8月7日 希望の泡
ゴロゴロゴロゴロ。
轟音で、スマホから顔を上げた。窓の外には、灰色の、分厚い雲が垂れ込めている。手元に視線を落とす。すると、そこには、稔さんからのメールがあった。バイトが早く終わるため、リニューアルオープンしたフランス料理店へ行かないかという内容だ。天候の悪さと、偶に訪れる虚無感が酷く、今日は、1日中、部屋の中にいる予定だった。スマホを、ガラステーブルの上に置いた。ベッドへ倒れ込む。
暫くすると、ポツリ、ポツリ雨の降り出す音がした。
強烈な光で、目が覚めた。どうやら、眠り込んでいた様だ。ベッドから起き上がる。
窓の外には、先程の雨が嘘だったかの様に、何食わぬ顔で太陽が輝いていた。一眠りしたからか、気分も回復している。
スマホを、ガラステーブルの上に置いた。
クローゼットの中の服は、何度、見た所で、変わらない。
それが、分かると、薔薇飾りの付いた、グレーのワンピースを取り出した。
エアコンの電源を切った。
玄関口に鞄を置いた。下駄箱の中から、リボンのついた、黒のサンダルを取り出す。
足を通す。すると、よろけた。普段は、スニーカーばかり履いているため、少しヒールがあるだけで、バランスが危うくなる。
玄関口の全身鏡で、最終確認する。この髪型も、メイクも、ドレスも、靴も、全てが、お馴染みの組み合わせだ。その事にげんなりする。1度、深呼吸した。ドアを開ける。
チン。
エレベータを降りた。
閑散とした廊下を歩く。
エントランスを抜けた瞬間、強烈な太陽が、照り付けた。16時を過ぎているが、太陽は、全然、衰えを見せない。
不意に、足を止めた。その場で少しの間、考えた後、また、歩を進めた。
駐輪場に止めていた、自転車の鍵を外した。乗れる所まで押す。サドルに跨がる。ペダルを踏み込んだ。
自転車を漕ぎ出して、すぐに、後悔した。スカートが、捲れ上がって来そうで、気になるのだ。戻って、タクシーに乗り直そうか。前回は、どうしていただろう。確か、前回は・・・。そんな事を考えているうちに、大通りへ出てしまった。私は、始めから、タクシーに乗り換える気など、なかったのかもしれない。だとすれば、今までの事は、まるで、自作自演だ。そこで、急ブレーキを掛けた。一気に、汗が吹き出す。サラリーマンは、何事もなかったかの様に、通りを横切っていた。それが、分かると、また、ペダルを踏み込む。
2階建ての白い建物や、ロッジ風の喫茶店の前を過ぎると、次第に、店の数が増えた。10分ほどすると、繁華街に出た。すると、そこは、サラリーマンやショッピング客で賑わっていた。その中を飲食店が多く立ち並ぶ、1本の通りへ入った。それから、少しすると、青、白と赤の国旗が見えた。
その建物の裏には、駐車スペースが3つある。そのうちの1つが、バイクと自転車用だ。
駐輪場に自転車を止めた。手の甲で、流れ落ちる汗を拭う。
玄関口に、稔さんの姿はまだない。それが、分かると、道路の方へ向き直った。日が長いのは、良いが、肌に纏わりつく様な暑さは、不快だ。そう言えばここへは、こんな時期にばかり来ている。確か、前回は、極寒の2月だった。悴む様な寒さの中、小刻みに足踏みしていたのだ・・・。
「ごめん。お待たせ」
その声で、我に返った。稔さんが、小走りでこちらへやって来る。黒のベストから覗く、赤のハンカチが、お洒落だ。そう考えているうちに、目の前まで来ていた。
「待った?」
軽く息が切れている。急いで来てくれた事に、好感を持った。
「今、来た所」
「そっか。教授が、中々、見つからなかったんだよ」
稔さんが、腕全体でドアの方へ促した。それに倣い、ドアを引く。
「いらっしゃいませ。2名様ですか?」
「はい」
稔さんが、店員とやり取りしている間、私は、店内を見回してみた。赤いカーペットや白い壁紙が、新しくなっている。しかし、シャンデリアや絵画など、装飾品は以前のままだ・・・。
「お席にご案内致します」
その声で、我に返った。
天井からは、以前と同じ、豪華なシャンデリアが、ぶら下がっている。
「どうぞ」
その声で、我に返った。引かれた椅子に、おずおず腰を下ろす。
「本日のお勧めは、○○となっていて・・」
