9月5日 吐瀉の夜
白い建物の横にある、鉄階段の下に自転車を止めた。流れ落ちる汗を、手の甲で拭う。9月だとは言え、暑さは、衰えを見せない。影の中から出た瞬間、強烈な太陽が、照り付けた。
花屋「HUNAKI」の前を過ぎると、ロッジ風の建物が見えた。
「コンキリエ」という白いペンキで描かれた、看板を確認すると、その下にある、木製の、分厚いドアを押す。
カラン、カラン、カラン。
冷気が、気持ち良い。そう思い、少しの間、その場にいた後、店内を奥へ進む。
定位置である、カウンターの右端の席に着いた。セルフサービスで、銀のピッチャーからグラスに水を汲む。
口を付けた。喉を鳴らすと、乾涸らびた細胞が、生き返っていく。
「久し振りじゃないですかぁ」
声の方を見る。今日も、莉奈ちゃんは、元気溌剌だ。それが、分かると、億劫な気持ちになった。「そうだね」と言うと、グラスに口を付けた。
「そういや、彼氏と別れましたよ」
その告白に、驚いた。顔を上げる。すると、そこには、莉奈ちゃんの大きな笑みがあった。吹っ切れたのだろうかと勘違いしてしまう。
莉奈ちゃんの話によると、距離は置いてみたが、上手くいかなかったそうだ。
「結局ね・・・」
「青春だねぇ」
声の方を見る。マスターの姿を見止めた途端、緊張の糸が切れた。知らない間に、空気が張り詰めていた様だ。
この夜の際限なく広がっていく様な、大声で叫び出したくなる様な、自由さが、好きだ。繁華街は、カラオケ店の電飾や居酒屋の提灯が、すっかり存在を濃くしていた。1本の道へ入る。静寂な道に笑い声を響かせた。すると、暫くして「Benthos」という、青の電飾が見えた。その横に設置された木製の階段を下りる。
ノックの着いた、木製のドアを押した。その瞬間、緑と青の光に包まれた。深海では、時間の経過速度が遅いのか、この場に1歩、足を踏み入れると、現実が思い出せなくなる。テーブル席にある、藻の形をした、透明の置物の間を抜けた。
「ちょっと待っててね」
声の方を見る。店長が、カウンター奥へ入って行ったのだ。
それぞれカウンター席に着いた。そこで、「お待たせしました」と声がした。顔を上げる。一真君が、現われたのだ。
「遅-い」
莉奈ちゃんが、囃した。
「フフフフ。ご注文は?」
「えっとぉ、ギムレット」
その発言に、驚いた。すると、視線を感じたのか、莉奈ちゃんが、こちらを振り返った。
「飲みたい気分なんですよ」
言って、笑みを浮かべる。
「やるねぇ」
その声で、顔を上げた。一真君は、ニヤニヤしている。楽しんでいるに違いない。
「乾杯」と言い、莉奈ちゃんとグラスを合わせた。
一気に、半分ほど飲み干す。
「おぉーっ」
歓声の方を見た。店内の注目を集めている。どうやら、莉奈ちゃんが、一気飲みした様だ。心配になって声を掛ける。
「大丈夫?」
「全然、平気ですよ」
言って、笑みを浮かべた。それは、いつもと変わらない笑みだ。
2杯目に入った頃から、莉奈ちゃんが、くだを巻き始めた。今まで、そんな素振り見せなかったが、やはり、これが、目的だったのだろう。莉奈ちゃんが、自分の話の反応を期待している様には思えない。そこで、何度も考えた事を、もう1度、頭の中で繰り返してみる。あの1件以来、益々、稔さんの事が、分からなくなった。もう、怒っていないのか。それとも、怒りを押し殺しているだけか。怒っていたら、声は掛けてこないか。稔さんは、何を考えているのだろう・・・。
「大丈夫?」
その声で、我に返った。隣の席を見る。すると、莉奈ちゃんが、椅子から立ち上がろうとしていた。転けそうになったため、慌てて手を差し伸べる。相当、酔いが回っている様だ。
その後も、転けそうになると、手を伸ばし、大丈夫だと分かると、手を引っ込めるという事を繰り返した。
漸く立ち上がったが、カウンターに手を着き、項垂れている。大丈夫かと思った、次の瞬間だった。なんと、この場で嘔吐したのだ!
