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9月21日 空港の青

 ピピピピピ、ピピピピピ、ピピピピピ、ピピピピピ、ピピピピピ、ピピピピピ、ピピピピピ、ピピピピピ・・・。

 アラームを止めた。

 気持ちが落ち着いた所で、ベッドから起き上がる。

 少し酔いが、残っているが、体調は良好だ。ブラインドを開けた瞬間、眩しい、太陽の光が、差し込んだ。

 冷蔵庫の中から、水の入ったペットボトルを取り出した。口を付ける。喉を鳴らすと、乾涸らびていた、細胞1つ1つが、生き返っていく。

 化粧まで済ませると、クローゼットを開けた。深緑のカーディガンに手を伸ばした時、その隣の黄色いワンピースに気付いた――フランス料理店の後、稔さんが通う予定の大学へ立ち寄った。学内には、入らず、中庭を抜けた。大学裏には、手入れのされていない、枯れ草が、茫々と覆い茂っていた。どこまで続いているのか。青い空の下、好奇心に突き動かされ、ずんずん歩いていた。すると、突然、パッと視界が開けた。そこで、何か言われた気がした。振り返る。

「そのワンピースが、似ているなって」

彼の表情を見ていると、不意に、その言葉を思い付いた。口にする。

「インディアンカナリーラス」

稔さんの目が、見開いた。

「よく分かったね」

彼の表情は、笑みへと変わっていた――


 目の前に、黒のワゴンが止まった。ロック解除の音がすると、ドアを開けた。車内へ乗り込む。すると、マスターが、「おはよう」と言って、笑みを浮かべた。私も、「おはよう」と言って、笑い返した。

 シートベルトを締めた。そこで、エンジンが掛かった。走り出す。

 他愛ない話も、大通りを走っているうちに、徐々に、減った。住宅街に入ると、マスターが運転する横で、私は、ぼんやり窓の外を眺めていた。何か特別な感情が沸くのではないか。そう期待したが、取り止めのない考えが、浮かんでは、消えていくだけだ。深紅の屋根やコンクリート壁などが永遠と続く中、不意に、鮮やかな赤のキャリーバッグが目に飛び込んで来た。


 バックミラーの中に映る、2人の姿をぼんやり見ていた。

 話声がぴったり止んだかと思うと、続いて、ドアが開いた。稔さんとマスターが、それぞれ後部座席と運転席に乗り込んだのだ。

 「おはよう」

声の方を振り返ろうとした時、バックミラーの中に、稔さんの姿が、映った。私も、「おはよう」と言って、笑い返す。


 土日とだけあって、大通りは空いている。しかし、そう思ったのも束の間、次第に、車の数が増えた。そして、空港近くになると、遅々として進まなくなった。

「間に合うよね?」

「大分、余裕ありますよ」

ラジオでは、男性販売員と女性アシスタントが、掃除機の凄さについて話している。

「そうだ」

声がしたかと思うと、バックミラーの中に、稔さんの姿が、映った。後ろに身を乗り出し、何やらごそごそしている。

「お土産、扇子にしたんだけど、どうかな?」

その声で、後部座席を振り返った。すると、稔さんは、手に持っていた屏風を、こちらに倒して見せてくれた。そこには、紫の背景に、2羽の鳳凰が描かれていた。すると、その言葉が口を吐いて出た。

「綺麗」

「店員さんに聞いたら、これが、良いって言うから」

「やっぱり、伝統的な物が、喜ばれるんだ?」

マスターが、口を挟んだ。

「みたいですよ」

「今朝から、急に、寒くなって。向こうは温かいの?」

「春ぐらいみたいですよ」

「羨ましいな」

黙り込んだ分、自分の鼓動が、大きく体の内側に響く。気持ちを落ち着けようと、前の車を見つめていた。動け、動け・・・。

「あっ」

その声で、我に返った。前の車が、進んだのだ。


 渋滞は、一時的なものだった様だ。大した遅れもなく、無事、空港へと辿り着いた。稔さんと一緒に一足先に、空港内へ足を踏み入れる。

 キャリーバッグや大きな鞄を持った、たくさんの人が、行き交う中、空港内を進む。

「えっと、どこだったかな」

勝手が分からないため、稔さんの様子を見守る。

「あぁ、あそこだ。荷物を預けて来るよ」

「分かった」

 

 近くの椅子に座り、2人の到着を待っていた。遙か斜め前では、ヒップホップ風の格好をした、男性が、警備員と話している。学生だろうか。見た目は、やんちゃそうだが、何度も頭を下げていて、礼儀正しい。普段は、真面目なのかもしれない。そこで、賑やかな声の方を見た。50代の綺麗目な格好の女性達が、パンフレットを手に、話に花を咲かせている。「イ・ビョンホン」と聞こえたため、韓流の追っ掛けだろう。ここにいる人達は、皆、生き生している様に見える。しかし、私に焦燥感はなかった。なぜなら、ここにいる人達とは違い、どこにも行かないのだから。

