9月20日 別れの宴
稔さんと出合ってから、私が作り上げて来た世界が、つまらなくなった。真っ白なキャンバスも、今まで集めて来た、たくさんの絵の具も、私がいる場所は、アトリエという小さな部屋の中だ。そう考え、稔さんと一緒にいる、大きな世界に憧れるようになったーー今となっては、その記憶は、遙か遠く、良く思い出せない。自分の居場所やすべき仕事がある事は、幸せだ、と思う。筆を置いた。脱力する。
もう、頭の中で思い描いていた、理想の街は、思い出せない。今なら分かる。目の前にあるものこそが、私の理想だ、と。
ドアを開ける、すると、青空に、ちぎれ雲が浮かんでいた。その長閑な景色に、気持ちが和む。
カン、カン、カン。
花屋「HUNAKI」の前を過ぎた。
「コンキリエ」という白いペンキで描かれた、看板を確認した。その下にある、木製の、分厚いドアを押す。
カラン、カラン、カラン。
冷気が、押し寄せた。そこで、踏み出そうとした、足を止めた。定位置の席に、サラリーマンらしき、スーツ姿の男性がいたのだ。
その反対側、カウンターの左端の席に着いた。すると、カウンターにいた、マスターが、「いらっしゃい」と言って、笑みを浮かべた。
「何か、軽いものを」
「じゃあ、紅葉のピザなんか、どう?」
「じゃあ、それを」
「はいよ」
準備は、出来ていた様だ。マスターは、早速、まな板の上にあった生地に、トッピングを始めた。
「ランチ?」
声の方を見る。瑞恵さんが、客席から戻って来たのだ。
「はい」
コーヒーを入れながら、言葉を続ける。
「そういや、やっと模様替えが終わったのよ。何か、1ヶ月くらい、掛かっちゃったけど」
「へぇー。そうなんだ」
他愛ない話に、気持ちが落ち着いていく。愈々、「送り出し会」だと思うと、今朝から、ずっと、そわそわしていた。
「まぁ、元々、半分は終わっていたんだけどね」
「お待たせ」
目の前のお皿からは、チーズの芳ばしい匂いがしている。
「ちゃんと食べられるよ」
その声で、顔を上げる。目尻が、顔の端まで広がり、口角が、グッと上がっている。マスターは、自信があるのだろう。一瞬、そう考えた後、「うん」と言って、笑い返した。
早速、ピザを1切れ、お皿に取る。
「頂きます」
言って、先端を囓った。そこで、慌ててグラスに口を付けた。とろけるチーズが、熱々になっていたのだ。
「どう?」
慌てて水で流し込んだ。
「美味しい」
雑談が、一段落すると、手持ち分沙汰になった。今日は、早めに閉店し、準備する事になっている。13時に朝食兼昼食を取ったため、閉店までは、まだ、たっぷり時間がある。それだけを確認すると、カウンターに突っ伏した。
カラン、カラン、カラン。
ベルの音で、顔を上げた。振り返る。すると、そこには、莉奈ちゃんがいた。深紅のコートからは、チェック柄のスカートが、覗いている。時間を持て余していたため、テンションが上がる、私とは対照的に、莉奈ちゃん表情が、みるみる苦渋に満ちていった。
「この間は、すいませんでした」
その大声に、驚いた。そこで、思い出した。この間、莉奈ちゃんが、バーで酔い潰れたのだ、と。
莉奈ちゃんが、ドサッと隣の席に座った。そこで、瑞恵さんが、口を開いた。
「ご注文は?」
「カフェラテを」
「はい」
「本当、すみません。翌朝は、ずっと、トイレから出られなくて・・・」
遂、微笑みを浮かべてしまう。無責任かもしれないが、私の中では、それは、ずっと、遠い記憶になっていた。
「あぁー」
その大声に、驚いた。莉奈ちゃんが、カウンターに突っ伏した様だ。
「お待たせしました」
瑞恵さんが、莉奈ちゃんの前にカップを置いた。しかし、莉奈ちゃんは、カウンターに突っ伏したままだ。そこで、瑞恵さんと目が合った。「クスッ」と笑い合う。
暫くして、莉奈ちゃんが、徐に、起き上がった。
「買ってきましたよ」
何の話だろう。そう思って見ていた。すると、莉奈ちゃんが、カウンターの上にあった、ビニール袋を手に取った。