「大丈夫ですか?」
その声で、我に返った。どうやら、私は、後片付けをする、スタッフの様子を見ていた様だ。そこで、一真君が、おしぼりを差し出してくれている事に気付いた。反射的にそれを受け取る。
腕や洋服は、どこも汚れていない。そこで、吐瀉物は、と見ると、すっかり綺麗になっていた。
「住所、分かりますか?」
その声で、顔を上げた。
「どうかな」
言って、莉奈ちゃんの鞄に手を伸ばした。そこで、急に、不安になった。「良いよね」と言って、一真君を確認する。
「うん」
言って、笑みを浮かべた。それは、当然だと言わんばかりの笑みだ。
取り敢えず、莉奈ちゃんの鞄の中から財布を取り出した。
「ありました?」
「えっと」
手に持っていた、カードを順に繰る。すると、運転免許証があった。
「あった」
玄関口近くで、数名のスタッフが、話している。タクシーが近くまで来ているのだろう。そう思った所で、人の気配がした。振り返る。すると、店長が、莉奈ちゃんの手を肩に回す所だった。
「持って来て貰って、良い?」
店長の視線の先を追う。それは、莉奈ちゃんの鞄へと注がれていた。
「うん」
店長が、車内から出て来た。
「あぁ。それも」
持っていた、鞄を店長へ手渡す。
「美里ちゃんって、莉奈ちゃんの家、知ってたっけ?」
意図は何だろう。そう思い、店長を見ていた。
「送っていける?」
「あぁ、うん」
「本当?」
「うん」
「良かった。さすがに、1人じゃ、帰せない」
「フフフフ」
タクシーに乗り込んだ。運転手に免許証の住所を告げる。
「・・・○○で、お願いします」
バックミラーには、ぐったりした莉奈ちゃんの姿が映っている。先程は、成り行きで、送って行くと言ってしまったが、莉奈ちゃんの部屋を訪れた事はない。これから、先のことを考えると、不安だ。
深夜1時を過ぎている事もあり、住宅街の明りは、ほぼ消えている。ヘッドライトの先に続く闇が、不安を煽る。
不意に、タクシーが止まった。暗闇の中に、2階建ての赤いアパートが、浮かぶ。
会計を済ませると、タクシーを降りた。
後ろのドアから莉奈ちゃんを引っ張り出そうとする。しかし、意識を失った、人間の体は、とても重く、ビクともしない。
「手伝おうか」
とても1人では、対応出来そうにない・・・。
「代るよ」
声がしたかと思うと、車内から運転手が出て来た。
先に部屋ヘ辿り着いた。
部屋の前で、ドアを開けて待っていると、鉄階段に、運転手の頭が、見えた。
「いける?」
「はい」
言うなり、肩にずっしり重みが来た。
どうにか体勢を立て直した。そこで、運転手は、と見ると、階段を下りる所だった。本当は、部屋の中まで運んで欲しかったが、仕方ない。
1人で支えるのが難しく、殆ど引き摺っていた。こんな事をしている間に、起来ても良さそうだが、その気配はない。
どうにかベッドの上に莉奈ちゃんを寝かせた。その場にへたり込む。
教科書、ハート型の時計やショッキングピンクのラック。次第に、周りの景色が、鮮明になって目に飛び込んで来た。すると、莉奈ちゃんの違う一面を見てしまったという、居心地の悪さがあった。
ドアの鍵を閉めた。
鍵をポストに入れると、その足で鉄階段を駆け下りる。
カン、カン、カン。
目の前に続く暗闇に、足が竦む。部屋へ引き返そうか。そう思い付くも、すぐに、その選択肢はないのだと気付く。一瞬の後、意を決した。道順は、覚えているのだから。道中、大通りばかりを選んで進んでいたため、意外と覚えやすいと思っていたのだ。街灯の下に入ると、安心した。しかし、そう思ったのも束の間、その場を過ぎると、また、すぐに、暗く、心許ない道に逆戻りした。
人影にギクリとする。内心、ビクビクしながらも、平静を装い、擦れ違う。30代前半のスーツ姿の男性だ。こんな時間まで仕事だろうか。何事もなく、無事に擦れ違えた事に、ホッと安堵した。
暫くすると、また、人影があった。20代後半の、赤いミニドレス姿の女性だ。どこにでも人はいるし、そこには、そこに住む人達の暮らしがあるのだ。そう思うと、緊張が、少し和らいだ。
それ以降は、誰とも会わなくなった。それが、逆に、不安を煽る。どこかに誰かいるのではないか。振り返ってみる。
そこには、ポツリ、ポツリ街灯が続いているだけだ。それが、分かると、恐怖に駆られた。
早足が、次第に、小走りになる。振り返ってみても、恐怖が、増すだけだ。そう思うも、癖になって、止められない。足が縺れ、躓きそうだ、そう思いながらも、走る、足を止めなかった。すると、不意に、ネオンが見えた。繁華街だ! それが、分かると、残りの力を振り絞り、全力で走った。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。




