて、習慣を繰り返す。
キッチンには、ウォッカの瓶が、出しっ放しになっていた。
1センチほどグラスに汲んだ。グイッと飲むと、空きっ腹に、酔いが回る。
ウォッカの瓶を冷蔵庫の中に片付けた。代わりに、ペットボトルの水を取り出す。
口を付けた。喉を鳴らすと、乾涸らびた細胞が、生き返っていく。先程、胃の中の物を、全部、出し切ったため、体が、水分を求めていたのだ。
丸々、1本、飲み干した。喉の乾きが止まった。すると、また、憂鬱が、戻って来たのだった。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。