その中から出て来たのは、金銀モールやふわふわの薔薇飾りなどの、飾り付けだった。飾り付けの購入は、莉奈ちゃんの役割になっていたのだ。
不意に、周りが、静かになっている事に気付いた。店内を見回してみる。すると、いつの間にか、お客さんが、いなくなっていた。そこで、マスターが、店の札を「CLOSED」に替えた。
事前に決まっていた、担当作業に別れる。
「うーん」
何の話だろう。そう思い、声の方を見る。すると、瑞恵さんも、こちらに気付いた様だった。
「あぁ」
テーブルを1つ持った。
「ごめんね。力仕事」
声の方を見る。口元には、笑みが浮かんでいるが、眉が下がっている。マスターに「平気」と言って、笑い返す。やはり、テーブルは、先に集めた方が良いだろう、という事になった。そこで、比較的手の空いていた私が、その役割に選ばれたのだ。偶に体力仕事をすると、体を動かす事の楽しさを思い出す。
残り、3分の2ほどだ。それだけを確認すると、また、1つ、テーブルを持った。
「置いておいても、良いよ。一真君も、来るだろうし」
「うん」
カラン、カラン、カラン。
ベルの音に続き、「こんにちは」と声がした。テーブルを、置くべき場所へ置いた。カウンターに置いた、白のボックスケースからは、酒瓶のぶつかり合う、小気味良い音がした。
「代りますよ」
「ありがとう」
言うと、一真君と役割を交代した。
「こっちから、付けていけば、良い?」
莉奈ちゃんが、こちらを振り返った。
「あぁ、ありがとうございます」
それから、1時間半が過ぎた頃には、店内に、すっかり芳ばしい匂いが立ち込めていた。一真君は、用があり、一旦、出ている。この頃には、私達も、飾り付けを終え、テーブルセッティングに取り掛かっていた。
カラン、カラン、カラン。
「こんにちは」
「凄いね」
声の方を見る。すると、ドアの前には、舟木夫妻がいた。由香さんが抱えている、花束は、彼女の顔の倍ほどの大きさはある。
「あれも、これも、って思っていたら、どんどん大きくなっちゃって・・・」
誠二さんは、彼女の様子を微笑ましそうに見守っている。
柱には、ふわふわの薔薇飾り、窓枠には、金銀モールや折り紙の輪っか。まるで、小学生の「お楽しみ会」の様だ。違う所と言えば、テ-ブルの横に、酒瓶の入った、白のボックスケースがある事くらいだ。一真君と莉奈ちゃんが、ロックバンドについて、話し始めた。少し聞いてみるが、やはり、分からない。
何となくクラッカーを手で弄んでいた。
カランカランカラン。
ベルの音がした。慌ててクラッカーの紐を引く。
破裂音が、耳をつんざく。
「見繕ったの。ちょっと、大きいけどね」
「ありがとうございます」
声の方を見る。すると、由香さんが、稔さんに花束を手渡していた。稔さんは、少しの間、頭を掻いていた後、口を開いた。
「でも、明日から、こっちを離れるから・・・」
「そうだ・・・」
由香さんの表情から、笑みが消えた。今、その事に思い至ったのだろう。
「良かったら、貰うけど?」
声の方を見る。額が、テカテカと脂ぎり、口角が、グッと上がっている。マスターは、楽しんでいるに違いない。
「知っていたなら、言ってよ」
そのツッコミで、店内にドッと笑いが起こった。
真ん中に固めた、テーブルを囲んだ。それぞれが、ボックスケースの中から好きな酒瓶を開ける中、私も、ジンの瓶の蓋を開けた。全て、「ベントス」からの奢りだそうだ。
「やるねぇ」
その声で、顔を上げた。すると、そこには、マスターの笑みがあった。テーブルの席順は、右回りに、誠二さん、由香さん、瑞恵さん、マスター、稔さん、一真君、莉奈ちゃん、そして、私となっていた。そこで、カウンターにある、銀のピッチャーに気付いた。
皆の飲み物が、揃った。マスターが、挨拶を促した。
「折角だから、一言、どうぞ」
稔さんが、おずおず席を立つ。そこで、由香さんが、「よっ」と合いの手を入れた。すると、稔さんは、少の間、頭を掻いていた後、口を開いた。
「えー・・・、今日は、わざわざお集まり頂き、ありがとうございます」