「あぁ」

声の方を見る。すると、マスターが、軽く手を上げた。


 「混んでたよ」

言って、隣の席に座った。

「ありがとう。稔さん、今、手続きしている所」

「そっか。人、多いなー」

「だねー」

他愛ない話は、言った側から、ふわりと喧噪の中に掻き消されていく。

 途中から、マスターの話が全く入ってこなくなり、自分自身も、何を話しているのか分からなかった。しかし、体が、勝手にいつもの感覚を繰り返し、相槌を打ったり、笑ったりしていた。もしかしたら、私や私以外。宇宙、全ての物は、意識よりももっと深い、無意識の力によって、動かされているのではないか。だから、私達が、少しくらい藻掻いた所で、何も変えられないのかもしれない・・・。

「ごめんなさい。お待たせしました」

稔さんの声が、鮮明に耳に響いた。



 セキュリティチェック所の前で、何となく立ち止まった。そこで、マスターが、口を開いた。

「じゃあ。中には、色々あるみたいだし。ご飯も食べて」

「フフフフ。写真、送りますよ」

「ハハハハ。ありがとう。楽しみだよ」

そこで、稔さんと目が合った。

「頑張ってね」

「ありがとう」

「あぁ、そう言えばね・・・」

カーキのブーツは、中が、グレーのフェルト生地だ。緑のタグには、赤のロゴがある。そこで、視線を感じた。顔を上げると、稔さんと目が合った。

「行ってらっしゃい」

「行ってきます」

言うと、稔さんは、また、マスターの方に視線をやった。

「気を付けて」

「じゃあ」

稔さんが、回れ右する。そう思った所で、「行こうか」と声がした。

「うん」

言うと、殆ど反射的に回れ右した。

 マスターに歩調を合わせながらも、他に何か言うべき事がある気がしていた。

「待って、待って」

先程から、ずっと、誰かを呼んでいるのだ。不意に、それが、私たちの事だと気付いた。振り返る。すると、そこには、稔さんがいた、膝に手を着き、軽く息を切らせていた。

「先に車、出して来るよ」

マスターが、この場を立ち去る様子を肌で感じながらも、稔さんを見ていた。

「言い忘れた事が、あると思って」

「何?」

胸が高鳴る。

「僕が、上京してから、美里ちゃんには、色々、お世話になったし、色々、話したよね」

話の先が見えず、何となく俯く。

「最近は、ぎくしゃくしてたけど・・・。昨日から、考えていたんだよ。もしかして、何か言いたい事があった?」

その言葉で、顔を上げた。稔さんが、答えを持っているのではないか、という気がして、彼から目が離せなかった。不意に、稔さんが、視線を逸らせた。

「今日、2人が、見送りに来てくれなかったら、旅立ちは、1人切りだったよ・・・」

稔さんの饒舌を聞き流しながらも、その答えを必死に探していた。

「そろそろ行かなきゃ・・・」

言葉は、まだ、見付からない。

「行くよ」

稔さんが、体の向きを変えようとしたのが分かると、「あっ」と声が出た。

「何?」

稔さんの目が、大きく見開いた。しかし、私の口から出たのは、陳腐な言葉だった。

「気を付けてね」

「ありがとう」

眉が下がり、頬には、ほうれい線がくっきり現われている。稔さんは、何かを諦めたのだ。それが、分かると、胸が締め付けられた。稔さんは、「じゃあね」と言うと、小さく手を振った。私も、反射的に手を振り返す。

 稔さんが、今度こそ、回れ右する。何か言わなければいけない。そう思い、口を開こうとした時、その考えを閃いた。私が求めていたものは、全て、過去なのだ、と。それが、胸の奥底にまで下りて来た。すると、そこに温かいものが広がった。不意に、稔さんが、こちらを振り返った。その瞬間、今までの躊躇いや不安が、パッと消えたのだった。もう、何も怖いものはない。それが、分かると、体の奧底から力が沸き上がって来た。

「行ってらっしゃい」

大きな声が出た。大きく手を振る。稔さんは、一瞬の後、表情を崩した。

「行ってきます」

「頑張ってね」

「ありがとう。手紙、書くよ」

大きく手を振り合った。

「分かった」

それが、今の私達の全てだった。これから、どんな未来が待っているか、分からないが、今なら、明るい未来を信じられる。稔さんが、回れ右した。それを確認すると、私も、胸に温かいものを感じながら、マスターが待つ、黒の車へ向かう。窓から差し込む、柔らかい太陽の光が、明るい未来への啓示の様だ。


最後までお読み頂き、ありがとうございました。



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