一通り料理の説明を聞いた後、メニュー表を手に取った。
「合うのは、こちらのワインですよね?」
稔さんと店員のやり取りに苛立ちが募る。前回は、「良く分からないね」と言い合いながら、お勧めの物に決めたのに! 稔さんは、すっかり都会に熟れてしまった! そこで、視線を感じた。話を聞いていなかったため、どれを選ぶべきか、分からない! 仕方なく、以前と同じ様、お勧めの物を頼んだ。
「蒸し鶏の・・・」
「畏まりました」
、一旦、落ち着こうと、グラスに口を付ける。私は、以前のままだ・・・。
「お待たせしました」
その声で、顔を上げた。稔さんのグラスに、シャンパンが注がれたのだ。
「乾杯」と言い、グラスを合わせた。
グイッと飲むと、空っぽの胃の中をアルコールが刺激する。
「今日は、ごめんね」
「ううん。私も、着いた所だったし」
「校内を探し回っていたんだよ」
稔さんは、教授の助手のバイトをしているのだ。学部生の小テストの採点や、配布物のコピーなど、雑用全般という仕事内容だそうだ。
「大変だね」
「本当、参るよ」
不意に、その笑みが、顔に張りついた、薄っぺらなものに思えた。
シャンパンを飲んでいる間も、アラカルトを食べている時も、その事が、頭の片隅に引っ掛かっていた。そして、メイン料理の、蒸し鶏を頬張った時、遂に、その考えに思い至った。稔さんは、口では、大変だと言いながらも、心の底では、そんな生活を楽しんでいるのだ、と。すると、カッと怒りが込み上げた。
私が怒る事ではないと分かっているが、苛立ちを抑え切れない! 稔さんが、私に堂々と嘘を吐いた! 今まで、私達の間に、隠し事はなかった筈だ! 苛立ちを押さえ込み、ナイフとフォークを動かす。
「美里ちゃんは、最近、どう?」
「まだ、描いていない」
「大変そうだよね。1から考えるなんて」
「うーん・・・」
「僕なんて、始めからあるものを、始めからある、別のものに変換しているよ」
「フフフフ」
「あぁ。そう言えばね。これって・・・」
稔さんの饒舌の中に、溜息を紛れ込ませた。
街は、すっかり日が暮れ、先程までぼんやりしていた電飾が、存在を濃くしている。稔さんに合わせ、自転車を押して歩いていた。
「また、発表あるんだよ」
「そうなんだ」
何に対しても、興味を持っていると、私というものが、どんどん薄れ、この宵闇の中に消えていく気がした。それは、素晴らしい事だ。そこで、稔さんが、歩を緩めた。
彼と向き合った瞬間、胸が高鳴った。
「今日は、来てくれて、ありがとう」
「うん」
「これから、帰ったら、レポート、仕上げなきゃ」
「頑張ってね」
「ありがとう。気を付けてね」
「うん」
「じゃあ」
言って、手を振った。
「じゃあね」
言って、手を振り返す。稔さんが、前に向き直る。と同時に、押していた、自転車に跨がった。
繁華街を抜けた所で、不意に、寂しさを感じた。私は、一体、何を期待したのか。
駐輪場に自転車を止めた。
エントランスへ向かいながら、ぼんやり考えた。数時間だけ予定がある時、いつも物足りなさを感じる、と。まるで、心にぽっかり穴が開いたかの様だ。すると、「フッ」と笑みが零れた。自動ドアを通る。
ポストの中から手紙を取り出した。それを確認しながら歩いていると、その中にかっちりした、封筒があった。手紙を裏向けた。その瞬間、手が震えた。
家城先生から、招待状が届くなんて、信じられない! 思わず飛び跳ねそうになり、自分が、今、いる場所を思い出した。ジッとしていると、体が疼く。
チン。
不意に、我に返った。どうやら、手紙を手に、部屋の中に立ち尽くしていた様だ。エレベータを降りてからの、記憶がない! 引き出しの中から鋏を取り出した。封を慎重に切る。
不意に、足を止めた。どうやら、部屋の中を歩き回っていた様だ。
手紙を、ガラステーブルの上に、丁寧に置いた。「やった」と小さく叫ぶ。
思わずスキップしていた。
冷蔵庫の中から、ウォッカの瓶を取り出す。グラスに注いでいると、不意に、笑いが込み上げて来た。瓶の中身を半分ほど、床の上にぶちまけてしまう。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。