マスターが、「よっ」と合いの手を入れる。それに続き、誠二さんが、「ヒュ-」と口笛を吹いた。すると、稔さんは、また、頭を掻いた後、話を続けた。
「半年間と短い間でしたが、皆さんには、大変よくして頂いて、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ホームシックにならない様に気を付けますよ」
稔さんが、社交的になる度に、私は、人間としての違いに気付く。皆の笑い声と自分自身の笑い声が、私の心許なさを紛らしていく。
「乾杯」
その掛け声で、隣の席の莉奈ちゃんと、グラスを合わせた。そこで、視線を感じた。反対隣の席の誠二さんとも、乾杯する。
テーブルには、シーザーサラダ、オニオンサラダ、チーズの盛り合わせ、温野菜のピザ、魚介類のピザ、グラタンとピラフなどが、所狭しに並んでいる。席から近かった、魚介類のピザを1切れ、お皿に取った。
「頂きます」
言って、先程よりも慎重に、ピザの先端を囓った。そこで、慌ててグラスに口を付ける。これだけ気を付けていても、やはり、ピザが、熱々だったのだ。一気に、ジンを半分ほど、飲み干した。
「美味しい」
その声で、隣の席を見た。莉奈ちゃんも、同じ物を食べていた様だ。口を開く。
「美味しいね。・・・そういや、絵を描いていたんだ」
お酒のせいか、この雰囲気のせいか、饒舌になっている。
「完成したんですか?」
その言葉で、自分の発言を、後悔した。恐れを知らない、莉奈ちゃんの純粋さが、怖い。前に向き直ると、「まぁね」と答えた。
「また、観せて下さい」
声の方を振り返った。莉奈ちゃんの真っ直ぐな目に、これからこの真っ直ぐさで、傷ついていくのだろうかと、考えてみる。
「送り出し会」開始から、1時間半が過ぎた頃には、テーブルの上の大半の料理が、平らげられていた。それぞれ好きな場所へ散る中、稔さんが、席を立つのを目の端に捉えた。残りのピザを口に入れる。
「由香の方が、怖いよな?」
声の方を見る。すると、そこには、、誠二さんの笑みがあった。一瞬の後、分かった。先程から言い合っている、怒ると、誠二さんと由香さんのどちらが、怖いか、という話しだ、と。
「うーん。どうかな」
「ほら、怖いって」
「そんな事ないでしょー」
言って、由香さんが、誠二さんの肩を軽く押した。その様子を目の端に捉えると、少し酔いを覚まそうと、席を立った。
カウンターにある、銀のピッチャーを手に取った。グラスに水を汲む。
口を付けた。ゴクゴク喉を鳴らすと、細胞が生き返っていく。
「やぁ」
声の方を見る。すると、そこには、稔さんがいた。頬が、ほんのり赤くなっている。
「愈々だね」
「明日は、1日中、飛行機の中だよ」
「ハハハハ、・・・」
酔っているせいで、笑い上戸になっている。稔さんが、カウンターに着いた、手をグッと反らせた。
「美里ちゃんの展示会、観に行けなくて、残念だよ」
「急遽、決まったからね」
不意に、稔さんが、俯き加減にした。
「・・・愈々だ」
「だね。見送りに行こうか?」
「何? 美里ちゃんも、一緒に来る?」
声の方を見ると、マスターが、銀のピッチャーを手に取っていた。
「明日は、8時半で、良かったっけ?」
「助かります」
マスターと目が合った。
「来る? 席なら空いているよ。別に、1人、増えたって構わないし」
何と答えて良いか、分からない。思わず稔さんの方を見た。
「来てくれるなら、嬉しいけど」
「じゃあ・・・」
「じゃあ、明日だけどね。来られるのは・・・」
2人が、話し始めると、カウンターを離れた。
元の席に戻ると、そこでは、一真君と莉奈ちゃんが、恋バナか何かで、盛り上がっていた。店内を見回してみる。マスターが、誠二さんのいる、奧の席へ戻っていたため、稔さんは、と見る。すると、物思いに耽っているのか、まだ、カウンターにいた。冷蔵庫の前では、由香さんと瑞恵さんが、何やらはしゃいでいる。
それから、1時間も経たないうちに、「送り出し会」はお開きとなった。舟木夫妻が、一足先に店を後にする様だ。マスターとのやり取りを聞き流しながら、グラスの残りを飲んでいた。
「稔君、頑張ってね」
その大声で、グラスを口から離した。誠二さんの視線の先を追う。すると、稔さんが、カウンター席から、こちらを振り返った所だった。
「ありがとうございます。お花まで」
「余計な事しちゃったけど」
声の方を見る。すると、そこには、由香さんの大きな笑みがあった。その瞬間、「送り出し会」の成功を確信した。
最後の1杯にと、ジンの瓶を手に取った。
「ありがとうございました」
「お酒ありがとうね」
声の方を見る。すると、一真君が、すっかり空になった、白のボックスケース片手に、立っていた。その反対側には、マスターの笑みがあった。
「また、宜しくね」
「フフフフ。言っときますよ」
「1度きりの人生だし、試さなきゃ」
声の方を見る。すると、そこには、稔さんの大きな笑みがあった。
「考えときますよ」
一真君と稔さんは、2人だけが分かる秘密だという様に、楽しそうに笑い合っている。
カラン、カラン、カラン。
ドアが閉まった。グラスの残りを飲み干しながら、瑞恵さん、莉奈ちゃんと稔さんのやり取りを聞いていた。
グラスを空けた。そこで、人の気配がした。顔を上げる。すると、そこには、稔さんがいた。いつの間にか、話が終わっていた様だ。不意に、稔さんは、俯き加減にした。また、すぐに、顔を上げると、「じゃあ、明日」と言った。彼の目は、真っ直だ。
「じゃあね」
稔さんは、小さく息を吸い込むと、「じゃあ」と繰り返して言った。その間の意味を考えようとした時、「本当に、ありがとうございました」と声がした。その大声に掻き消され、私の疑問は、どんどん他愛のないものになっていった。
人数の減った店内は、静かだ。明日は、皆、用事があるため、今から、残りのメンバーで後片付けすることになっている。
「見送りなんて、良いね」
その声で、顔を上げた。すると、瑞恵さんが、箒の柄に顎を乗せる様にしていた。
「はい」
言葉にした途端、本当に、楽しみになって来た。なぜ、見送りが、憂鬱だったのか、思い出せない。
マスターが、玄関の鍵を閉める様子を、ぼんやり見ていた。
「お試し分しかないけど」
声の方を見る。すると、瑞恵さんが、莉奈ちゃんに茶色い紙袋を手渡していた。
「ありがとう」
「1週間くらい使えば、効果があると思う」
そこで、思い出した。莉奈ちゃんが、乾燥肌について相談していたのだ、と。
「じゃあねー」と言い、莉奈ちゃんとマスターに手を振った。回れ右する。
花屋「HUNAKI」の電気は、すっかり消えている。
「じゃあねー。楽しんで」
声の方を見た。すると、瑞恵さんは、笑顔で、手を振っていた。「気を付けて下さい」と言って、私も、手を振り返す。
鉄階段の下に止めていた、自転車の鍵を外した。乗れる所まで押す。サドルに跨がる。ペダルを踏み込んだ。
大通りは、車の走行音ばかりが、煩い。
部屋の鍵を開けた。
リビングに電気を点けると、床の上に鞄を置いた。
冷蔵庫の中から、水の入ったペットボトルを取り出す。騒いだ後は、どうしたって虚無感に襲われるものだ。こういう時は、何も考えないに限る。口を付けた。喉を鳴らすと、乾涸らびた細胞が、生き返っていく。
シャワーの蛇口を捻る。
熱湯を、頭から浴びていると、体が、芯から温まっていく。過ごしやすい気温だと思っていたが、体は、すっかり冷え切っていた様だ。醒めたと思っていた、酔いが、今度こそ、完全に醒めていく。
いつもの習慣で、冷蔵庫の中から、ジンの瓶を取り出した。少しだけグラスに汲む。
グイッと飲むと、醒めていた、酔いが、また、回る。もう、自分が、酔いたいのか、酔いを醒ましたいのか、分からない。シンクに凭れ掛かると、ぼんやり考えた。なぜ、あんな軽口を叩いてしまったのか。しかし、そこには、何かを期待している自分もいた。それが、何なのか。もう少しで答えが出そうだと思った所で、考えるのを止めた。グラスの残りを飲み干す。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。




